概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1975年6月17日(47歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 184cm | ||
体重 | 71kg |
Juan Carlos Valeron
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「エル・フラコ(やせっぽち)」、「エル・マゴ(魔法使い)」。
1990年代から2000年代にかけて活躍した「スペインのジダン」と呼ばれた天才肌のMFで「スーペル・デポル」と呼ばれたデポルティボで中心選手として活躍したバレロン。
現代では少なくなった10番タイプの司令塔であり、繊細なボールタッチと独特なドリブル感覚を持っていた。
獲得タイトル
クラブ
- デポルティボ・ラ・コルーニャ
- コパ・デル・レイ: 2001–02
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ: 2000, 2002
- UEFAインタートトカップ: 2008
代表
- U-21スペイン代表
- UEFA U-21欧州選手権: 1998
経歴
クラブ
1995年、セグンダ・ディビシオンB(3部)に所属していたUDラス・パルマスからデビューし、1995-96シーズンはデビューシーズンながら27試合に出場した。
セグンダ・ディビシオン(2部)に昇格した1996-97シーズンも27試合に出場し、2得点を記録した。
1997年夏にはプリメーラ・ディビシオン(1部)のRCDマジョルカに移籍し、8月31日のバレンシアCF戦(2-1)で10分間出場してプリメーラ・ディビシオンデビューした。
最上位リーグ初挑戦ながらチームの主軸となり、1997-98シーズンは36試合に出場した。
1998年夏、アトレティコ・マドリードに移籍した。
1998-99シーズンにはリーグ戦で5位となってUEFAカップ出場権を獲得し、コパ・デル・レイでは決勝でFCバルセロナに敗れたが準優勝を果たした。
1999-2000シーズンも絶対的なレギュラーとしてプレーしたが、シーズン終了後にセグンダ・ディビシオン降格が決定した。
2000年夏、デポルティボ・ラ・コルーニャに移籍した。
はじめはジャウミーニャとポジションを分け合ったが、次第にレギュラーに定着し、2004年2月に契約延長した。
システマチックなサッカーを基本とするデポルティボだが、バレロンの見せる幻想的なプレーはチームカラーさえ変えてしまうような素晴らしいもので、スペインの片田舎のクラブをUEFAチャンピオンズリーグでも上位に導くなどの活躍を見せた。
2003-04シーズンはリーグ戦3位・UEFAチャンピオンズリーグでベスト4という好成績を残した。
2006年1月、RCDマジョルカ戦の試合終了2分前に左膝の前十字靭帯を断裂する怪我を負った。
2006年夏に練習を再開したものの、プレシーズンマッチのSLベンフィカ戦で左膝の半月板を負傷し、さらに完治したはずの靭帯を再び痛めた。
2007年3月、レアル・マドリード戦で復帰するが、左膝は完治しておらず、2度目の手術に踏み切った。
長期間にわたりリハビリの日々を経て、2008年1月27日、レアル・バリャドリード戦(3-1)で133日ぶりに招集され、アンドレス・グアルダードとの交代で15分間出場した。
2009年1月のレアル・マドリード戦では1098日ぶりにリーグ戦で先発出場した。
2008-09シーズンは再びチームの中で重要な役割を担い、国内リーグでも欧州カップでも活躍した。
2013年6月、デポルティボ退団を発表。
2013年7月14日、古巣のUDラス・パルマスに復帰決定。
契約は1年間。
2016年5月7日、現役引退を発表。
代表
1998年11月18日、イタリア戦(2-2)でスペイン代表デビューした。
2000年にはUEFA欧州選手権2000に出場し、2002年に日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップではスロベニア戦(3-1)で得点している。
2004年にはUEFA欧州選手権2004に出場し、ロシア戦(1-0)では途中出場してすぐに得点したが、グループリーグ敗退に終わった。
エピソード
敬虔なカトリックの一家に育ったが、子供時代は不幸に遭った。
15歳の時、父親がバイク事故で命を落とし、続けて長兄もバイク事故で亡くした。
有望なサッカー選手だったもうひとりの兄は、危険なタックルで膝の靱帯を切って、選手生命を絶たれている。
だがその間、彼は笑みを絶やしていない。
誰にでも丁寧に接した。「リーガ史上、最も善人」と言われるほどだった。
ピッチ内での魅力とは別にプライベートで見せる表情も非常に好感が持て、収入の大半をサッカースクールを経営する兄に渡し、更にガーナに開校したサッカースクールにも多額の私財を投入。
特にこれによってバレロンに金銭的見返りがあるわけでもなく、ここにも彼の素朴な人間性が垣間見える。
スペイン代表ではラウール・ゴンサレスとポジションを争ったが、「僕は控えでもかまわない。僕のせいで人を悪く言ったりしないで欲しい」と公言し、闘争心に欠けるという批判を受けることもあった。
ハビエル・イルレタ監督には「もう少しだけ試合に情熱を注げば世界最高の選手になれる」と評された。
ダビド・シルバと同郷である。
ふたりは人口7000人ほどのアルギネギンという村の出身で、シルバがプロデビューする前からの知り合いである。
彼は2015−16シーズンを最後に現役を退くことを発表した。
「私の人生に意味を与えてくれた神に感謝したい。最高の幕引きができたのは神のお陰だ」
フアン・カルロス・バレロンは引退会見を神への感謝の言葉で始めた。
普通はクラブやチームメート、ファンの名を出すところだ。
言葉に詰まって涙をぬぐうと、すぐにそんな自分に照れ笑いを浮かべた。笑いたいのに泣いてしまう。涙の会見ではなく笑顔で終わろうとしたけれど、感極まってしまった。
そんなところが、彼の人間性をよく表していると思った。
「傷つけようとして足を入れたことは一度もない」という彼の他者への思いやりが、神を信じることによるものであることは、本人が何度も口にしている。
少年時代に兄と父を続けて亡くして以来、キリスト教に救済を求めたことが信仰の道へ入るきっかけだった、という。
バレロンはスペインの全スタジアムで敵味方を問わず拍手される唯一の選手だった。
ワールドカップ決勝でゴールしたイニエスタですら、ビルバオではブーイングされるが、3年前、ラス・パルマスに移ってからのバレロンはデポルティボ時代(00−13)の宿敵セルタのホーム、バライードスでも拍手されるようになっていた。
選手として優れているだけではそうならない。
むしろ優れているからこそ、アウェーでのリオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドへのブーイングは大きくなる。
そんなスペインでバレロンが誰からも愛されたのは、ひとえに人間性ゆえである。
バレロンの悪口を言う人を見たことがない。
グラウンドに入る際に、敵味方を問わず全員の無事を祈るバレロンは、誰に対しても、決して礼や尊敬を欠かなかった。
頭に血が上っての失言や激しいアピール、ラフプレーは誰にでもある。
サッカーに生活を懸けているプロとして真摯(しんし)にあろうとするなら当然だ、とさえ言える。
相手のカウンターを止めるためのファウルは犯すべき、と考えられているし、審判を欺くダイブやシャツをつかむ“マリーシア”(狡猾なプレー)は横行している。
良いことではないが、“必要悪”としてスペインサッカーの一部となっているのだ。
そんなリーグで戦いながら、いや戦ってきたからこそ、誰も成し遂げたことがない大記録を彼は持っている。
05年3月から12年3月にかけての7シーズン、リーグ戦128試合、7000分以上プレーしながらイエローカードを1枚ももらわなかったのだ。
7年ぶりのカードは審判が別の選手と見誤ったからだったが、その選手にとって累積5枚目のカードだったから、デポルティボは異議申し立てをせず記録は途絶えた。
その誤審の直後、バレロンは審判に近づき、「申し訳ないけれどあなたのジャッジは間違っています」と紳士的に告げた、というエピソードが残っている。
昨シーズン、ダイブ気味にペナルティーエリアで倒れた時は、すぐに立ち上がってPKでなかったことを審判に訴えたりもしている。
UEFA(欧州サッカー連盟)やFIFA(国際サッカー連盟)がリスペクトやスポーツマンシップを訴えるキャンペーンをしているが、コンペティションであるサッカーにはきれい事では済まない部分があるのは前述の通りだ。
バレロンの本来称賛されるべきクリーンなプレーも、「闘志に欠ける」という批判を受けた。
プロ選手にとって不可欠とされる、他人を蹴落としてでもはい上がる、というハングリー精神がバレロンにはなかった。
プレースタイル
繊細な技術でゲームを意のままにコントロール、決定的なパスを供給し得点機を演出するスペイン随一のゲームメーカー。
自らゴールを挙げる意識には乏しくシュート技術に特別なセンスを見出すことはできないが、パサーとしての能力は世界的に見てもトップクラスに位置する。
一撃必殺のスルーパスは見る者を魅了し、幾多のチャンスを演出。
そのファンタジー溢れるプレーから同時期にスペインでプレーしていたジネディーヌ・ジダンと比較されることも少なくない。
バレロンの超絶テクニックとして、ドリブルのコース取りの上手さがあげられる。
時には直角ターンであったり時には回転ターン等を使いながら相手の関門をくぐり抜け、ないはずだったスペースを滑走していく。
また、相手選手からすると全く想像できないタイミングでそれはないだろうという効果的なパスを繰り出すことも得意としている。
ボールキープ、ドリブル、パスの能力は一般的な10番のレベルを遥かに上回っており、いずれもS〜SSクラスのすばらしい能力の持ち主だ。
ボールキープと高精度のパスを操る司令塔だが、前を向いてゴールに直結するプレーもできる。
とくにそのテクニックは高レベルで98年代表デビュー以降、00年EUROなどでは中心選手として君臨。
バレロンがプロになろうとしていた90年代はサッカー選手がアスリートと呼ばれ始めた矢先で、フィジカルの弱い選手への風当たりは特に強かった。
しかし、そんな心身のハンディを跳ね返す、誰にも負けないものをバレロンは持っていた。
それが類いまれなサッカーセンスである。
トラップやボールタッチ、キックの精度といった技術はもちろん高かったが、それを効率的に使うすべが身に付いていた。
高度なテクニックも、いつ、どこで、どう使うかを間違えれば宝の持ち腐れである。
誰も見ることができないパスコースを見つけて、浮かせたり芝の上を滑らせたりして、最も有効で受け手に優しいボールを出す。
この判断力はもう天性のセンスと呼ぶしかない。
誤解しないでほしいが、バレロンは芸術家肌の選手ではなかった。
味方が反応できないようなパスを出して自己満足するようなことも、余計なボールタッチでプレーを飾り立てるようなこともしなかった。
「クオリティーはしばしば美しいプレーとか、見栄えするプレーと混同される。私にとってクオリティーとは効率と気品を両立させたもの」という言葉を残している彼にとって、受け手のいないパス、状況打開につながらないタッチは、ミスにしかすぎなかったからだ。
相手の守備陣にとってはサプライズだった“読めないパス”は、バレロンと通じ合えたデポルティボ時代のチームメート、ディエゴ・トリスタンやマカーイにとっては絶好のアシストだった。