概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1955年6月8日(67歳) | ||
出身地 | シエサ | ||
身長 | 175cm | ||
体重 | 75kg |
José Antonio Camacho
ポジションはディフェンダー(左サイドバック)。
利き足は左。
「闘将」「エース殺し」の異名を取った。
ニックネームは「マッチョ」。
15年間レアル・マドリードでプレーし、公式戦500試合以上に出場した。
リーガ・エスパニョーラで9度、コパ・デル・レイで5度、UEFAカップで2度優勝するなど、主要大会で19のタイトルを獲得した。
スペイン代表としては81試合に出場し、FIFAワールドカップとUEFA欧州選手権に2度ずつ出場している。
獲得タイトル
クラブ
- レアル・マドリード
- UEFAカップ (2) : 1984-85, 1985-86
- リーガ・エスパニョーラ (9) : 1974-75, 1975-76, 1977-78, 1978-79, 1979-80, 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89
- コパ・デル・レイ (5) : 1973-74, 1974-75, 1979-80, 1981-82, 1988-89
- コパ・デ・ラ・リーガ (1) : 1984–85
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2) : 1988, 1989
代表
スペイン代表
- UEFA European Championship runner-up: 1984
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1972-1973 | ![]() |
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1973-1974 | ![]() |
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1974-1989 | ![]() |
414 | (9) |
代表歴 | |||
1973 | ![]() |
3 | (0) |
1975-1976 | ![]() |
2 | (0) |
1975-1988 | ![]() |
81 | (0) |
クラブ
アルバセテ・バロンピエの下部組織を経て、18歳の時にレアル・マドリードに移ると、すぐにトップチームデビューを果たし、ルイス・モロウニー監督の下で左サイドバックのレギュラーの座を射止めた。
1974-75シーズンには初めてリーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得し、1975-76シーズンには2連覇を果たした。
1978年1月には練習中に重傷を負い、2年近くも棒に振ったが、復帰後の1979-80シーズンにはリーグ3連覇を果たした。
1984-85シーズンと1985-86シーズンには2シーズン連続でUEFAカップ優勝を果たし、エミリオ・ブトラゲーニョなどキンタ・デル・ブイトレのメンバーが全盛期を迎えた1985-86シーズンから1988-89シーズンにはリーグ4連覇を果たした。
1985年にレアル・ベティスからラファエル・ゴルディージョが加入すると、主に左サイドハーフとしてプレーしたゴルディージョと絶妙な連携を見せた。
コパ・デル・レイでも5度の優勝を誇ったが、UEFAチャンピオンズリーグでは優勝することができなかった。
1989年に現役引退するまでに、リーガ・エスパニョーラでは414試合に出場し、公式戦通算では600試合近くに出場した。
代表
20歳だった1975年2月5日、バレンシアで行われたUEFA欧州選手権1976予選のスコットランド戦 (1-1) でスペイン代表デビューした。
13年間守備陣の支柱としてプレーし、常に左サイドバックのレギュラーとして1982 FIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権1984、1986 FIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権1988に出場した。
1984年のUEFA欧州選手権予選ではマルタ戦に11点差を付けて勝利しなければ本大会に出場出来ない条件の中、12-0で勝利し、本大会出場を決めた。(この試合が自身のキャリアで最も印象に残る試合の一つとしている。)。
本大会ではルーマニア、ドイツ、ポルトガルと一緒になったグループリーグを1勝2分の首位で通過し、準決勝ではデンマークに勝利して決勝に進出した。
決勝で開催国のフランスに敗れたが、スペイン代表は前評判を裏切る躍進を見せた。
UEFA欧州選手権1988のグループリーグ最終戦でドイツに0-2で敗れてグループリーグ敗退が決まった後、33歳の時に代表引退を表明した。
13年間で81試合に出場しており、代表引退時点では最多出場記録を保持していた。
エピソード
現役時代対戦して最も手を焼いた相手は、クラシコではいつもマークすることとなったヨハン・クライフとしている。
指導者経歴
1989年に現役引退するとレアル・マドリードのコーチに就任。
1992年にはセグンダ・ディビシオン(2部)のラーヨ・バジェカーノ監督に就任してプロ監督の道を歩み始め、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を果たした。
1993年にはセグンダ・ディビシオンのRCDエスパニョール監督に就任し、やはり1シーズンでプリメーラ・ディビシオン昇格を果たすと、その後の2シーズンは6位、4位と躍進した。
1996-97シーズンはセビージャFCを率いたが、成績不振により18節終了後に解任され、結局セビージャは最下位でセグンダ・ディビシオン降格となった。
1997-98シーズンはRCDエスパニョールを指揮し、1998年夏にはレアル・マドリードのトップチームの監督に就任したが、クラブの首脳陣と意見が合わず、就任からわずか22日後に辞任した。
スペイン代表監督
- ・UEFA EURO 2000
スペイン代表は1998 FIFAワールドカップ後もハビエル・クレメンテ監督続投が決まっていたが、1998年9月5日に行われたUEFA EURO 2000予選のキプロス共和国戦 (2-3) で格下と目されていた相手に敗れてスペイン国内に衝撃を与え、クレメンテ監督は解任された。
カマーチョは後任監督に就任するとすぐに嫌な流れを変え、スペイン代表をUEFA EURO 2000本大会に導いた。
グループリーグではユーゴスラビア、ノルウェー、スロベニアを抑えて首位で決勝トーナメントに進出したが、準々決勝では世界王者であるフランスと対戦し、後に優勝するチームに1-2で敗れた。
- ・2002 FIFAワールドカップ
2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のグループリーグでは6勝2分で勝ち点20を獲得し、2位のオーストリアに勝ち点5差を付けて本大会出場を決めると、スペイン代表は無敵艦隊と呼ばれて恐れられた。
日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップ本大会グループリーグではスロベニア、パラグアイ、南アフリカ共和国に3連勝して決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦ではアイルランドに延長戦の末に勝利したが、準々決勝で韓国に敗北を喫した。
大会終了後に辞任を発表し、後任にはイニャキ・サエス監督が就任した。
その後
ベンフィカやレアル・マドリード、オサスナや中国代表監督などを経て現在に至る。
プレースタイル
闘志を前面に出したプレースタイルで左サイドバックながら高い守備能力を持ちディフェンスのリダーとして活躍した。
エース殺しと言われるほどのマンマークスキルを持ちサイドを切り崩されることはほとんどなかった。
小柄ながらボディコンタクトに強くジャンプ力もあり空中戦でも競り負けなかった。
サイドハーフを務めれるほどの攻撃力も備え、その豊富なスタミナとみなぎる闘志で攻守両面に活躍した名サイドバック。
リーダーとしての素質も備え長年レアルや代表で左サイドバックに君臨した。