概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1920年6月29日 | ||
出身地 | レオン | ||
没年月日 | 1995年 | ||
身長 | 172cm | ||
体重 | 68kg |
César Rodríguez
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右利き。
バルサの最も偉大な選手の一人。
純粋なセンターFWであり、素晴らしいストライカーだった。
その強烈なヘディングシュートで知られていた。
セサル(レオン1920年―バルセロナ1995年)は、アルカンタラとサミティエルに次ぐ3番目の得点王であり、1947‐48年には、24試合中27ゴールをマークし、スペインリーグの最多得点王を獲得した。
また、1941年から1951年まで7年連続で、クラブ内の最多得点王でもあった。
バソラ、セサル、クバラ、モレノ、マンチョンなどによって構成された50年代初期のクラブにおいて、セサルは伝説的な前線の選手となり、チームの鍵となった。
リーガ・エスパニョーラでは226得点を記録している。
獲得タイトル
クラブ
- FCバルセロナ
- ピチーチ賞 1949
- リーグ 1945, 1948, 1949, 1952, 1953
- コパ・デル・レイ 1951, 1952
- ラテン・カップ 1949, 1952
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ 1945, 1948, 1952, 1953
- グラナダCF
- セグンダ・ディビシオン 1941
- エルチェCF
- セグンダ・ディビシオン 1959
経歴
クラブ
レオンのクラブでユース時代を過ごした後、1939年にFCバルセロナに加入した。
レンタル先のグラナダCFで1部昇格を果たし、1941-42シーズンにプリメーラ・ディビシオンデビューした。
彼だけで6得点を奪って勝利したCDカステリョン戦などもあり、得点王争いでは2位につけた。
1942-43シーズンにバルセロナに戻り、1944-45シーズンにはリーグ優勝した。
バルセロナ時代の同僚にはアントニ・ラマレッツやエスタニスラオ・バソラやラディスラオ・クバラなどがいた。
1948-49シーズンは28得点し、ピチーチ賞のタイトルを手に入れた。
1951年のコパ・デル・レイ決勝のレアル・ソシエダ戦では彼の2得点が優勝を決めた。
1951-52シーズンのバルセロナは、1シーズンだけで5つのトロフィーを獲得した。
コパ・デル・レイの決勝のバレンシアCF戦、ラテン・カップ決勝のOGCニース戦と、彼は大舞台でよく得点した。
結局バルセロナでは5度のリーグタイトルと2度のコパ・デル・レイ優勝を果たした。
バルセロナを離れてからは、CD LeonesaやPerpignan FCを経てエルチェCFに在籍した。
テルセーラ・ディビシオン(当時3部)に所属していたクラブを、3シーズンでプリメーラ・ディビシオン(1部)に引き揚げた。
選手生活最後のシーズンは監督を兼任した。
代表
1945年から1952年まで、スペイン代表として12試合に出場し、6得点した。
1945年3月11日のポルトガル代表戦で初出場し、初得点も決めた。
1950年にはブラジルW杯に出場した。
1943年から1954年まで、カタルーニャ選抜として10試合に出場し、5得点した。
1947年10月19日に行われたカタルーニャ選抜とスペイン代表の試合ではカタルーニャ選抜で出場し、彼の2得点もあって3-1で勝利している。
エピソード
指導者時代
エルチェCFで選手兼任監督で1年過ごした後、レアル・サラゴサの監督に就任した。
1960-61シーズンは3位に導き、1961-62、1962-63シーズンはそれぞれ4位と5位で終えた。
1963年のコパ・デル・レイではFCバルセロナに次いで準優勝した。
翌シーズンに就任したバルセロナでは、85試合を率いただけで成功しなかった。
プレースタイル
純粋なセンターFWであり、素晴らしいストライカーだった。
驚異的なジャンプ力で空中戦に強く、その強烈なヘディングシュートで知られていた。
彼の最大の武器はそのヘディングシュートだ。
ポジショニングに優れ、ゴールの嗅覚も抜群でゴールを量産する。
競り合いにも強く、キックシュートも高精度な典型的なストライカーだ。