概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1970年5月8日(52歳) | ||
出身地 | ヒホン | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 73kg |
Luis Enrique
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ、左サイドハーフ、オフェンシブハーフ、センターハーフ)、フォワード(左ウイング、右ウイング、セカンドトップ)、ディフェンダー(左サイドバック、右サイドバック)。
利き足は両足。
愛称は「ルチョ」。
1990年代から2000年代にかけて活躍したスペインのユーティリティプレイヤー。
どのポジションでもこなす選手で、現役生活の中でゴールキーパー以外の全てのポジションを経験している。
スペイン代表としても94、98、02年と3度のW杯出場を果たした。
バルセロナとレアル・マドリードで活躍した稀有な選手だった。
2004年ペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』(FIFA100)に選出された。
獲得タイトル
クラブ
- レアル・マドリード
- プリメーラ・ディビシオン:1回 (1994-95)
- コパ・デル・レイ:1回 (1992-93)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1回 (1993)
- FCバルセロナ
- プリメーラ・ディビシオン:2回 (1997-98, 1998-99)
- コパ・デル・レイ:2回 (1996-97, 1997-98)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1回 (1996)
- UEFAカップウィナーズカップ:1回 (1996-97)
- UEFAスーパーカップ:1回 (1997)
代表
スペイン
- 夏季オリンピック:1回 (1992)
経歴
クラブ
1989年に地元のスポルティング・ヒホンでプロデビュー。
1991年にレアル・マドリードに移籍すると、中盤のダイナモとして機能し、リーグ優勝に貢献した。
そして右サイドにコンバートされ、ミカエル・ラウドルップ、アマビスカ、レドンドらと中盤を構成。
低迷していたチームの起爆剤となって国内カップとリーグを相次いで制覇しました。
1996年、起用法などを巡って首脳陣と対立し、ライバルチームのFCバルセロナに移籍した。
マドリーのサポーターからは裏切り者扱いされ、バルササポーターからも懐疑的な目で見られていました。
しかしボビー・ロブソン監督によりレギュラーの座をつかむと、同時に加入したロナウドとも息のあったプレーを見せてレアル・マドリードCF時代とは、ガラリとプレースタイルを変えてシャドーストライカーとして機能し、17得点と結果を残します。
同シーズンは2位に終わった。
また、翌97/98シーズンに就任したファン・ハールの戦術も吸収して18得点を決め、リーグと国内カップの2冠やリーグ連覇も果たしました。
エル・クラシコで何度もゴールを決め、カタルーニャ語を学んだことでもファンの信頼度を高めた。
その後フィーゴやグアルディオラといったリーダーが相次いでクラブを去ると、腕章を託されるなど、バルセロナの象徴的な存在となります。
チームは低迷期に入りタイトルこそ獲得できなかったものの、常に全力でプレーする姿勢はシャビやプジョルら生え抜きの若手に多大な影響を与えました。
03/04シーズン終了後に契約満了に伴い現役を引退しました。
プロ生活を通じてリーグ戦通算400試合に出場して102得点を挙げ、2004年8月10日、34歳の時に現役引退を発表した。
代表
1991年、ルーマニア戦でスペインA代表デビューし、1992年にはバルセロナオリンピックでは主力選手として活躍して金メダルを獲得した。
1994年、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに出場し、準々決勝のイタリア戦ではマウロ・タソッティの肘打ちを顔面に受けて流血した。
タソッティはイエローカードさえも受けなかったが、試合後に8試合の出場停止処分を受け、その後はイタリア代表として試合に出場することがなかった。
1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場したが、最高成績はベスト8に留まった。
UEFA欧州選手権2008準々決勝でスペインがイタリアと対戦した際、ルイス・エンリケは「リベンジの機会だ」と叫んだとされている。
ACミランのアシスタントコーチをしていたタソッティはマルカ紙に「あの肘打ちは故意ではなかったのに現在でも話題にされるのにはうんざりしている」と語っている。
スペイン代表として3度のW杯に出場した。
エピソード
現役引退後はサーフィンの練習のためにオーストラリアに移住した。
2005年にはニューヨークシティマラソンに出場し、2006年にはアムステルダムマラソン、2007年にはフィレンツェ・マラソン、2008年にはサハラマラソン(約230kmを走るウルトラマラソン)で完走を果たした。
また、2007年にはフランクフルト・トライアスロンに参加して完走している。
2008年7月にはクラーゲンフルト・トライアスロンに参加する予定だったが、FCバルセロナ・アトレティック監督就任に伴い中止した。
指導者時代
2008年6月18日、FCバルセロナ・アトレティックの監督としてバルセロナに復帰し、「家に戻ってきた。ここで現役生活を終え、ここで指導者の道を歩み始める」と語った。
就任当時のFCバルセロナBはセグンダ・ディビシオンB(3部)に属していたが、2シーズン目の2009-10シーズンにセグンダ・ディビシオン(2部)昇格を決めた。
2010-11シーズンは、本来ならばプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格プレーオフに参加できる3位にチームを躍進させた。
2011年6月10日、2年契約でASローマ監督に就任した。
就任当初はヨーロッパリーグ予選で敗退するなどいいところがなく、徐々に盛り返したものの、チャンピオンズリーグどころかヨーロッパリーグにも出られない7位という成績に終わった。
2012年5月、ローマがルイス・エンリケのわずか1年での辞任を発表した。
2013年6月8日、セルタ・デ・ビーゴの監督に就任。
前年は降格圏ギリギリの17位と低迷していたチームを立て直し、8位にまでチームを押し上げた。
2014年8月、FCバルセロナの監督に就任。
シーズン序盤からローテーションを積極的に採用し、開幕戦ではカンテラーノのムニル・エル・ハダディを先発でトップチームデビューさせた。
9月21日のレバンテ戦では史上初の無失点での開幕4連勝を達成。
10月4日の第7節ラーヨ・バジェカーノ戦にて開幕無失点記録を更新。
2015年1月4日のレアル・ソシエダ戦ではチーム合流の遅れたメッシとネイマールをベンチスタートさせたが、チームは0-1で敗戦し大きな批判を浴びた。
一時はメッシとの確執も噂されたものの、1月11日のアトレティコ・マドリード戦では昨シーズン、6度の対戦で1度も勝利を挙げていない相手に3-1で完勝し、以降は公式戦11連勝を記録するなどチームの立て直しに成功。
シーズン終盤にはライバルクラブが軒並み負傷者の続出によって調子を落とす中、ローテーションの効果もあり万全のコンディションを維持。
4月21日のチャンピオンズリーグ、PSG戦では就任50試合で42勝(勝率84%)とクラブ史上最高の成績を記録した。
リーグでは最終節を残してリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。コパ・デル・レイではアスレティック・ビルバオとの決勝を制してトーナメント9試合での全勝優勝を達成した。
さらにチャンピオンズリーグでは決勝でユヴェントスを下して優勝を果たし、就任初年で3冠を達成した。
シーズン勝率は60試合50勝4分6敗で83%を記録し、就任初年にて50勝を達成した史上初の監督となった。
2015年6月9日、バルセロナとの契約を2017年まで延長した。
11月21日のレアル・マドリードとのエル・クラシコでは敵地で4-0の大勝を果たしている。
2月にはバルセロナでの公式戦通算100試合を指揮し、80勝11分9敗(282得点72失点)という過去最高の成績を記録した。
3月3日のラーヨ・バジェカーノ戦ではリーグ史上最多となる35戦無敗を達成し、最終的に39戦無敗記録を樹立した。
その後はクラシコでの敗戦をきっかけに一時調子を落とすものの、リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ連覇を達成した。
2016-17シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャで優勝し3年目にして全タイトルを制覇した。
8月28日のアスレティック・ビルバオ戦にて史上最速(126試合)で公式戦100勝を達成した監督となった。
2017年3月1日、シーズン終了後の退任を表明。
チャンピオンズリーグのPSG戦では2ndレグで4点差をひっくり返す歴史的な逆転勝利を挙げた。
リーグ連覇は逃したものの国王杯では無傷の3連覇を達成し、3年で9タイトル、勝率は史上最高の76.2%を記録した。
2018年7月に2年契約でスペイン代表の監督に就任。
7試合で指揮を執っていたが、2019年3月26日に行われたEURO2020予選マルタ戦は「個人的な理由」でチームを離脱していた。
6月に行われたEURO予選の2試合も不在で、代わりにロベルト・モレノ副監督が指揮。
同月19日にスペインサッカー連盟(RFEF)を通じて辞任を発表した。
2019年8月29日、自身のツイッターにて、娘のシャナちゃんが9歳で骨肉腫によって5カ月間の闘病の末に逝去したと公表した。
11月19日、スペイン代表監督に再任。
プレースタイル
総合能力の高い選手でなんでもハイレベルにこなすことができた。
本来は右MFですが、GKとCB、ボランチ以外全ポジションに対応するスペインを代表するユーティリティプレーヤー。
心技共にアグレッシブな姿勢でチームをけん引します。
どのポジションでもこなす選手で、現役生活の中でゴールキーパー以外の全てのポジションを経験している。
代表ではセンターフォワードなのに、クラブではサイドバックなどということもあった。
全盛期は2列目の攻撃的なポジション(メディアプンタ)を主に担当した。
ポジションよりも、むしろその感情を剥き出しにするようなガッツ溢れるプレイや、鋭い得点感覚で、スペイン国内のみならず世界中のフットボールファンに愛された選手。
その闘志をみなぎらせた姿から「闘将」とも呼ばれた。