概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1990年4月2日(31歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 178cm | ||
体重 | 72kg |
Miralem Pjanić
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
当代屈指のレジスタでボスニア・ヘルツェゴビナ代表。
ローマやユヴェントスで活躍後、バルセロナに移籍した。
彼のフリーキックは現役選手で1,2を争うレベル。
獲得タイトル
クラブ
- ユヴェントスFC
- セリエA:2016-17, 2017-18, 2018-19, 2019-20
- コッパ・イタリア:2016-17, 2017-18
- スーペルコッパ・イタリアーナ: 2018
バルセロナ
- コパデルレイ:2020–21
個人
- セリエAチーム・オブ・ザ・イヤー:2016–17, 2017–18, 2018–19
- UEFAチャンピオンズリーグチーム・オブ・ザ・シーズン:2016-17
- ボスニアスポーツマンオブザイヤー:2020
- ボスニアサッカー選手オブザイヤー:2014
- グローブサッカーアワードプレーヤーキャリアアワード:2019
経歴
クラブ
1990年4月2日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国内・ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(当時)のトゥズラに生まれる。
ユーゴスラビア3部リーグでプレーしていた父の影響でサッカーに興味を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を前に一家が逃れたルクセンブルクでサッカーを始めた。
7歳でシフランジュのサッカークラブ、FCシフランジュ95のユースチームに入団した。
14歳でフランスのFCメスの下部組織に入団し、2007年8月18日にパリ・サンジェルマン戦でトップチームデビュー。
同年11月に17歳でプロ契約を結ぶ。
12月15日のFCソショー戦ペナルティーキックで初得点を記録した。
ユース時代から様々なクラブから注目されながらもメスがルクセンブルクの実家に近いことから移籍を拒否していたが、メスの2部降格を機に、2008年7月2日にオリンピック・リヨンへ移籍金800万ユーロで移籍。
2009-10シーズンはチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦、対レアル・マドリード戦やリーグ戦終盤、翌季のUEFAチャンピオンズリーグ出場権をかけたオセールとの直接対決など、重要な試合でゴールを挙げた。
一方2010年1月にヨアン・グルキュフが加入してからはレギュラーを奪われ、出場機会も減少した。
2011年8月31日、ASローマと4年契約を結んだ。
移籍金は1100万ユーロ。ローマでは中盤の主力として、2014-15シーズンには10アシスト、2015-16シーズンには10ゴール12アシストとローマの3シーズン連続チャンピオンズリーグ圏内に入る躍進の担い手として活躍した。
アシストは2シーズン連続でリーグ最多であった。
その活躍からバイエルン・ミュンヘンやFCバルセロナ、チェルシーFC、ユヴェントスFCへの移籍の噂が流れた。
2015-16シーズン終了後の2016年6月、ピャニッチのユヴェントスFCへの移籍報道が流れると、2016年6月9日、ASローマのマウロ・バルディッソーニGD(ゼネラルディレクター)はASローマの公式ラジオでピャニッチからユヴェントスへの移籍の意志を伝える書面を受け取ったとしてその内容を読み上げた。
その後、ユヴェントスは移籍金3200万ユーロでピャニッチの移籍を完了したと発表。
契約は5年間である。背番号はピャニッチの憧れの選手であり、かつてユヴェントスFCに所属したジネディーヌ・ジダンのレアル・マドリード時代の背番号にちなんで5番となった。
9月10日、サッスオーロ戦でユヴェントスでの初ゴールを記録。
2018年8月21日、ユヴェントスとの契約を2023年まで延長した。
新たな年俸は650万ユーロで、これはユヴェントスではクリスティアーノ・ロナウド、パウロ・ディバラに次ぐ3番目の高給となった。
2020年6月29日、FCバルセロナはアルトゥールとの実質的なトレードでユヴェントスFCからの移籍を発表した。
移籍金は6000万ユーロ、ボーナスは最大で500万ユーロ。
契約期間は4年間。
2019-20シーズンは新型コロナウイルス流行によりシーズン終了までユヴェントスFCでプレー。
同シーズンはセリエAで優勝した。
2020年8月にバルセロナへの移籍が正式に完了したものの、同月末に新型コロナウイルスに感染していたことが判明。
9月から始まる全体練習の合流が遅れると報じられた。
代表
幼少期をルクセンブルクで過ごしたことから、ルクセンブルク代表の資格を得て、同国のユースチームに所属するようになった。
彼はルクセンブルク代表として、2006年のU-17欧州選手権に出場しましたが、この選手権はルクセンブルクがホスト国として自動的に出場権を得たものでした。
この大会では、ルクセンブルクの唯一のゴールを決めました。
同年のベルギー戦では4ゴールを挙げ、5-5の引き分けに終わった。
代表入りを決める前、ピャニッチはルクセンブルクとボスニア・ヘルツェゴビナの代表資格を持っていた。
U-19ルクセンブルク代表でプレーした後、2007年からU-21ボスニア・ヘルツェゴビナ代表を選択。
2008年5月、ピャニッチはボスニア・ヘルツェゴビナの新聞のインタビューで「ボスニア・ヘルツェゴビナでプレーしたい」と答えた。
やがてボスニア・ヘルツェゴビナサッカー協会の関係者が注目し、ピャニッチは21歳以下のチームに招集された。
しかし、ピャニッチはボスニアのパスポートを持っておらず、国籍変更にはFIFAの承認が必要だったため、シニアチームに招集されることはなかった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領府のクロアチア人メンバーであるジェリコ・コムシッチの働きかけにより、8か月の待機期間を経て、2008年初頭にピャニッチはボスニアのパスポートを取得した。
2008年8月20日、ブルガリア代表戦でボスニア・ヘルツェゴビナA代表デビュー。
2010年3月3日、サラエボで行われたガーナ戦で2-1の勝利を収め、自身初の国際試合でのゴールを決めた。
ピャニッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナの初の主要大会である2014年FIFAワールドカップの出場権獲得に貢献し、大会の23人のメンバーに選ばれました。
彼はチームのグループリーグ開幕戦でデビューし、マラカナンスタジアムでアルゼンチンに僅差で敗れました。
2021年3月31日、2022年FIFAワールドカップ予選のフランス戦で1-0の敗戦を喫し、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表として100試合目の出場を果たしました。
エピソード
その出自や経歴からボスニア語、ルクセンブルク語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の5カ国語を話すことができる。
高いFK決定力を誇るピャニッチ。
彼については、あのジュニーニョ・ペルナンブカーノが語った言葉が紹介されている。
ジュニーニョは『Tuttosport』に対し、「僕らは練習後に残って、よく練習したものさ。彼には才能があり、学びたいという素晴らしい意欲があった。僕がリヨンを去った時、彼が僕の8番を受け継いだ」と述べているそう。
さらに、「中央じゃない位置から(のFKで)もより決定的になることを期待しているよ。ピャニッチは未来だ」とも語り、後輩への期待を口にしているそうだ。
ピャニッチの「異例の移籍」で大もうけ
バルセロナとユヴェントスの間で行われたトレード移籍。
アルトゥールとミラレム・ピャニッチが交換されたのだが、その条件が通常のものではなく、アルトゥールを7200万ユーロ(およそ87.5億円)、ピャニッチを6000万ユーロ(およそ72.9億円)として移籍金を支払いあい、差額の1200万ユーロ(およそ14.6億円)をユヴェントス側が支出する…という謎めいた取引だった。
これは財政的に利益が生まれたように見せるための取引だったと言われており、新型コロナウイルスによる影響の経営難を解決するための手段だったそう。
『Calcio e Finanza』によれば、この異例の取引になったことで得をしたのが、当該の選手がかつて所属したクラブ。
FIFAの規定によって移籍金の5%はかつて所属していたクラブに支払われることになるため、ピャニッチがとてつもない金額になったことで金額が跳ね上がったのだ。
ピャニッチが所属していたローマに60万ユーロ(およそ7300万円)、リヨンに45万ユーロ(およそ5500万円)、メスに105万ユーロ(およそ1.3億円)、そしてユース時代のシフランジュに90万ユーロ(およそ1.1億円)が渡ることになったという。
プレースタイル
広い視野と正確な判断から繰り出す長短のパス、高い精度を誇るフリーキックを武器とするミッドフィールダー。
キャリア当初はスピードやドリブル突破を生かしたシャドーストライカーであったが、テクニックの上達にしたがって正確な判断でパスを供給する司令塔タイプの選手となった。
ローマでは攻撃的なチームスタイルの中で、ドリブル技術やパスセンス、ミドルシュートなどの能力を発揮しフランチェスコ・トッティに次ぐ攻撃の中心としてプレーした。
ユヴェントス移籍後はマッシミリアーノ・アッレグリにより中盤の底に配置されると、ボール奪取やドリブル突破は他の選手に任せて前線やサイドにミドルパスを供給するプレイメイカー、アンドレア・ピルロに代わるレジスタとしてプレーしている。
卓越した戦術眼に技術、正確なパスでチームを動かす司令塔へと成長した。
またピャニッチ自身も目標としてきた選手としてピルロを挙げている。
中盤の低い位置を動き回りながら、長短のパスでリズムを刻む。
世界屈指のキック精度を誇り、フィニッシュに繋がるキラーパスも持ち味だ。
セットプレーのキックも特筆に値する。
ピャニッチの身長は180センチです。
結構サイズがあり、この体格は相手に寄せられた際のボールキープなどで生かされているのではないでしょうか。
彼はピッチ上にて、いかにもレジスタ(司令塔)という感じのプレーを見せてくれます。
ボールの受け方やパスの精度、攻撃リズムの変え方が上手です。
ピャニッチは低めのポジションをとることが多く、味方の最終ラインがボールを持っていると必ずと言っていいほどの確率でボールを受けに行きます。
3バックに見えるほど。
このボールに寄っていく動きが上手で、対峙する相手選手に捕まらないような立ち位置をとってパス回しの潤滑化を図ります。
敵陣内でも常にボールの近くに顔を出します。
味方からボールを受けた後は自分でボールをコントロールしながらパスの出しどころを探します。
もちろん長短のパス精度は高いです。
遠いサイドへのサイドチェンジも余裕を感じます。
パス能力に関して2018年8月18日のキエーヴォ戦で両チームトップのボールタッチ116回とパス成功率90.4%、同年9月1日のパルマ戦ではパス成功率100%を記録するなど、2018-19シーズン前半戦のデータで1試合平均65.8本のパスとパス成功率89.5%、1試合平均2.2本のキーパスと5.2本のロングパス成功を記録。
UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19シーズンでも全595本のパスを成功させ全体5位となる成功率89%を記録するなど、データ面からも世界屈指のパサーであると評価されている。
フリーキックやコーナーキックのキッカーを務めることからも、キックの精度がうかがえます。
さらに、ピャニッチは軽く浮かせるチップキックやダイレクトでのパスを時折見せてくれます。
こういった難度の高いキックも得意です。
このあたりはパス回しのリズムが変わって攻撃のスイッチが入るので、司令塔の腕の見せ所といったところでしょうか。
ピャニッチは司令塔タイプの選手の中でも、ペナルティエリアの中に入っていくことが特に少ないタイプという印象があります。
チームの戦術もあるでしょうが。
ただ、持ち前のキックを生かしたシュートは相手の脅威になります。
特に直接フリーキックは世界的な名手のひとり。
とにかく精度と回転のかけ方が上手で、キーパーもノーチャンスな綺麗に巻いたボールをゴールの隅に蹴り込んできます。
フリーキックはスピードがあり落差の大きなゴールキーパーの対処しにくい球筋が特徴であり、また無回転のボールも蹴ることができる。
2013-14シーズンから2015年11月までの2シーズン強で直接フリーキック38本中7本でゴールを決め、ヨーロッパ5大リーグで1位となる成功率18.4%を記録した。
その後やや数字を落とし、同じく2013-14シーズンから2018年1月まででは76本に対し成功11本、成功率14.47%で全体12位となった。
ユヴェントスでは左サイドからのフリーキックの場合ピャニッチ、右サイドからの場合パウロ・ディバラがキッカーを務めていたが、クリスティアーノ・ロナウド加入後は序列が下がり3番手のキッカーとなった。
また流れの中のプレーでも、エリア外にこぼれてきたボールを拾ってシュートすると高確率で枠内に飛ばしてきます。
高難度のボレーシュートも同様です。
セントラルミッドフィルダーの仕事は多岐にわたります。
パスを散らして攻撃をけん引したり、守備では相手のカウンター攻撃を未然に防いだり。
中には果敢に攻め上がる選手もいます。
ピャニッチはほとんどの場合で味方を使う側の選手です。
フリーランニングしてスペースでボールを受けるシーンはかなり稀ではないでしょうか。
時には中盤の選手が飛び出すのが良いアクセントになりますが、ピャニッチはあくまで足下でボールを受けたいようです。
それも一興。
ただ、キャリアの割と前半は攻撃的な位置での起用も多かったようで、ゴール付近でのシュートも上手ではあります。