アルパイ・オザラン

概略

Alpay Özalan Milli Takım Golleri
国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 1973年5月29日(47歳)
出身地 イズミル
身長 188cm
体重 83kg

 

Alpay Özalan

 

ポジションはディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

1990年代後半から2000年代前半にかけて活躍したトルコ代表のセンターバック。

 

2002年ワールドカップではFIFAワールドカップオールスターチームに選手された。

 

トルコで史上7番目にキャップの多い選手です。

 

獲得タイトル

クラブ

ベシクタシュJK
  • シュペル・リグ:1回(1994-95)
  • テュルキエ・クパス:2回(1993-94、1997-98)

アストンヴィラ

  • UEFAインタートトカップ:2001

浦和レッドダイヤモンズ

  • 天皇杯:2005

代表

トルコ

  • FIFAワールドカップ:3位:2002
  • FIFAコンフェデレーションズカップ:3位:2003年

個人

  • UEFAフェアプレー賞:1回(1996)
  • FIFAワールドカップオールスターチーム:1回(2002)
  • J1リーグ最優秀DF賞:1回(2004)

 

経歴

Alpay Özalan | Aston Villa | 2000-2003
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1991-1992 トルコの旗 ソマ・リンイットスポル 19 (2)
1992-1993 トルコの旗 アルタイ 23 (1)
1993-1999 トルコの旗 ベシクタシュ 148 (9)
1999-2000 トルコの旗 スィイルトスポル 0 (0)
1999-2000 トルコの旗 フェネルバフチェ (loan) 29 (3)
2000-2003 イングランドの旗 アストン・ヴィラ 57 (1)
2003-2004 大韓民国の旗 仁川ユナイテッド 8 (0)
2004-2005 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ 13 (0)
2005-2007 ドイツの旗 ケルン 48 (1)
1991-2007 合計 345 (17)
代表歴
1992-1994 トルコの旗 トルコ U-21 19 (0)
1993 トルコの旗 トルコ U-23 4 (0)
1995-2005 トルコの旗 トルコ 90 (4)

 

クラブ

 

TFF3.リグ (4部) のソマ・リンイットスポル でキャリアを開始し、地元でスュペル・リグ (1部) のアルタイSKに加入する。

 

空中戦と1対1での競り合いの強さが認められ、1993年に同リーグの強豪ベシクタシュJKへ移籍。

 

ベシクタシュでは、リーグ最多記録となる僅か半年で3度ものレッドカードを提示されながらも、翌1994-95シーズンにはリーグ制覇に貢献する等、中心選手として6年間で148試合6得点を記録した。

 

その後、ベシクタシュとの新たな契約を勝ち取ることが出来なくなると、TFF1.リグ (2部) のスィイルトスポル と契約し、すぐさまフェネルバフチェSKへ期限付き移籍に出されて、1シーズンの在籍で29試合3得点を記録した。

 

翌2000-01シーズンも引き続きフェネルバフチェへの期限付き移籍が決定したと報じられていたものの、ギリシャ・スーパーリーグ (ギリシャ1部) のオリンピアコスFCと交渉しており、最終的に7月20日に移籍金560万ポンドでプレミアリーグ (イングランド1部) のアストン・ヴィラFCと合意し、28日に労働許可証が下りて正式に4年契約を締結した。

 

2000年8月、昨季の中心選手のウーゴ・エヒオグを控えに追いやって先発を務めたレスター・シティFCとの開幕戦では、相手FWのスタン・コリモアに仕事をさせずに高評価を得るパフォーマンスで無失点に貢献する上々の出だしを切ると、以来、共に守備を支えるガレス・サウスゲートやガレス・バリーとの強固な連携は、同リーグのアーセナルFCとニューカッスル・ユナイテッドFCから関心を寄せられるものだった。

 

翌2001-02シーズンは、8月のマンチェスター・ユナイテッドFC戦においてオウンゴールをしたようにミスを見せながらも、引き続き守備の要としてプレーし、新加入のオロフ・メルベリとコンビを組んでチームを支えていたが、2001年12月に足首の靭帯を損傷したことで、シーズン最後の本拠地での試合となったサウサンプトンFC戦まで離脱していた。

 

先の負傷の影響を感じさせない2002 FIFAワールドカップでの活躍から、FCバルセロナやインテルナツィオナーレ・ミラノといった欧州の強豪クラブに関心を寄せられ、自身も退団を望み、契約が2年残っていたにもかかわらず、開幕を前にした2002年8月11日に移籍志願書を提出した。

 

しかし、許可を得られないどころか、グレアム・テイラー監督から「このチームでプレーしたい選手だけが必要」と構想外を示唆されると、実際に10月21日のサウサンプトン戦を最後に4ヶ月出番が訪れなかったように出場機会の多くを制限されており、その状況に同僚のピーター・シュマイケルからタイムズ紙で「ワールドカップ後、彼がテイラーによって出場禁止となったことは悲しかった。実像とは違い守銭奴のように描かれていた」と擁護する発言をされるも、状況が変化することはなかった。

 

翌2003-04シーズン序盤にようやくトップチームに呼び戻されると、シーズン最初の本拠地での試合チャールトン・アスレティックFC戦において、自チームのファンのブーイングを受けながらも得点を挙げたアルパイは、自身の口に指を当てるパフォーマンスをファンに対して示した。

 

しかし、その後、代表戦でのデビッド・ベッカムに対する舌禍事件によって英国民の反発を招いたことで、チームのダグ・エリス会長から「最近の出来事によって、アルパイがアストン・ヴィラ、ひいては英国での生活が困難になった。そのため、両者にとって最善なのは2004年6月までの契約を即時解消することであり、彼も同意した」と解雇されたことが2003年10月23日に発覚した。

 

自由契約選手となった自身にヴェルダー・ブレーメン、ハンブルガーSV、ボルシア・メンヒェングラートバッハ、ヘルタ・ベルリン、ボローニャFCといった多くのクラブが関心を寄せていたものの、欧州の移籍市場最終日が過ぎても所属先が決定せず、2004年1月29日にKリーグ (韓国1部) の仁川ユナイテッドFCと2年契約で合意した。

 

仁川入団会見では6ヵ月後には韓国語でインタビューしたいと意欲を見せたが、ラフプレーが目立ち、対峙した一人であるエジミウソン・ジアス・デ・ルセナはアルパイのタックルで引退に追いやられた。

 

さらに、チームメートへの中傷や練習の無断欠席、日本移籍が目標と公言する態度からも批判の的となった。

 

昨年オフにも興味を示されていたJリーグ ディビジョン1 (日本1部) の浦和レッドダイヤモンズから条件の良いオファーが届いたことで、2004年6月2日に浦和と合意し、それから数日後に正式に7月1日からの契約を締結したことが発表された。

 

仁川での同僚前園真聖やヴィッセル神戸に在籍する同胞イルハン・マンスズからリーグの情報を得て、チームを王者に導くと意気込んだアルパイは、1年目こそ、田中マルクス闘莉王、ネネと共に強固な3バックを形成し、守備の要としてセカンドステージ制覇に貢献したが、2年目になると、鹿島アントラーズとの開幕戦において鈴木隆行への暴行でレッドカードによる退場、1試合の出場停止明け後の大分トリニータ戦では1枚目のイエローカードに不満を示し、ピッチ横の給水ボトルを蹴り上げ2枚目のイエローカードを提示され、わずか3分で退場をする等、ピッチ外とは打って変わってピッチ内では荒々しい面を見せていた。

 

その後、2ヶ月近く出番が訪れない中、エースであったエメルソンの退団で新外国人獲得を模索するチーム事情と、それに伴う外国人枠も影響して5月30日に契約解除が発表されたことで、5月15日の横浜F・マリノス戦が浦和での最後の試合となった。

 

2005年7月30日にブンデスリーガ (ドイツ1部) の1.FCケルンと2年の延長オプション付きで1年契約を締結する

 

12月のハンブルガーSV戦で相手のギー・デメルに対して肘打ちをして4試合の出場停止になったようにケルンでも浦和時代と同様に問題行動を起こしていた。

 

更に2006年3月の1.FCニュルンベルク戦においては、低調なプレーに終始しており、コンビを組んでいたボリス・ジヴコヴィッチと共にペナルティーキックを与えて前半でロベルト・ヴィッテクのハットトリックを許す失態を犯して38分に交代させられると、試合終了を待たずに帰宅する問題児ぶりを見せた。

 

そのため、ケルンでの最後の試合との見方をされ、また、チームも2部に降格したが、周囲の予想に反して延長オプションが行使され、2006-07シーズン以降も残留することとなった。

 

レギュラーとしてプレーする中、ベシクタシュで師事したクリストフ・ダウム監督が2006-07シーズン途中に就任したことに伴い、主将に任命される等、充実したシーズンを送っていたが、2007年6月下旬の足首の負傷の影響から、翌2007-08シーズンは出場機会を得られずにいた。

 

すると、メジャーリーグサッカーへの移籍を熱望すると共にダウム監督を批判しており、この行動でトップチームから外され、オーバーリーガ (4部) のセカンドチームでのプレーを余儀なくされる厳しい状況下に置かれたが、最終的に同2007-08シーズンの冬の移籍市場での退団をケルン側から許可された。

 

だが、受け入れ先が見つかることはなかった。

 

代表

 

トルコ代表としては、1995年2月15日のルーマニア戦で初出場、同年6月のカナダ戦で初得点を記録しており、初出場を飾って以降、守備の要として起用され、UEFA EURO ’96のクロアチア戦において、ドリブル突破で自陣ゴール前に迫る相手MFのゴラン・ブラオヴィッチに対して、故意のファウルで決定機を阻止しなかったことでUEFAからフェアプレー賞を受賞した。

 

しかし、ブラオヴィッチの得点が決勝点となってチームが敗退したことで、アルパイの対応は母国メディアから疑問が呈され、批判された。

 

UEFA EURO 2000では、初戦のイタリア戦において何度も相手の攻撃を防ぐ中、フィリッポ・インザーギのクロスショットを弾いた所をアントニオ・コンテにオーバーヘッドキックを決められて失点に関与する形となったが、次のスウェーデン戦、ベルギー戦を無失点に抑えてグループリーグ突破に貢献した。

 

しかし、準々決勝のポルトガル戦において報復行為でフェルナンド・コウトを殴ったことで前半30分に退場処分となってしまい、奇しくも2大会連続で敗退の要因となったアルパイは再びメディアから批判された。

 

2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のマケドニア戦でハットトリックを達成する等で攻守に渡ってチームを支え、出場を掴んだ自身初にして唯一のFIFAワールドカップとなった2002 FIFAワールドカップでは、グループリーグ初戦のブラジル戦で相手FWルイゾンを倒したことでペナルティーキックを与えて決勝点を許す最悪の出だしとなったものの、出場停止が明けたベスト16から3位決定戦まで先発を務めてチーム史上最高となる3位入賞、特に復帰初戦の日本戦では相手チームの波状攻撃を防ぎ、同試合の最優秀賞選手に選出される程に貢献し、リュシュテュ・レチベル、ハサン・シャシュと共にオールスターチームに選出された。

 

なお、ブラジル戦のPK判定は、試合後に主審が「ルイゾンのユニフォームを掴んだ時はペナルティーエリア外だった」と認めたことで大きな論争となり、またルイゾン自身も大げさに倒れてPKを誘ったと認めていた。

 

その後、FIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場したアルパイは、2003年10月のUEFA EURO 2004予選でのイングランド戦で相手のデビッド・ベッカムがPKを失敗した直後に挑発し、前半終了後も小競り合いを起こしたのを最後に代表から遠ざかっていたが、2005年9月3日にファティ・テリム新監督によって2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選でのデンマーク戦で代表に呼び戻された。

 

同大会プレーオフのスイス戦で4-2で勝利したものの、4-4のアウェーゴールによって2006 FIFAワールドカップ出場を逃すと、試合終了後に控室へ戻るトンネル内でメフメト・オズディレキ助監督が相手のヴァロン・ベーラミに足を掛けたのを皮切りに発生した乱闘に参加し、後にクラブで同僚となるマルコ・シュトレラーを蹴ったとしてFIFAから6試合の代表試合出場停止と1万5000スイス・フランの罰金の裁定を受けており、同試合が代表最後の試合となった。

 

エピソード

Alpay Ozalan (Turkey) vs David Beckham (England)

普段は穏やかで「いい人」なのに、試合になったら別人のような「乱暴者」になってしまう

 

これまで多くのJリーグクラブでこんな外国人選手を見てきたが、その中でどうしても忘れられない選手がいる。

 

2004年7月に浦和に加入したトルコ代表DFアルパイ・オザラン。

 

2002年日韓W杯でトルコの3位に貢献した実力者だが、前評判はよくなかった。

 

欧州選手権予選のイングランド戦で、事もあろうに、あのベッカムに暴言を浴びせて挑発。

 

ネイマール、ハラだけじゃない!! 長きサッカーの歴史において“追放”された者たち | サッカーダイジェストWeb

 

これが英国民の反感を買い、所属していたイングランドのアストンビラを解雇された。

 

私の中にも「怖い選手」という先入観があった。

 

だが、いざアルパイに見てみると、危ない雰囲気なんてどこにもなかった。

 

とにかく紳士でフレンドリー。

 

チームに打ち解けようと日本文化を積極的に勉強している姿には好感が持てた。

 

当時のチームでもすぐ人気者になった。

 

浦和の中心選手だった岡野雅行(昨季限りで現役引退)からはヘンテコな日本語をたくさん吹き込まれた。

 

ナビスコ杯決勝の前夜祭に向かう前、スーツを着込んだアルパイが「ドンペリ、イッポン、ハイリマシタ」とホスト風のセリフを連呼して周囲を笑わせていたが、これも、岡野の仕業だった。

 

ピッチの中では頼もしかった。

 

闘莉王、ネネと組む3バックは強力で、ナビスコ杯決勝こそPK戦の末にFC東京に敗れたが、リーグ戦では第2ステージ優勝の立役者となった。

 

「私のことを取り上げてくれてありがとう。トルコにその記事を持って帰るよ」と小さな記事だったにもかかわらず、私にお礼を言いにきてくれた姿に悪童の風情なんてどこにもなかった。

 

ところが、アルパイの「本性」は翌年05年の開幕戦・鹿島戦で出た。

 

闘志ばかりがカラ回りし、前半終了間際に鹿島FW鈴木隆行に“ノド輪”を食らわせて一発退場。

また退場しそう…」感情爆発で常にサポーターを“ハラハラ”させた外国人選手たち (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

1試合の出場停止明けで臨んだアウェーの大分戦でも主審の判定にキレてしまい、わずか3分間で2枚のイエローカードをもらってまたも退場。

 

浦和に来る前の「荒くれ者」に戻ってしまった。

 

試合後、GMを務めていた森孝慈さん(故人)を「クビですか」と問い詰めた。

 

森さんは「普段はいいヤツなんだけどな。スイッチが入っちゃうとどうにもならない」と困り顔だった。

 

「ジキルとハイド」のような二面性を持ったアルパイはその後2か月近く出場機会が与えられず、5月15日の横浜M戦を最後にJリーグを去った。

 

しばらくしてから、アルパイがW杯予選スイス戦で乱闘事件を起こし、罰金と6試合の出場停止処分を受けたというニュースを聞いた。

 

「やっぱりな」と思った半面、浦和にいた最初の半年の“ナイスガイ”なアルパイは何だったのだろうと思わずにいられなかった。

 

前年のステージ優勝の時に履いていた金色のスパイクを私にくれると約束していたが、それもうやむやのまま終わってしまった。

 

プロレスラーに転身?

 

アルパイ・オザランが、引退後にプロレスラーするのではと噂されているようだ。

 

代表選手時代にはベッカムとの「頭突き騒動」でも話題となったアルパイだが、最近ではレスラーらしい筋骨隆々の写真を公開してり、その分厚い胸板にはすでにサッカー選手の面影はない。

 

 

先日、人気プロレス団体<WWE>への参加が話題となった元ドイツ代表ゴールキーパー、ティム・ヴィーゼと同じく、アルパイも引退後にボディービルディングにのめり込み、この肉体を手に入れたという。

 

日本でもアスリートの第二の人生の選択肢となっている格闘界だが、サッカー選手が相次いでプロレス入りしているドイツでも、今後はプロレスがリタイア後のチョイスのひとつとなりそうだ。

 

しかし2018年6月24日に、公正発展党(AKP)から出馬してトルコの大国民議会に当選し政治家となった。

 

プレースタイル

Alpay Özalan | Kontrolsüz Güç

屈強で強靭な肉体を武器に相手攻撃を封じ込めるストッパータイプのセンターバック。

 

空中戦でも無類の強さを発揮し、相手クロスに対するポジショニングの良さも一流。

 

守備技術もさることながら、その闘志をを剥き出しにして守る姿は相手を恐怖に陥れる。

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