アントニオ・マセーダ

概要

国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1957年5月16日(65歳)
出身地 サグント
身長・体重 190cm、82kg

 

Antonio Maceda

 

ポジションはディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

愛称は「ブロンドの貴公子」。

 

80年代のレアル・マドリードとスペイン代表で活躍したディフェンスリーダー。

 

ラモン・メンドーサ会長の肝入りで入団した選手の一人で、カマーチョ、ゴルディージョ、ウーゴ・サンチェスらと共に「キンタ・デル・ブイトレ」の黎明期で活躍した。

 

選手キャリアは短くメキシコワールドカップで重傷を負い、2年間戦列を離れた後、惜しくも引退を決意。

 

ケガはそれほど深刻だった。

 

獲得タイトル

クラブ

レアル・マドリード

・UEFAカップ1回

・リーグ4回

・スペインカップ1回

・スペインスーパーカップ2回

 

経歴

クラブ
レアル・スポーティング・ヒホン スペイン 1975-1985
レアル・マドリードFC スペイン 1985~1989年
代表歴
1981-1986 スペインの旗 スペイン 36 (8)

 

クラブ

 

1975年、150万ペセタの移籍金でC・D・アセロからレアル・スポルティング・デ・ヒホンと契約した。

 

1976年の降格、翌年の昇格、1978-792シーズンのリーグ準優勝、19813年と1982年のコパ・デル・レイと、非常に激しい時代をスポルティングで経験している。

 

10年間スポルティングに在籍し、1985年にレアル・マドリードと契約した。

 

ラモン・メンドーサ会長の肝入りで入団した選手の一人で、カマーチョ、ゴルディージョ、ウーゴ・サンチェスらと共に「キンタ・デル・ブイトレ」の黎明期で活躍した。

 

デビューシーズンにエル・ブランコで強固なディフェンスラインを築き、リーガ、UEFAカップのタイトルを獲得したものの、翌年以降のキャリアは短いものとなった。

 

レアル・マドリードには4シーズン在籍し、スペインリーグ優勝4回、コパ・デル・レイ1回、スペインスーパーカップ1回、UEFAカップ1回を獲得した。

 

しかし、1986年のメキシコワールドカップで大怪我をしてしまい、チームの勝利にほとんど参加できず、4シーズンのうち3シーズンを空白期間としてレアル・マドリードの選手で過ごしている。

 

1988-89シーズンの契約満了を機に、サッカーを引退することを決意した。

 

代表

 

スペイン代表として36回キャップ、8ゴールを記録した。

 

1982 FIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権1984、1986 FIFAワールドカップにも招集された。

 

ブロンドの貴公子はスペインがEURO本大会出場権を獲得した、かの有名なマルタ戦(12-1)で2ゴールを挙げた。

 

EURO 1984準決勝でも1ゴールを挙げ、スペインの決勝進出に貢献している。

 

エピソード

 

退任後

 

選手生活を終えた後は、スペインサッカー協会のサッカースクールのディレクターを務めたり、ラジオ番組でスポーツコメンテーターとしても活躍した。

 

1996年に監督としてのキャリアをスタートさせ、C・D・バダホス、レアル・スポルティング・デ・ヒホン “B”、レアル・スポルティング・デ・ヒホンの2ステージ(1997-981011、2002-0312)、S・D・コンポステラのコーチを歴任している。

 

2006年には、La Sexta、Gol Televisión、Al Jazeera Sports、Castilla-La Mancha TVなどのテレビチャンネルでコメンテーターとしての役割を再開した。

 

2007年、フリオ・サリーナス、アルベルト・フェレール、アルムデナ・シド、エステラ・ヒメネス、ゲルバシオ・デフェール、ブランカ・フェルナンデス・オチョア、マルティン・フィズ、アマヤ・バルデモロ、フェルナンド・ロメイ、シャビ・トーレスら著名スポーツ選手からなるスタードリームス社の社長として参加、主にマネージャーや経営者への仕事のパフォーマンス向上のアドバイスを専門とし仕事をています。

 

プレースタイル

 

身体能力の高さと攻撃力でディフェンスに安定感をもたらし、マドリードファンのアイドルとなった。

すらっとした体格でブロンドの巻き髪をなびかせながら、冷静さと卓越したセンスを持ちあわせ、ペナルティーエリア付近での統率力、ディフェンス力は際立っていた。

 

インターセプトと読みもさることながら、特に空中戦で強さを発揮。

 

これらの特徴が彼を完璧な選手に仕立て上げた。

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