概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1980年12月20日(40歳) | ||
出身地 | ロンドン タワーハムレッツ区 | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 66kg |
Ashley Cole
愛称は「アッシュ」。
2000年代のイングランドを代表する左サイドバック。
アーセナルやチェルシーで活躍した。
全盛期は「世界最高の左サイドバック」との呼び声も高かった。
獲得タイトル
クラブ
アーセナル
- プレミアリーグ:2001-02、2003-04
- FAカップ:2001-02、2002-03、2004-05
- FAコミュニティシールド:2002、2004
チェルシー
- プレミアリーグ:2009–10
- FAカップ:2006-07、2008-09、2009-10、2011-12
- フットボールリーグカップ:2006–07、2位:2007-08
- FAコミュニティシールド:2009
- UEFAチャンピオンズリーグ:2011–12、準優勝:2007-08
- UEFAヨーロッパリーグ:2012–13
個人
- PFAチームオブザイヤー:2002–03プレミアリーグ、 2003–04プレミアリーグ、 2004–05プレミアリーグ、 2010–11プレミアリーグ
- UEFA欧州選手権チームオブトーナメント:2004
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:2004、2010
- 今年のチェルシープレーヤー:2008-09、2010-11
- イングランドプレーヤーオブザイヤー:2010
- プレミアリーグ20シーズンアワード(1992–93から2011–12):
- 20シーズンのファンタジーチーム
- FIFA FIFProワールドXI第4チーム:2013
経歴
クラブ
アーセナルのサポーターとして少年時代を過ごし、16歳であこがれのクラブの育成組織に加入。
アーセナルのアカデミーで育ち、1998年にクラブとプロ契約を交わす。
当初は出番に恵まれず2000年2月にはクリスタル・パレスへとレンタルで放出されるが18歳でアーセナルに復帰。
チームに合流するとブラジル人のシウヴィーニョとレギュラーを争い、17試合で3ゴールを挙げました。
翌シーズン以降は完全にレギュラーの座を手中にし、1年を通して安定したプレーを披露。
2001/02シーズンはリーグとFA杯のダブルを達成。
また、2003/04シーズンはインビジブルズの一員として無敗でリーグを制し、チャンピオンズ・リーグでも本拠ディナモ・キエフ戦で初ゴールを挙げました。
「世界最高の左サイドバック」と言われるほど評価を高めていく。
2004/05シーズンは2度目のFA杯を獲得し、強豪アーセナルの中で必要不可欠の存在になります。
チェルシーから移籍を持ちかけられますが、これが不正行為とみなされ破談になりました。
その後新たに契約を結びますが、2005/06シーズンはケガで11試合にとどまりました。
チャンピオンズ・リーグ決勝には間に合いましたが、バルセロナに敗れました。
全コンペティションで228試合9ゴールの成績を残し、期限最終日にチェルシーDFギャラスとのトレードでチェルシーへ移ります。
この”禁断の移籍”に対してアーセナルファンは大きく反発し、「金目当てで移籍した」「キャッシュリー・コール(キャッシュは金の意味)」と非難されることになった。
加入した序盤はあまり馴染めずにいたものの、徐々に順応していった。
アーセナルのサポーターから「キャッシュリー・コール」とブーイングを浴びますが、2008-09シーズンはウェイン・ブリッジが移籍した事もあり、代えの利かないサイドバック選手として活躍し、プレーヤーズ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
3年目は4年ぶりの30試合越えを果たし、4年目は夫人との離婚がありながら自己最多の4ゴール、特に最終節ウィガン戦で8-0と圧勝して優勝を決定づけました。
FA杯も6度目の勝者となった初の選手になるなど国内ダブルを達成しました。
チームメートのアネルカと共に異なる2つのチームでプレミアリーグとFAカップの二冠を経験した史上初の選手となり、またFAカップ史上最多である6度目の優勝を果たした(アーセナルで3度、チェルシーで3度)。
ファン投票による2010年度のイングランド・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー 2010の最優秀選手に選出された。
6年目はチャンピオンズ・リーグで11試合出場、クラブと自身共に初タイトルを手にします。
翌年の同大会ではグループリーグで敗退しますが、ヨーロッパリーグでは決勝ベンフィカ戦含む3試合に出て優勝しました。
8年目は体力低下にアスピリクエタの好調もあり、加入以来最少の出場機会にとどまりました。
これによりローマへ初の国外移籍を決めます。
ASローマの歴史上初のイングランド人選手となった。
しかし、セリエAの環境になじめず、2015-16シーズン開幕前は、背番号3番を剥奪され、新加入のリュカ・ディニュにつけられるという屈辱を味わった。
結局ギリシャ代表ホレバスの控えとなり、2016年1月に契約を解除し、正式に退団。
2016年1月に、イングランド代表のチームメイトのスティーブン・ジェラードの所属するロサンゼルス・ギャラクシーに加入決定。
3月7日DCユナイテッド戦でデビューします。
3年で6回も退場処分を受けますが、レギュラーの座を守りました。
2019年1月21日、ダービー・カウンティFCとシーズン終了までの契約を結んだ。
なおダービーの監督はチェルシーやイングランド代表でチームメイトであったフランク・ランパード。
同年6月3日、ダービーは契約を更新しないことを発表し、退団。
2019年8月18日、プロ生活20年目を節目に現役引退を発表した。
代表
1999年Wユースに2試合出場した後、2001年3月28日アルバニア戦で代表デビュー。
この試合含め翌年のW杯予選と本大会共に5試合に出てベスト8になりました。
2004年欧州選手権ではチームこそベスト8止まりでしたが主力としてプレー、PKでの得点を決めるなどの活躍で大会ベストイレブンに選出されました。
2006年W杯予選も8試合に先発フル出場し、本大会でも5試合に出場してベスト8になりました。
2008年欧州選手権予選は8試合戦うも敗退しました。
2010年W杯予選もDF陣最多タイの8試合出場とカペッロ監督からの信頼を得て、本大会でも4試合先発しました。
2012年欧州選手権予選デンマーク戦で87試合目を迎え、ケニー・サンソムによるSBの最多出場を更新するなど8試合、ホジソン監督となった本戦も4試合先発しました。
2014年W杯予選はベインズにスタメンを明け渡し、本大会前にはショーの台頭もあって本戦メンバーから漏れ、代表引退を決意しています。
エピソード
歌手のマライア・キャリーと親戚関係にある。
2006 FIFAワールドカップ後にイギリスの人気アイドルグループ、ガールズ・アラウドのシェリル・トウィーディと2年の付き合いの末に結婚したが、2010年5月に離婚した。
禁断の移籍
2006年8月にアシュリー・コールは、同じロンドンのライバルで、アーセナルとはプレミアリーグの覇権を争うようになっていたチェルシーへと移籍する。
当時はチェルシーが相次いでスター選手を獲得していたため、アシュリー・コールはアーセナル・サポーターたちから「契約金が目当てだ」と非難され、一部からは「“キャッシュ”リー・コール」とも揶揄された。
物議を醸した“禁断の移籍”について本人が真相を明かしている。
英公共放送『BBC』の取材で、アシュリー・コールは次のように話した。
「私がアーセナルでプレーし始めたとき、チームにはキーオン、シーマン、ヴィエラ、アンリ、アダムスという核がいた。そして異なるグループ、環境、選手がいるという点で変化することが簡単だった。
だけど、彼らが退団し始めた時、私はアーセナルの勝利の文化に穴が開き始めたと感じた。崩壊しているような気がして、そのギャップを埋められていなかった。だから、異なる文化の中で自分自身を確立するという意味で、そして勝利への意欲と欲求によって、移籍を決断したんだ」
黄金期を担った名手たちの退団と勝つことへの欲求を決断の理由としたアシュリー・コールは、金銭目当てという古巣サポーターたちからの皮肉について、「お互いに感じ取り方にミスがあった」としたうえで、揶揄されることへの不満を露わにしている。
「100パーセント私のせいでもなければ、100パーセント彼らのせいでもない。あの時は少し頑固すぎたのかもしれない。ちょっと辛い思いをした。正直、私は少しだけ子どもっぽかった。でも後悔はしていない。この状況は変えられない。
たまたまそうなっただけのことだ。もしかしたら、運命だったのかもしれない。誰にもわからないだろう? でも、お金についてみんなが思っているようなことはなかった。不公平に感じるよ。クレイジーだね。カネは最後の最後だった」
ただ、アネルカの自伝によれば、ヴィエラに一物ビンタをされて衝撃を受けていたら、アシュリー・コールが「俺の番だな」とか言い始め、その瞬間に移籍を決意したとの話だった。
プレースタイル
当時、世界最高クラスの左サイドバックと称された。
無尽蔵のスタミナを擁し、高精度のクロスやオーバーラップでチャンスを作り、守備では勢いのあるタックルで相手の攻撃を止める。
90分間に渡り絶え間なくアップダウンを繰り返す驚異的な走力を持ち、攻撃においては高い連携意識から度々ゴールを脅かす。
また守備においても体を張ったプレーで見せ場を作る事のできる世界最高峰のLSB。
サイドのプレーヤーらしく空中戦は不得手だが、小柄ながらフィジカルコンタクトにも定評がある。
ハイボール処理と対人プレーには多少難があるものの、ライン際の駆け引き、フェイント、連携の全てに秀で、簡単には相手選手にセンタリングを上げさせない。
スピードに特筆すべきものがあり、アーセナル時代のティエリ・アンリやロベール・ピレスと絡んでのオーバーラップは敵チームに脅威をあたえていた。
加えて粘り強い守備や、安易にファールを献上しない正確なスライディングタックルの技術にも定評がある。
元々は前線を担っていただけに攻撃も得意で、そのままサイドから駆け上がりフィニッシュに持っていく事もある。
また無駄走りも厭わない無尽のスタミナも兼ね備える。
プレー中はやや熱くなりがちだが、闘志あふれるそのメンタリティーはスター軍団・チェルシーにおいても特筆すべきものであった。
高速ドリブルには定評があり、同僚のフランク・ランパードらからも賞賛されている。
プレイ中のタッチのほとんどは左足である。