概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年2月22日(49歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 177cm | ||
体重 | 72kg |
Haim Revivo
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、左サイドハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。
利き足は左。
イスラエルが世界に誇る左利きの天才。
1990年代から2000年代にかけて活躍したアタッカー。
セルタではモストボイやカルピンらと共に魅力的な攻撃ユニットを形成した。
獲得タイトル
- トトカップ : 1991-92
マッカビ・ハイファFC
- イスラエル・ステートカップ : 1994-95
フェネルバフチェSK
- スュペル・リグ : 2000-01
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個人
- イスラエル・プレミアリーグ(当時の名称リーガ・レウミット)得点王 : 1994-95, 1995-96
- イスラエル・プレミアリーグ(同上)年間最優秀選手賞 : 1994-95, 1995-96
- イスラエルフットボール殿堂
経歴
クラブ
1990/91シーズン、イスラエルのブネイ・イェフダというチームでデビュー。
その後、着実に実力を付け、1994/95シーズンにはイスラエル有数の強豪チームである、マッカビ・ハイファに引き抜かれる。
そのシーズン、17ゴールを挙げ得点王に輝くと、翌1995/96シーズンにも26ゴールを挙げ2シーズン連続の得点王となり、その頃には、レヴィヴォの名はヨーロッパの多くのクラブに広まっていた。
1996/97シーズンの開幕直後、スペインのセルタに移籍。
セルタはワントップを採用し、トップ下にはモストボイがいたため、左の攻撃的MF専属となる。
このシーズンのチーム成績は散々であったが、レヴィヴォは確かな手ごたえを感じていた。
そして、翌1997/98シーズンから、セルタの快進撃が始まる。
モストボイ、マジーニョ、サンチェス、カルピン、カデテ、エッゲンそしてレヴィヴォという、決して派手ではないが、確かな実力を持つ選手達が魅惑的な攻撃サッカーを見せる。
レヴィヴォは、高い個人技を生かしたドリブル突破と、モストボイとの天才同士の想像性溢れるコンビネーションで左サイドを制圧した。
右のカルピン、トップ下のモストボイ、ボランチにマジーニョ、そして左のレヴィヴォと中盤は、スペインだけではなく、ヨーロッパ屈指の攻撃力を持つとまで評価され、レヴィヴォはワールドクラスの選手となった。
翌1998/99シーズン、セルタにはビクトール・フェルナンデスが監督に就任。
チームはさらに攻撃志向の強いチームとなり、さらに高い評価を得る。
しかし、このシーズン、グスタボ・ロペスという同じく左サイドを主戦場とした選手が加入し、レギュラーはレヴィヴォではあったが、途中交代やスタメンを外れる試合もあった。
とはいえ、このシーズンも素晴らしいパフォーマンスを披露したレヴィヴォは、さらに評価を高め、シーズン終了後にはFCバルセロナとフィオレンティーナが獲得に動いた。
特にFCバルセロナからのオファーは具体的なものであったが、「モストボイ、カルピンらと共にセルタの歴史を創る」という発言をして、残留を表明する。
しかし、1999/00シーズン、ビクトール・フェルナンデス監督は、レヴィヴォではなくグスタボ・ロペスを左サイドに定着させた。
最高のパフォーマンスを披露していたにも関わらず、ポジションを譲ることとなったレヴィヴォは、シーズン終了後には移籍を志願し、このシーズンを最後にスペインを去った。
2000/01シーズンからは、トルコの名門フェネルバチェフに活躍の場を移す。
このシーズン同じく加入した、ラパイッチ、K・アンデルソンらと共に、トルコリーグ最強の攻撃陣を形成。
レヴィヴォは14ゴールを挙げ、リーグ優勝に大きく貢献し、チームの看板選手となる。
しかし2002/03シーズン、レヴィヴォの置かれる立場が急変する。
リーベル・プレートからオルテガが加入したため、またしてもアルゼンチン選手にポジションを奪われることとなる。(結局、オルテガはシーズン中に、トルコの生活が嫌になって、チームに無断で帰国し退団)
そしてシーズン中、以前よりレヴィヴォを高く評価していた、テリムにより宿敵ガラタサライに引き抜かれるが、思ったような活躍を見せることはできなかった。
2003/04シーズン、母国イスラエルに戻ってプレーをするが、このシーズンを最後に現役を引退した。
代表
世代別代表としては、1990年12月18日にリスボンのエスタディオ・ダ・ルスで行われたポルトガル戦でアヴィ・ニムニとエヤル・ベルコビッチと共にU-18、それから1年半後に1992年5月13日のヘルツリーヤ・ムニシパル・スタジアムで行われたトルコ戦でU-21代表初出場を飾った。
U-21代表初出場から半年後にラマト・ガン・スタジアムで行われた1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のスウェーデン戦でA代表初出場を飾って以降、シュロモ・シャーフ監督の下で中心選手として3度のFIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選やUEFA欧州選手権・予選、親善試合26試合に出場した。
イスラエル代表としては、67試合で15ゴールを挙げている。
イスラエルのレベルからして、メジャー大会に出場するというのは、夢のまた夢という感じだが、W杯や欧州選手権の予選では多くの強豪国を苦しめている。
エピソード
セルタでは地位を確立することになるが、移籍してから程なくして1996年10月にユダヤ教の贖罪日にあたるヨム・キプルのため欠場を希望していたが、最終的に試合開始時間を早めることに決定したことでスペイン全土で話題になった。
フェネルバフチェSKでも在籍2季で成功を収め、2001年にリーグ優勝に貢献したが、他から有力な外国人選手が加入すると注目を失い、同じイスタンブールを拠点とするライバルのガラタサライSKと契約したことで様々な論争を引き起こした。
現在は実業家として成功を収め、過去には自身が所属したアシュドッドのオーナーを務めていた。
プレースタイル
非常に高度なテクニックと、想像性を持ち合わせている。
スピードは無いが、巧みなドリブルとコンビネーションで左サイドを突破し、正確なパスでゴールを演出したかと思うと、強烈なシュートでゴールも奪う。
スルスルと抜け出すドリブルは魅力的だった。
またFKの名手でもある。