フェルナンド・トーレス

概要

国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1984年3月20日(37歳)
出身地 フエンラブラダ
身長 186cm
体重 78kg

 

Fernando Torres

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

「エル・ニーニョ(神の子)」の異名を持つ。

 

2000年代から2010年代にかけて、アトレティコ・マドリードやリヴァプールやチェルシーで活躍したスペイン代表のストライカー。

 

リヴァプールFCに所属していた2007-08シーズンにリーグ戦1シーズン24得点をあげるなどプレミアリーグを代表する選手とみなされていた。

 

スペイン代表としてはUEFA EURO 2004、2006 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2008、2010 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2012、2014 FIFAワールドカップの6つの主要大会に出場し、UEFA EURO 2008では決勝のドイツ戦で決勝ゴールをあげ、チームの優勝に貢献した。

 

またUEFA EURO 2012ではベンチスタートが多く約190分という長くはない出場時間ながら3得点1アシストを決め大会得点王に輝いた。

 

獲得タイトル

クラブ

アトレティコ・マドリード
  • セグンダ・ディビシオン:2001-02
  • UEFAヨーロッパリーグ:2017-18
チェルシーFC
  • FAカップ:2011-12
  • UEFAチャンピオンズリーグ:2011-12
  • UEFAヨーロッパリーグ:2012-13

代表

U-16スペイン代表
  • UEFA U-16欧州選手権:2001
U-19スペイン代表
  • UEFA U-19欧州選手権:2002
スペイン代表
  • UEFA欧州選手権:2008, 2012
  • FIFAワールドカップ:2010

個人

  • ナイキ・カップ:1995 – 得点王
  • アルガルヴェ・トーナメント:2001 – 得点王・最優秀選手
  • UEFA U-16欧州選手権2001 – 得点王・最優秀選手
  • UEFA U-19欧州選手権2002 – 得点王(4得点)・最優秀選手
  • UEFA EURO 2008 – 優秀選手
  • FIFProベストイレブン – 2008, 2009
  • PFA年間ベストイレブン – 2007-2008, 2008-2009
  • プレミアリーグ月間最優秀選手 – 2008年2月, 2009年9月
  • FIFAコンフェデレーションズカップ2009 – シルバーブーツ賞
  • UEFA EURO 2012 – ゴールデンブーツ賞・得点王
  • FIFAコンフェデレーションズカップ2013 – ゴールデンブーツ賞・得点王

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
2001-2007 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 214 (82)
2007-2011 イングランドの旗 リヴァプール 102 (65)
2011-2015 イングランドの旗 チェルシー 110 (20)
2014-2015 イタリアの旗 ミラン (loan) 10 (1)
2015-2016 イタリアの旗 ミラン 0 (0)
2015-2016 スペインの旗 アトレティコ・マドリード (loan) 49 (14)
2016-2018 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 58 (13)
2018-2019 日本の旗 サガン鳥栖 35 (5)
通算 578 (200)
代表歴
2000 スペインの旗 スペイン U-15 1 (0)
2001 スペインの旗 スペイン U-16 9 (11)
2001 スペインの旗 スペイン U-17 4 (1)
2002 スペインの旗 スペイン U-18 1 (1)
2002 スペインの旗 スペイン U-19 5 (6)
2002-2003 スペインの旗 スペイン U-21 10 (3)
2003-2014 スペインの旗 スペイン 110 (38)

 

クラブ

 

11歳になった1995年、アトレティコ・マドリードの下部組織に入団し、アレビン(11歳から12歳のカテゴリー)に所属する。

 

その後も順調に成長を見せて下部組織のカテゴリーを昇格していく。

 

1998年には、イタリア国内外のUー15世代のクラブが争うナイキ・カップに出場。

 

バルセロナ、ACミラン、ユヴェントスを破ってタイトルを獲得し、大会最優秀選手に選ばれる。

 

その後、この年代の欧州最優秀選手に選出され、超エリートというユース年代の日々を過ごす。

 

1999年、15歳にしてアトレティコとプロ契約を交わし、最初のシーズンはユースチームでプレー。

 

16歳のときにトップチームに昇格。

 

背番号は「9」を与えられ、クラブからの期待の大きさを物語っていた。

 

当時、アトレティコはセグンダ・ディビジオンに所属していたが、脛骨の怪我に苦しんだこともあり、2000年12月まで欠場。2001年5月27日のレガネス戦に途中出場し、17歳でプロデビューを果たす。

 

しかし、チームはプリメーラ・ディビジオンへの昇格を逃す。

 

2001-02シーズンには、後にスペイン代表で共に戦うことになるルイス・アラゴネス監督が就任。

 

才能を買われて出場機会が増えるようになる。成績は36試合に出場して6得点というものだったが、チームはセグンダ・ディビジオン優勝を遂げ、プリメーラ・ディビジオンに昇格する。

 

初めてトップリーグのカテゴリーでプレーすることとなった2002-03シーズンにいよいよ頭角を現す。

 

チームは昇格1年目ということもあって低迷するが、自身は29試合に出場してチーム最多となる13得点を記録。

 

アトレティコのプリメーラ残留に貢献し、新たなクラブの象徴として期待を集める。

 

2003-04シーズンは、19歳にしてチームのキャプテンに任命される。

 

名物会長と呼ばれ、悪名も高かったヘスス・ヒル会長が退任し、新たなサイクルに入ったアトレティコは、台頭してきた若きエースを中心にチームを作ることとなる。

 

大きな責任を背負うこととなったトーレスだが、より一層の奮起を見せ、ゴールを量産。最終的に得点ランク3位に入る19ゴールを決め、チームも7位でシーズンを終える。

 

この頃から「神の子(エル・ニーニョ)」という呼び名が定着し、リーガ・エスパニョーラを代表するストライカーとして認知される。

 

2004-05シーズンは、初の欧州の舞台でのプレーとなるUEFAインタートトカップに出場。

 

準化粧のOFKベオグラード戦では、1ゴールずつを決める。

 

しかし、決勝でビジャレアルに敗れ、UEFAカップ出場権を逃す。

 

チームは例年よりも早く始動したこともあってリーガでは不振が続くが、自身は少ないチャンスを逃して16ゴールを決める。

 

アトレティコの象徴となったトーレスに対し、ビッグクラブが触手を伸ばすようになり、2005年オフにはイングランドのチェルシーが獲得に乗り出したが、エンリケ・センソ会長は「ノーチャンス」とこれを跳ね除けている。

 

2005-06シーズンにクラブは大型補強をおこない、アルゼンチンの名将カルロス・ビアンチ監督が就任し、期待を集めるが、チームは開幕から低調な出来が続く。

 

自身も好不調の波のあるシーズンとなり、マキシ・ロドリゲスが離脱した後は前線で孤立することが多くなる。

 

それでも、13ゴールを決めるが、不満の残るシーズンとなった。

 

2006-07シーズンは、鳴り物入りで入団してきたアルゼンチンの新星セルヒオ・アグエロと2トップを組むこととなる。

 

2006年10月1日のレアル・マドリード戦でゴールを決め、これまで一度もゴールを決めたことがなかった苦手のマドリード・ダービーで初めてゴールを決める。

 

このシーズンは、PKの失敗が多かったが、最終的には15ゴールを記録し、プリメーラ昇格後5シーズン連続での二桁得点を達成。

 

もっとも、チームはトーレスとアグエロの強力2トップを活かし切れず、7位でシーズンを終了。

 

2007年5月にホームでFCバルセロナを相手に0-7と屈辱的な大敗を喫したことで、移籍を決断する。

 

2007年7月4日マドリードで記者会見を開き、イングランド・プレミアリーグのリヴァプールFCへの移籍を発表。

 

愛するアトレティコのサポーターに別れを告げる。

 

リヴァプールは、アトレティコと同様に以前から応援していたクラブであり、当時スペイン代表のチームメイトであるシャビ・アロンソとホセ・マヌエル・レイナが所属していることも決め手となった。

 

背番号は、クラブのレジェンドであるイアン・ラッシュが付けていた「9」となった。

 

8月11日のアストン・ヴィラ戦でデビューを果たすと、8月19日のアンフィールドでのチェルシー戦で前半16分に移籍後初ゴールを記録。

 

シーズン前にあった懐疑的な声をすぐに吹き飛ばし、飛ぶ鳥を落とす勢いでリヴァプールのエースストライカーとしての地位を手にする。

 

2008年2月23日のミドルスブラ戦でハットトリックを達成。

 

さらに2週間後の3月5日のウェストハム戦でもハットトリックを決める。

 

結局、2007-08シーズンは、得点ランキング2位タイとなる24ゴールを記録。

 

ルート・ファン・ニステルローイが保持していたプレミアリーグ初年度の得点記録を塗り替える大活躍となった。

 

また、初挑戦となったUEFAチャンピオンズリーグでも、グループステージ初戦のFCポルト戦で2ゴールの活躍。

 

2008年4月8日の準々決勝アーセナル戦では、2nd legでゴールを決め、チームを2シーズン連続でのベスト4進出へ導く。

 

CLでも2位タイとなる6ゴールを記録。

 

公式戦33ゴールを記録するキャリアハイのシーズンとなった。

 

2年目となった2008-09シーズンも開幕戦のサンダーランド戦で決勝ゴールを決め、順調なスタートを切った。

 

だが、第3節のアストン・ヴィラ戦でハムストリングを負傷して離脱すると、このシーズンはハムストリングの負傷を何度か繰り返す、怪我に苦しむシーズンとなる。

 

2008年10月22日にはCLで古巣アトレティコ・マドリードと対戦し、ビセンテ・カルデロンに凱旋するチャンスかと思われたが、負傷のために欠場となる。

 

それでも、稼動していれば結果は残しており、マージサイド・ダービー、マンチェスター・ダービーの両方でゴールを決め、CLでは2009年3月10日、アトレティコ時代に苦手としていたレアル・マドリードとの1st legで先制ゴールを決め、ベスト8進出に貢献。2位に終わったものの、マンチェスター・ユナイテッドとのし烈な優勝争いを演じたチームにあって、エースとしての仕事は全うした。

 

2009-10シーズンは、シャビ・アロンソがレアル・マドリードへ移籍したこともあり、トーレスとスティーブン・ジェラードへの依存度が強いチームとなる。

 

2009年9月はウェストハム戦の2ゴール、ハル・シティ戦のハットトリックとゴールを量産。

 

12月29日のアストン・ヴィラ戦でのゴールによってクラブ最速記録となるプレミアリーグ50得点に到達。

 

しかし、2010年4月に膝を負傷し、手術を受けることになったため一足早くシーズンが終了。リーグ戦の出場は22試合にとどまったが、それでもチーム最多となる18ゴールを決め、公式戦トータルで22ゴールを記録している。

 

2010-11シーズンは、ラファエル・ベニテスからロイ・ホジソンに監督が代わり、イングランド式を導入するチームの中で孤立することが多くなりながら、結果は残していた。

 

一方、経営が悪化していたリヴァプールは、フロントが変わり、資金繰りのためエースであるトーレスを冬に売却することを決断する。

 

一方、トーレスもシャビ・アロンソやハビエル・マスチェラーノといった主力を放出し、競争力を失っていたチームに限界を感じ、移籍に心は揺れていた。

 

2011年1月31日という移籍マーケット最終日にチェルシーFCへの電撃移籍が発表される。

 

移籍金は当時のプレミアリーグ最高額となる5000万ポンドとされる。

 

突然のライバルクラブへの移籍はリヴァプールサポータからの怒りを買い、「裏切者」と揶揄されることとなる。

 

2月6日につい1週間前まで所属していたリヴァプール戦でデビューを果たすが、ここから今までのキャリアで経験したことのないスランプに陥り、デビューから初ゴールを記録するまで903分間もの時間を費やすこととなる。

 

2010-11シーズン通算の得点数は10ゴールとなり、4年連続で二桁ゴールを達成するが、チェルシー移籍後の得点数はわずか1にとどまった。

 

2011-12シーズンも苦難の日々が続き、チェルシー自体が不調に陥っていたことも影響して、ゴール数が伸びず、メディアやサポーターからの批判が強まっていく。

 

リヴァプール時代のシャビ・アロンソやジェラードのような裏への一発のパスを出すタイプの中盤がいないチェルシーのスタイルとトーレスのプレースタイルが合わず、ロベルト・ディ・マッテオ監督が就任してからはスタメンから外れるようになる。

 

結局、プレミアリーグでは33試合6得点に終わってしまう。

 

その一方、CLでは準決勝のバルセロナ戦の2nd legで試合終了間際にカウンターからバルセロナを沈めるゴールを決め、当初の下馬評を覆す勝利に貢献。

 

決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では後半39分から出場し、初のビッグイヤーを経験。

 

2012-13シーズンに入ってもゴール欠乏症は続き、2012年11月にリヴァプール時代の恩師であるラファエル・ベニテス監督が就任するが、状況がさほど好転することなく、エル・ニーニョの地位は完全に凋落していた。

 

結局プレミアリーグでは8得点に終わり、2シーズン連続で二桁ゴールに届かず。

 

一方、決勝ラウンドから出場することとなったUEFAヨーロッパリーグでは、準々決勝のルビン・カザン戦で2試合3得点の活躍、準決勝のバーゼル戦でも2nd legで貴重なアウェイゴールを決めている。

 

さらに、2013年5月15日におこなわれたベンフィカとの決勝でも、後半15分に先制ゴールを決め、EL優勝に貢献。

 

ELでは7ゴールを決める活躍を見せ、タイトル獲得の立役者となっている。

 

ジョゼ・モウリーニョ監督が就任した2013-14シーズンは、シーズンの前半戦はFWのファーストチョイスという扱いだった。

 

2013年10月27日のマンチェスター・シティ戦で勝ち越しゴールを決め、CLのシャルケ戦で2ゴールを決めるなど、一時は復活を予感させたが、それも長くは続かず。

 

冬にサミュエル・エトーが加入して以降は再び控えのFWという序列に降格する。

 

膝の負傷によって戦列を離れ、コンディションを落としたこともあってモウリーニョ監督からの信頼を失い、プレミアリーグでは5得点に終わる。

 

2014年の夏にチェルシーにジエゴ・コスタが加入したことでトーレスの立場はさらに危ういものとなり、2014-15シーズンの開幕戦はベンチ外という扱いになっていた。

 

モウリーニョ監督の構想外となったことに危機感を募らせ、状況を変化させるために移籍を希望する。

 

2014年8月29日、イタリア・セリエAのACミランへのレンタル移籍が発表される。

 

夏に移籍したマリオ・バロテッリの後釜として期待され、移籍2試合目となった9月23日のエンポリ戦で初ゴールを決める。

 

しかし、これがイタリアで決めた唯一のゴールとなった。

 

その後は、コンディションが安定せず、ベンチを温める機会が増え、試合に出場しても精彩を欠いていた。

 

結局、ミランでの日々はわずか半年で終了することとなる。

 

2014年12月29日古巣であるスペイン・リーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードへの復帰が発表される。

 

2015年1月5日に一度ミランに完全移籍し、アトレティコへレンタル移籍するという形での契約となった。

 

1月7日のコパ・デルレイ5回戦レアル・マドリード戦で7年半ぶりにアトレティコの選手としてピッチに立ち、1月15日の2nd legでは2ゴールを決める活躍を見せる。

 

かつて在籍したときと違い、欧州を代表する強豪クラブとなったアトレティコで絶対的なレギュラーとはいかないまでも、クラブの象徴としての存在感は絶大だった。

 

2015-16シーズンは、マリオ・マンジュキッチがユヴェントスへ移籍したことに伴い、背番号を19から慣れ親しんだ「9」に変更する。

 

しかし、FWにも守備の規律を厳しく要求するディエゴ・シメオネ監督のもとで適用に苦しみ、シーズン前半戦は2ゴールのみに終わる。

 

リーガ第24節のエイバル戦で4カ月半ぶりとなるゴールを決め、これがアトレティコでの通算100ゴール目となる。

 

後半戦に入ってからはシメオネ監督がコンディションを考慮した起用法をしたことで調子が上がり、最終的に11ゴールを記録。

 

自陣にとって5年ぶりの二桁得点到達となる。

 

また、CLでは、準決勝のバルセロナ戦の1st legで勝ち抜けのきっかけとなる貴重なアウェイゴールを決め、決勝進出に貢献。決勝のレアル・マドリード戦では120分間フル出場するが、PK戦では自身の出番が回ってくる前に敗れる。

 

それでも復活を印象付けたシーズンとなった。

 

前のシーズンでの活躍が認められ、2016-17シーズンからは完全移籍という形になる。

 

シメオネ監督は、4人のFWのうちアントワーヌ・グリーズマン以外の3人をコンディションや状況に合わせて使い分ける方針を採っていた。

 

バルセロナ、レアル・マドリードとの三つ巴の優勝争いを繰り広げていたが、2017年3月2日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で浮き球を処理しようとしたときに相手選手と激しく交錯。

 

落下の際に顔面を強打し意識を失ってしまう。

 

幸いにも、迅速な処置が取られ、すぐに病院へ搬送されたため大事には至らず、次の日にはSNSを更新し、無事を報告している。

 

2017年5月27日には、翌シーズンからの移転によりこれが最後の使用となるビセンテ・カルデロンでのエイバル戦に出場し、前半で2ゴールを決める活躍を見せ、慣れ親しんだ本拠地との別れに花を添える。

 

2017-18シーズンは、FWのポジション争いが激化し、ベンチからのスタートの試合が多くなる。

 

2017年12月17日のアラベス戦では、途中出場から後半29分に決勝ゴールを決め、新本拠地メトロポリターノでの初ゴールを飾る。

 

2018年4月9日、2017-18シーズン限りでの退団を表明する。

 

5月19日のUEFAヨーロッパリーグ決勝のオリンピック・マルセイユ戦では、試合終了間際に出場し、優勝の瞬間をピッチの中で立ち会う。

 

5月19日リーガ最終節のエイバル戦では、11年ぶりにキャプテンマークを巻いて出場。

 

65000人が詰めかけたラストマッチで2ゴールの活躍を見せ、千両役者ぶりを発揮。

 

試合後、退団セレモニーがおこなわれ、クラブのアイコンはサポーターに別れを告げる。

 

2018年5月30日にJ1リーグのサガン鳥栖への移籍が決定とJリーグ公式サイトが報じるが、これはミスだったためすぐに削除される。

 

その後、トーレスの去就が日本のサッカーファンに注目され、一度は金銭面に隔たりがあったため破断になったと報じられる。

 

しかし、7月30日にサガン鳥栖への移籍が正式に発表され、記者会見がおこなわれる。

 

背番号は「9」。

 

2018年7月22日のJ1リーグ・ベガルタ仙台戦で初出場。

 

攻撃の形が作れず、勝ち切れないチームの中でなかなか力を発揮できずにいたが、8月26日のガンバ大阪戦でダイビングヘッドでゴールを決め、Jリーグ初ゴールを記録する。

 

降格圏に転落し、J1残留のための起爆剤として11月4日のV・ファーレン長崎戦からキャプテンを任される。

 

11月10日のヴィッセル神戸戦では、スペイン代表時代のチームメイトであるアンドレス・イニエスタとの対決が日本で実現する。

 

J1残留に向け勝利が求められる第33節の横浜F・マリノス戦では1-1の場面で決勝ゴールを決め、J1残留の立役者となる。

 

2019年からは、異例の5人体制のキャプテンの1人に任命される。

 

しかし、チームは開幕10試合でわずか1得点という深刻な得点力不足に苦しみ、低迷。

 

6月21日、8月23日のイニエスタとダビド・ビジャがいる神戸戦を最後に現役を引退することを表明する。

 

引退表明後最初の試合となった6月30日の清水エスパルス戦では、2ゴールの活躍でチームを勝利に導く。

 

8月14日の天皇杯3回戦柏レイソル戦では、敵陣からボールを奪って独走し、ゴールを決める。

 

これが現役での最後のゴールとなった。

 

8月23日ラストマッチとなったホームでの神戸戦にフル出場。

 

試合後、引退セレモニーがおこなわれ、キャリアを終える。

 

引退後は、母国スペインを拠点としながらアドバイザーとして鳥栖に協力をしており、「時間が許す限りは日本にも来るようにしたい」と語っている。

 

代表

 

子供の頃から神童と呼ばれただけのことはあり、各年代のスペイン代表でプレー。

 

同じ年のアンドレス・イニエスタとは14歳の頃からアンダー代表で共にプレーしている。

 

2001年2月には、U-16スペイン代表としてアルガルヴェ・トーナメントに出場し、優勝。

 

5月には、UEFA U-16欧州選手権に出場し、決勝のフランス戦で決勝ゴールを決め、チームを優勝に導くと共に大会得点王に輝いている。

 

9月には、トリニダード・トバコで開催された2001 FIFA U-17世界選手権に出場するも、初戦の1ゴールのみに終わり、グループリーグで敗退している。

 

2002年7月には、ノルウェーで開催されたUEFA U-19欧州選手権にU-19スペイン代表として出場。

 

ここでも決勝のドイツ戦で優勝を決めるゴールをあげており、4ゴールで大会得点王に輝き、大会最優秀選手にも選ばれている。

 

2003年9月6日ポルトガルとの親善試合で19歳にしてスペイン代表デビュー。

 

2004年4月28日のイタリアとの親善試合で代表初ゴールを決める。

 

そのまま6月にポルトガルで開催されたUEFA EURO2004のメンバーに選ばれるが、最初の2試合は共に途中出場となり、大事な第3戦のポルトガル戦でスタメンに抜擢されるが、0-1で敗れてグループリーグ敗退となる。

 

EURO2004終了後、アトレティコ時代の恩師でもあるルイス・アラゴネス監督が就任。

 

ドイツW杯予選では出場機会を増やすと、ベルギー戦で2ゴール、サンマリノ戦ではハットトリックを達成するなど、7試合で11ゴールを決め、チーム内得点王となる。

 

2006年6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは、ダビド・ビジャとの若い2トップで出場。

 

グループリーグ初戦のウクライナ戦でチームの4点目となるボレーシュートを決め、初めての試合でW杯初ゴールを決める。

 

第2戦のチュニジア戦でも後半31分に勝ち越しゴールを決め、試合終了間際にもPKから2ゴール目を決める。

 

結局、ラウンド16でフランスに敗れたものの、ビジャと並んでチームトップの3ゴールを記録し、今後への可能性を見せた大会となった。

 

2008年6月にスイスとオーストリアの共同開催となったUEFA EURO2008に出場。

 

グループリーグ初戦のロシア戦ではビジャのゴールをアシストする。

 

この試合で途中交代の際にアラゴネス監督との握手を拒否したことが采配への不満と報道され、批判の対象となる。

 

しかし、第2戦のスウェーデン戦で前半15分に先制ゴールを決め、批判を自ら打ち消してみせる。

 

チームが圧倒的なボール支配力を駆使して順調に勝ち上がる中、なかなかゴールを決められずにいたが、6月29日のドイツとの決勝では相棒のビジャが負傷のため欠場となり、1トップで出場することとなる。

 

すると、前半33分シャビのスルーパスに反応すると、フィリップ・ラームを持ち前のスピードで抜き去り、最後は体勢を崩しながらのループシュートを決める。

 

このゴールが決勝ゴールとなり、スペインに54年ぶりの優勝をもたらす。

 

殊勲のゴールを決めたトーレスは、決勝のMOMに選ばれ、大会のベストイレブンに選出される。

 

また、2008年のバロンドロール投票では3位にランクインしている。

 

ビセンテ・デルボスケ監督が就任してからは、ゴールを量産するビジャと比べてやや見劣りする活躍となっていた。

 

2009年6月に南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009では、グループリーグ初戦のニュージーランド戦では、わずか17分間でハットトリックを決める。

 

2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。

 

4月に右膝を手術し長期離脱していたため出場が危ぶまれていたが、3度目のワールドカップ出場を果たす。

 

グループリーグ第2戦のホンジュラス戦からスタメンに復帰するが、膝の怪我の影響でプレーに精彩を欠いていた。

 

起用を疑問視する声も挙がる中、デルボスケ監督はトーレスへの信頼を強調する。

 

しかし、その後の試合でも本来の出来とは程遠いパフォーマンスが続き、準決勝のドイツ戦ではペドロ・ロドリゲスにスタメンを奪われてしまう。

 

決勝のオランダ戦では、延長後半から出場し、イニエスタの決勝ゴールに絡んだものの、古傷が再発し、試合終了のホイッスルを待たずにピッチを後にする。

 

スペインがW杯優勝という歴史的快挙を成し遂げた中、自身は結局ノーゴールに終わり、不完全燃焼の大会となった。

 

ワールドカップでの不発に加え、2011年にチェルシーへ移籍した後は精彩を欠く日々が続き、スペイン代表への選出に疑問視する声が日に日に増していた。

 

それでも、デルボスケ監督はトーレスへの信頼を強調し、代表のメンバーとして招集し続けていた。

 

2012年6月に開催されたUEFA EURO2012では、ビジャが負傷のため欠場となったものの、0トップとして起用されるセスク・ファブレガスとの併用が採用されたため出場時間が限定的なものとなる。

 

それでも、グループリーグ第2戦のアイルランド戦では、前半4分の先制ゴールと後半25分の試合を決める3点目という重要な2ゴールを決め、勝利に貢献。決勝のイタリア戦では、後半30分からセスクとの交代で出場すると、後半39分にチームの3点目を決め、さらに後半43分にはフアン・マタのゴールをアシスト。

 

これにより、史上初めて二度のEURO決勝でゴールを決めた選手となる。

 

2012年9月7日のサウジアラビアとの親善試合に出場し、史上最年少でのスペイン代表出場100試合に到達する。

 

2013年6月にブラジルで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013では、グループリーグ第2戦のタヒチ戦で4ゴール1アシストの大暴れ。

 

続くナイジェリア戦でもゴールを決め、通算5ゴールで大会の得点王に輝き、ゴールデンシューズを受賞。

 

大会のベストイレブンにも選出される。

 

2014年6月にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、4度目のワールドカップを迎える。

 

グループリーグ最初の2試合はいずれも途中出場となるが、結果は残せず、チームも連敗でよもやの2試合でグループリーグ敗退が決まる。

 

敗退が決まった第3戦のオーストラリア戦にビジャと共にスタメンで起用され、後半24分にチームの2点目となるゴールを決め、大会初勝利に貢献する。

 

2014年を最後にスペイン代表からは遠ざかっている。

 

スペイン代表通算110試合38得点。

 

エピソード

 

日本のメディアから「スペインの貴公子」と称されるほどの端正な王子様フェイスのイケメンで女性から絶大な人気を誇る。

 

Jリーグへの移籍が決まった際にも全国各地のサッカー女子を狂喜乱舞させたことは言うまでもないだろう。

 

しかし残念な事にすでに既婚者で二児(2009年生まれの娘と2010年生まれの息子)の父である。

 

妻は8歳の頃からの幼馴染であり、2001年7月7日のファーストキスを記念して左足に「VII-VII」とタトゥーを入れている程の愛妻家である。

 

趣味は家族や友人とボードゲームやテレビゲームで遊ぶ事とCDコレクション。

 

日本の漫画『キャプテン翼』の大ファンで、サッカーをやっている子ども達に読むよう勧めているほど。

 

幼少期はキャプテン翼の登場人物の若林源三に憧れてGKをしていたが、顔に来るボールをよけれずに何度も歯を折り、FWへ転向してからは大空翼一筋になったという。

 

ちなみにFWの日向小次郎はあまり好きになれなかったらしい。

一部では、オーストラリアや中国の名門チームの誘いを受けながらも、最終的に日本のJリーグを選んでくれたのは、この『キャプテン翼』好きも少なからず影響したのではないかという見方もある。

 

スペイン代表では同じ都市のライバルチーム、レアルマドリードのDF:セルヒオ・ラモスと仲が良い。

 

練習中、食事中、祝賀会中にと頻繁にイチャついており、お互いのSNSにツーショット写真をアップなど仲の良さがうかがえる。

 

友人のダニ・マルティンがボーカルを務める、スペインのポップロックグループのエル・カント・デル・ロコのYa Nada Volverá A Ser Como Antesというビデオに出演したことがある

 

2005年にはTorrente 3: El protectorというコメディ映画にカメオ出演を果たした。

 

2009年にはTorres: El Niño: My Story(邦題:『フェルナンド・トーレス – 神に選ばれしストライカー』)というタイトルの自伝を出版した。

 

家族や友人とボードゲームやテレビゲームをして遊ぶことが好きであり、またニルヴァーナやホアキン・サビーナのCDをコレクションしている。

 

リオネル・メッシと共にウイニングイレブン2010のイメージキャラクターとしてCMに登場しており、コナミが企画したインタビューで日本のファンに対して流暢な英語で感謝を述べた。

 

アトレティコへの愛

 

幼少期から生粋のアトレティコファンであり、度々アトレティコへの愛を語っている。

 

「学校では、ほぼすべてのクラスメートがレアル・マドリードのファンだった。僕は納得がいかず、いつも祖父の下へ駆け寄った。祖父は簡単な言葉を使い、アトレティコのことを語ってくれた。彼の話は選手たちのことじゃなかった。マドリードの紋章である熊がエンブレムに入っていることなど、アトレティコが僕たちマドリード市民にとって、どのような存在かを真剣に教えてくれた。心に染み入ったのは、この100年の歴史を持つ組織を支えてきたメンタリティーだ。懸命な努力、献身の姿勢、レアル・マドリードという存在に押しつぶされない忍耐力、彼らとは違う形で巨大な存在となることを目指す野心……。祖父から何度も言って聞かされたのは、努力を怠らず、決してあきらめることなく戦い続けることだった。誰かの助けなど必要とせず、強大な権力に立ち向かうチームこそがアトレティコ。だから祖父、そして僕は、永遠にこのクラブの人間であり続けるんだ」

 

人気

端整なルックスで男女問わずファンから高い人気を誇り、2008年12月にプレミアリーグの冠スポンサーであるバークレイズが行った「プレミアリーグで最も好きな選手は?」というアンケートで1位に選ばれた。

 

プレースタイル

 

スピードと爆発的な加速力が最大の売りのセンターフォワード。

 

相手守備の裏のスペースに、スピードを活かして走り込むのが最も得意なゴールパターンである。

 

185cmと長身のため高さも武器であり、ポストプレーのレベルも高い。

 

優れた加速力、スピードと決定力、多彩なフィニッシュパターンを持ち、力強いポストプレーや空中戦の強さ、ディフェンダーとの駆け引きなどが評価されている。

 

そのプレースタイルから「フェノーメノ」と呼ばれている。

 

アトレティコ・マドリードやリヴァプールでは中盤から速い縦パスを受け、スピードを生かして相手守備陣の裏のスペースに走りこむスタイルが持ち味であるが、スペイン代表は中盤からショートパスをつないでゲームを組み立てていくスタイルであるため、前線にトーレスが走りこむスペースがないことが多く、代表では本来の力を発揮していないと批判されることも多い。

 

トーレス自身はスピーディなプレミアリーグのプレースタイルが自分に合っていると語っている。

 

リヴァプールでチームメートだったスティーヴン・ジェラードはトーレスを「ボールを持っていない時の動きも素晴らしい。献身的に前線から守備をしてディフェンダーに余裕を与えず、少しでも相手が躊躇すれば、真っ先にその選手に飛び掛かっていく。それに、ディフェンダーの背後を突く能力にも長けている」と評している。

 

パス回しや組み立てには参加せず、前線から下がることもせず、常にDFラインと駆け引きをしながらプレッシャーを与えるタイプである。

 

現代的なストライカーというよりは、クラシックなタイプのストライカーと言える。

 

そのため、試合の過程の中ではほとんど顔を出さず、ゴールの局面の一瞬だけで仕事をするタイプである。

 

1人で局面を打開できるタイプではないため、パサーとの呼吸が合わないとほぼ何もできなくなる。

 

また、組み立てでの貢献が期待できないため、ティキタカの要素が強くなったデルボスケ監督就任以降のスペイン代表では、前線に走りこむスペースがなくなり、本来の力を発揮できなくなっていた。

 

かなりチームを選ぶタイプのストライカーのため、チェルシーやミランではフィットできないまま終わった。

 

献身的な守備も高く評価されている。

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