概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1956年9月14日 | ||
出身地 | ロンドン | ||
没年月日 | 2018年4月4日(61歳没) | ||
身長・体重 | 173cm、70kg |
Ray Wilkins
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
1970年代、チェルシーで活躍したイングランド代表のミッドフィールダー。
1970年代後半、低迷したクラブの将来を期待されたレイ・ウィルキンス。
フットボールへと愛情を注ぐその姿から、彼を取り巻く多くの人々に愛される存在だった。
リーダーとしての高い資質が買われ、クラブ史上最年少でキャプテンを任されると、ブルーズの1部昇格へ貢献してみせた。
1980年代にはマンチェスター・ユナイテッドやACミラン、パリ・サンジェルマンでも活躍した。
同時代、イングランド代表をけん引したミッドフィールダーだった。
獲得タイトル
クラブ
- マンチェスター・ユナイテッド
- FAカップ:1982–83
- FAチャリティーシールド:1983
- レンジャーズ
- スコットランド・プレミア・ディビジョン:1988-1989、1989-1990
- スコティッシュリーグカップ:1988–89
代表
- イングランド
- ラウスカップ:1986
- イギリスのホーム選手権:1977-1978、1981-1982、1982-1983
-
個人
- チェルシー年間最優秀選手:1976年、1977年
- イングランドサッカー殿堂:2013
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1973–1979 | チェルシー | 179 | (30) |
1979–1984 | マンチェスター・ユナイテッド | 160 | (7) |
1984–1987 | ACミラン | 73 | (2) |
1987年 | パリ・サンジェルマン | 13 | (0) |
1987–1989 | レンジャーズ | 70 | (2) |
1989–1994 | クイーンズパーク・レンジャーズ | 154 | (7) |
1994年 | クリスタルパレス | 1 | (0) |
1994–1996 | クイーンズパーク・レンジャーズ | 21 | (0) |
1996年 | ウィコム・ワンダラーズ | 1 | (0) |
1996–1997 | ハイバーニアン | 16 | (0) |
1997年 | ミルウォール | 3 | (0) |
1997年 | レイトン・オリエント | 3 | (0) |
合計 | 694 | (48) | |
代表歴 | |||
1976年 | イングランドU-21 | 1 | (0) |
1976–1986 | イングランド | 84 | (3 ) |
クラブ
西ロンドンのヒリンドンで生まれたレイは兄グラハムと同様にチェルシーのユースでプレー。
1973年10月、17歳という若さでプロ契約を結び、瞬く間にトップチームデビューを飾った。
デビュー戦ではピーター・ボネッティ、ロン・ハリス、アラン・ハドソン、ピーター・オスグッドらとプレーしたレイ。
スタンフォードブリッジで行われたこの試合ではノリッチを3-0で下している。
ウィルキンスの初スタメンは翌年4月のトッテナム戦。
この試合でもチェルシーが勝利をおさめている。
1974/75シーズンにはレギュラーに定着するが、チームは1部からの降格を味わうことに。
18歳でキャプテンマークを巻いたのは奇しくも初スタメンを飾ったホワイトハートレインにて。
レイはその後5年間にわたってチェルシーのキャプテンを務めた。
その後2シーズンはクラブの年間最優秀選手に選ばれたレイ。
長短のパス能力に秀で、エネルギッシュなプレースタイルでゴールを奪うことも。
1975/76シーズンには12ゴール、昇格初年度となった1976/77シーズンには7ゴールを記録した。
今も語り継がれるのは元旦に行われたヘレフォード戦。
ボックス外から巧みなループシュートでネットを揺らしている。
1部では順風満帆とはいかなかったチェルシー。
レイはより守備的なポジションを務めたものの、2シーズンで降格を味わうことに。
1979年にはクラブ記録となる82万5千ポンドでマンチェスター・ユナイテッドへと移籍した。
ブルーズでは通算198試合に出場し、34ゴールを記録している。
レイはユナイテッドで5シーズンの間プレーし、1983年のFA杯決勝では自身のゴールで同大会制覇に貢献。
その後はACミランへと活躍の場を移している。
さらにPSG、レンジャーズを経てイングランドへと帰ると、1997年に現役引退を表明。
QPR、フルハムでもピッチに立っている。
代表
代表デビューは1976年5月。
UEFA欧州選手権1980、1982 FIFAワールドカップ、1986 FIFAワールドカップにも招集された。
通算84試合で24勝を記録し、当時チェルシーで最も多くの代表キャップ数を獲得した選手となった。
エピソード
引退後
引退後は、1年間のみフラムFCの監督をしていた他、1998-2000シーズンはチェルシーのアシスタントコーチをしていた。
2014年9月にヨルダン代表チームの監督に就任したが、AFCアジアカップ2015終了後の2015年2月に退任した。
退任後はテレビやラジオの専門家として働いていたが重度のアルコール中毒を抱えており、4年間の運転免許停止の処分を受けた他、2016年には5週間のリハビリを受けた。
2017年には心臓のバイパス手術を受けている。
2018年4月4日、ロンドンのセントジョージ病院にて死去。
61歳没。
プレースタイル
パス能力に長けたセンターハーフ。
長短のパス能力に秀で、エネルギッシュなプレースタイルでゴールを奪うこともある。
ショートパスもさることながら、ロングレンジのパスもピンポイントで送れる攻撃のオーガナイザー。
中盤で巧みにボールを配給し攻撃のリズムを作った。
リーダーとしての資質も備えた選手だった。