概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1970年11月15日(50歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 185cm | ||
体重 | 85kg |
Patrick M’Boma
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
ガンバ大阪在籍時には「浪速の黒豹」と呼ばれていた。
1990年代から2000年代にかけて活躍したカネルーン代表のストライカー。
キャリアのピークをJリーグで過ごした珍しい選手。
ガンバ大阪在籍時、規格外のプレーで他を圧倒した。
獲得タイトル
クラブ
パリ・サンジェルマン
- クープドゥフランス:1994–95
- クープドゥラリーグ:1995
メッツ
- クープドゥラリーグ:1996
パルマ
- コッパ・イタリア:2001–02
代表
カメルーン
- 夏季オリンピック:2000年
- アフリカネーションズカップ:2000、2002
個人
- アフリカ年間最優秀選手:2000年
- BBCアフリカ年間最優秀サッカー選手:2000
- アフリカネイションズカップの得点王:2002年
- Jリーグ得点王:1997
- Jリーグベストイレブン:1997
- コッパ・イタリア得点王:1999–2000
経歴
クラブ
パリのスタード・ドゥレストでキャリアをスタート、後にパリ・サンジェルマンFCに移籍。
当時、パリのクラブのジェネラル・マネージャーであり、ラ・ベリショーン・ド・シャトールーの会長であったミシェル・ドゥニソが、パトリック・ムボマにシャトールーでしばらく過ごすように説得した。
ジョージ・ウィア、デビッド・ジノラ、アマラ・シンバ、フランソワ・カルデラロなどが所属していたため出場機会が限られていたので、エムボマはラ・ベリションヌ・ドゥ・シャトールーにレンタルされた。
最初のシーズンを2部で過ごした後、2部が18クラブの2プールから22クラブの1プールに改編されたため、クラブは降格した。
2年目のシーズンをシャトールーで過ごし、17ゴールを挙げ、1994年にフランス3部リーグのタイトルを獲得した。
パリに戻ったものの、当時の監督ルイス・フェルナンデスは彼に自分を表現する機会をほとんど与えなかった。
稀にしかないチャンスでは、その打たれ強さと効率の良さを発揮し、UEFAチャンピオンズリーグの予選ラウンド2ndレグでは、ハンガリーのVaci FC Samsungとの対戦で2得点を挙げた。
翌シーズンは、FC メツに1年間レンタルされました。
シーズン当初は怪我に悩まされていたが、1995-19961年のリーグカップで優勝するなど、好調な成績を収めた。
1997年にJリーグのガンバ大阪に移籍。
圧倒的な身体能力とシュート力で、強烈な存在感を示し、ガンバ在籍時には「浪速の黒豹」と呼ばれていた。
開幕戦となった4月12日のベルマーレ平塚戦でJリーグデビュー、浮き球を巧みにコントロールして相手をかわし、強烈なボレーで初ゴールを決めた。
4月16日の横浜マリノス戦、4月19日の清水エスパルス戦と、開幕から3試合で4ゴールを決めるなど、年間28試合出場25得点の活躍でJリーグ得点王を獲得した。
また同年のJリーグオールスターサッカーでもハットトリックを決めた。
翌、1998年4月18日の柏レイソル戦ではハットトリックを達成した。
Jリーグと代表での活躍が注目され、98/99シーズンの途中からイタリアのカリアリに移籍。
シーズンの半分だけのプレーであったが、7ゴールを記録し初めてヨーロッパで実績らしい実績を残した。
しかし、翌シーズンは身体能力に頼ったプレーがセリエAに順応せず低迷。
00年のシドニーオリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、クラブでの低迷からは信じられないような、素晴らしいパフォーマンスを見せ、カメルーンの金メダルの立役者となり、この年のアフリカ最優秀選手にも選ばれている。
00/01シーズンには、パルマに移籍するが、同じポジションにユーゴスラビアのストライカー、サボ・ミロシェヴィッチが加入したため、あまり見せ場はなかった。
その後、イングランドでもプレーしたが、相変わらずクラブレベルでは実績を残すことはできなかった。
リビアのリーグを経て再びJリーグに復帰。
2003年からはJリーグの東京ヴェルディ1969でプレー。
今度は公募により制定された愛称「ボマちゃん」で親しまれた。
2003年7月16日 予選Aグループ/第6節 ジュビロ磐田戦ではハットトリックを決めた。
2004年シーズンは膝の古傷が完治せず、途中出場が続くようになり、結局、ヴェルディを退団し、ヴィッセル神戸に移籍するものの、度重なる故障のため最後まで本来の輝きを取り戻せなかった。
同年8月29日、2ndステージ第3節のアルビレックス新潟で決めたゴールは現役最後のゴールとなった。
2005年故障のため4試合出場0得点に終わり、5月16日に現役を引退した。
Jリーグでは通算79試合48ゴール、Jリーグカップでは13試合11ゴールの成績を残した。
代表
1995年カメルーン代表デビュー。
カメルーン代表でもエースとしてフランスW杯・アフリカ予選で活躍した。
1998年に行われたFIFAワールドカップ・フランス大会にもレギュラーとして出場するが、この時はチーム事情により第1戦、2戦とも守備的ボランチとしての出場であったため、グループリーグ第3戦での得意のヘッドによる1得点のみにとどまった。
1998年ワールドカップではヨセフ=デシール・ジョブとフランソワ・オマン・ビイクがレギュラーとしてプレーしたため、エムボマはDHとしての出場となったが、大会終了後は若手のサミュエル・エトーと不動の2トップを形成。
カメルーン代表としては着々とキャリアを積み、2000年にはシドニーオリンピックにオーバーエイジで出場し、4ゴールを決めて優勝に導き、アフリカ年間最優秀選手賞も受賞した。
代表の兄貴分として、サミュエル・エトーをはじめ選手にも慕われた。
2002年FIFAワールドカップ日韓大会にも出場。
しかし、直前に両足踵を痛めてしまい、本来の動きを取り戻せないまま、アイルランド戦での1ゴールのみ、チームは1次リーグ敗退に終わった。
2004年のアフリカ選手権では得点王を獲得。
大会後代表を引退した。
エピソード
各カテゴリーの代表で多くのアフリカの選手と対戦してきた中田英寿でさえ、Jリーグ時代に「あんなやつがサッカーをやっていることが反則だよ」というコメントを残している。
来日したモンスター
パトリックがガンバにやってきたのは、97年の1月だ。
日本では当初、無名選手のような扱いを受けていたが、とんでもない。
フランスでも名の知れたストライカーだった。
パリ・サンジェルマンの下部組織で英才教育を受け、下部リーグのシャトールーにレンタルで出されて大活躍。
だが1994-95シーズン、パリに舞い戻った彼を待っていたのは度重なる不運な怪我だった。
左膝の靭帯損傷に足首、ハムストリングと立て続けに傷め、思うように出場機会を得られない。
翌シーズンにはメスに貸し出されて存在を示すも、ふたたび帰還したパリSGでは、当時のリカルド・ゴメス監督と衝突してしまう。
将来を嘱望されながら、伸び盛りな20代前半に、彼はトップレベルでろくにプレーできなかったのだ。
そのエムボマが一度、フランスの情報ページで取り上げられたことがあった。
「パリSGのエースになってもおかしくない大器だったが、怪我ばかりしている。彼は“傷だらけのパンサー(豹)”だ」とレポートされていたのだ。
パトリックのガンバ入団が決まったときに即座に“浪速の黒豹”と命名された。
「パリSGからやってくるエムボマは、ガンバの新エースになり得るタレントの持ち主。“浪速の黒豹”の大暴れに期待だ」と、紹介されJリーグデビューを飾った。
引退後
現在は、カメルーン代表のアドバイザーを経て、実業家として会社を経営。
また、2008年1月にはMF鈴木規郎がフランスのクラブチーム、アンジェに短期留学した際のコーディネイターを務めるなど、FIFA公認代理人としての活動もしている。
2010年9月、2022 FIFAワールドカップを日本で開催するための「招致アンバサダー」に就任した。
プレースタイル
抜群の身体能力を秘めた肉体から強烈なシュートを放ち、イマジネーション溢れるプレーを見せる脅威の黒人ストライカー。
超人的な躍動感と突出した身体能力を持つストライカーだった。
黒人選手特有の圧倒的な身体能力を生かした躍動感あふれるプレーで活躍した。
強靭なフィジカルでパワフルかつダイナミックにゴールを奪う。
スピードもあり規格外の身体能力は敵守備陣をズタズタにした。
身体能力に頼ったプレーのため好調時には超人的なパフォーマンスを見せるが、好不調の波が激しく、ビッグクラブでは能力を発揮する事が出来なかった。