概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1954年11月10日 | ||
出身地 | フエンヒローラ | ||
没年月日 | 1992年4月2日(37歳没) | ||
身長・体重 | 169cm、70kg |
Juanito
ポジションはフォワード(右ウイング、左ウイング)。
利き足は右。
レアル・マドリードで10年間プレー。
自らのクラブを「我が家」のように愛しファイトむき出しのプレーで80年代のレアルマドリッドで活躍した選手です。
ウイングとしてバルダーノ、ブトラゲーニョらと共に多くのゴールを挙げました。
背番号7を背負い、284試合に出場して84得点を挙げた。
スペイン代表では6年間で34キャップを数え、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップにも出場したスペインを代表するウインガーだった。
獲得タイトル
クラブ
レアル・マドリード
- プリメーラ・ディビシオン:1977–78, 1978–79, 1979–80, 1985–86, 1986–87
- コパ・デル・レイ:1979–80, 1981–82
- コパ・デ・ラ・リーガ:1984-85
- UEFAカップ:1984-85, 1985-86
ブルゴス
- セグンダ・ディビシオン:1975–76
マラガ
- セグンダ・ディビシオン:1987–88
個人
- 最優秀スペイン人選手:1977
- ピチーチ賞:1984
経歴
クラブ
5人兄弟の長男として産まれたフアニートはUDフエンヒローラのユースで育ち、年齢を詐称してフベニール(15-18歳)のチームでプレー。
13歳でアトレティコ・マドリードユースに加入し、15歳の誕生日の日にフベニールデビューした。
その後もクラブ、代表のユースで活躍したが、アトレティコ・マドリードBチームの監督が変わったことにより戦力外となる。
クラブはカルボ・ソテロへのレンタル移籍を提案したが、それに不満を持ったフアニートはフエンヒローラの実家へと帰ってしまった。
その出来事がきっかけとなり、トップチームの監督であるマックス・メルケルによってプロ契約を行った。
しかし、プロ初シーズンとなる1972-73シーズンのSLベンフィカ戦で脛骨、腓骨を骨折。
完治後はメルケルに変わって指揮を執っていたフアン・カルロス・ロレンソとは衝突を繰り返し、ブルゴスCFへとレンタル移籍された。
移籍後初シーズンではピッチ内外で荒れたが、翌年に完全移籍した後はセグンダ・ディビシオン優勝に貢献する活躍を見せ、1976年にはモントリオールオリンピックでもプレー。
1976-77シーズンにはドン・バロン・アワードの最優秀スペイン人選手に選ばれた。
その活躍によって古巣であるアトレティコ・マドリードをはじめ、同じくマドリードに本拠地を置くレアル・マドリードやFCバルセロナのスペイン3大クラブと呼ばれる3クラブが獲得に乗り出した。
1976年11月、契約金2700万ペセタでレアル・マドリードに移籍。
5月27日のアトラス・グアダラハラ戦でデビュー。
2日後のUNAMプーマス戦では初ゴールも挙げた。レアル・マドリードでは5度のプリメーラ・ディビシオンや2度のコパ・デル・レイ、2度のUEFAカップなどを獲得。
1983-84シーズンには17得点を記録してホルヘ・ダ・シルバと共にピチーチ賞に輝いた。
1986-87シーズンのUEFAカップ準決勝では、ジュゼッペ・メアッツァでの1stレグインテル戦での敗戦後、「ベルナベウでの90分はとても長い」とイタリア語で発言してチームを鼓舞。
その後、2ndレグで逆転し、決勝に進出した。
一方、1978-79シーズンのチャンピオンズカップ、グラスホッパー・クラブ・チューリッヒ戦では、敗退決定後に主審に襲いかかり、2年間の国際大会出場禁止が言い渡された。
また、1986-87シーズンのUEFAカップ準決勝バイエルン・ミュンヘン戦でローター・マテウスの背中を踏むなどの行為を行い、5年間の国際大会出場禁止が言い渡された。
これがきっかけの一つとなり、10年間所属したレアル・マドリードを退団することとなった。
1987年にCDマラガへと移籍し、1990年にレアル・ハエンでキャリアを終えた。
代表
スペイン代表としても活躍。
デビューは1976年10月10日、セビージャで行われた1978年FIFAワールドカップ予選のユーゴスラビア戦で、30分にチームメイトのデル・ボスケと交代して2-0で勝利した。
この相手との2試合目、1977年11月30日のベオグラードでの試合(1-0の勝利)では、交代する際に瓶で叩かれて観客に向かって卑猥な仕草をした。
ワールドカップに2度(1978年アルゼンチン大会と1982年スペイン大会)、欧州選手権に1度(1980年イタリア大会)に参加するなど、34キャップを獲得した。
1982年の大会では、自国開催のユーゴスラビア戦でPKを獲得し、再び勝利した(2-1)。
1976年には、オリンピックサッカー選手となった。
エピソード
引退後、1991-1992シーズン途中までメリダUDの指揮を執った。
1992年4月2日、マルティン・バスケスのレアル・マドリード凱旋試合となるUEFAカップ準決勝トリノ戦観戦後、愛車プジョー・405で帰宅途中にトラックと事故を起こし死去。
不幸にも38歳の若さで交通事故で亡くなったことで伝説となり今もなおマドリーファンに愛され続けています。
2006年2月に行われたコパ・デル・レイ、レアルマドリッド対サラゴサの試合では5点差をつけて勝たなければ敗退が決まってしまうという中、マドリーの選手たちが「今こそ“フアニートの魂”に訴えるべきだ」と気合を入れたという彼のカリスマ性を表すエピソードもあります。
レアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウでの試合では、フアニートの背番号7から7分に「イジャ・イジャ・イジャ! フアニート・マラビージャ!(¡ Illa, illa, illa, Juanito maravilla!)」というコールが行われる。
前述の「ベルナベウでの90分はとても長い」という言葉は、今でもレアル・マドリードの逆境時の合言葉となっている。
プレースタイル
熱いハートと際立つスキルを、愛するレアル・マドリードに捧げたウインガー。
ユニフォームを身にまとうと、常にチームに対する情熱を見せ、その才能と献身的なプレーでファンを沸かせた。
ボールを持てばアーティストとなり、凄まじいまでの勝利への執念を示した。
彼のドリブルは情熱的で多くのファンを虜にした。