概要
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1974年3月27日(48歳) | ||
出身地 | ![]() |
||
身長 | 173cm | ||
体重 | 69kg |
Gaizka Mendieta
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ、センターハーフ)、ディフェンダー(右サイドバック)、フォワード(右ウイング)。
利き足は右。
1990年代後半から2000年代前半にかけて活躍したスペイン人ミッドフィールダー。
バレンシアで活躍し、スペイン代表でも主力選手として活躍した。
1990年代前半にはリーグの一クラブでしかなかったバレンシアを世界屈指の名門に押し上げたクラブ史上最高の功労人でもある。
獲得タイトル
クラブ
- バレンシアCF
- コパ・デル・レイ優勝: 1998–99
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝: 1999
- UEFAチャンピオンズリーグ準優勝:1999–2000, 2000–01
- ミドルズブラFC
- フットボールリーグカップ: 2003–04
-
個人
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀MF: 1999–2000, 2000–2001
経歴
クラブ
父親はレアル・マドリーなどでGKを務めたアンドレス・メンディエタで、自身も幼少からボールを蹴ってはいましたが、陸上競技の長距離ランナーとして活躍していました。
本格的にサッカーに転向したのは15歳になってからでしたが、父親譲りの運動神経と身体能力で成長を遂げます。
17歳の時にセグンダ・ディビシオン(2部)のCDカステリョンからデビューした。
1991-92シーズンをセグンダで戦った。
1992/93シーズンにカステリョンからバレンシアへ移籍。
当時18歳の自身に対し約2千万円の値段が付き、6月13日のカディス戦でリーガデビューします。
その後下部組織の試合に出場していましたが、1995/96シーズンから右SBとして不動の地位を築きます。
1997/98シーズン途中に就任したクラウディオ・ラニエリ監督により中盤でも起用され、攻撃力を発揮してクラウディオ・ロペスやイリエとFW陣に次ぐ10ゴールをマーク。
キャプテンに就任した1998/99シーズンには国内カップ決勝でアトレティコ・マドリー相手にスーパーゴールを挙げ、初タイトルを獲得しました。
1999/00シーズンにエクトル・クーペル監督が就任。
カウンター戦術の急先鋒としてFW陣と連動し、チーム最多の13ゴールを挙げました。
また、チャンピオンズ・リーグでは準決勝バルセロナ戦との両試合でゴールを挙げ、続く2000/01シーズンも準決勝リーズ戦でダメ押しゴールを挙げると、決勝バイエルン戦でも先制点となるPKを決めるなど活躍。
惜しくもそれぞれ敗れたものの、欧州で実績がなかったクラブを躍進させ、同時に自身も大きく成長を遂げたのです。
この活躍でレアル・マドリーやバルセロナなどが獲得に動きましたが、クラブ首脳が国内の移籍を認めなかったため、52億円の移籍金でイタリアのラツィオと5年契約を結びました。
しかし、自身の獲得を望んだゾフ監督が解任されたり、イタリアのサッカーに適応できなかったりしたため、結局チェコ代表ポボルスキからレギュラーを奪うことができませんでした。
2002/03シーズンにバルセロナへレンタルされますが、チームが不調の時期であり目立った活躍ができませんでした。
その後ラツィオに復帰しても構想外だったため、イングランドに活躍の場を求めてミドルスブラへ移籍。
ゼンデンや、ジュニーニョ・パウリスタらと共に攻撃を展開し、プレミア残留とクラブ初タイトルとなるリーグ杯制覇と復活を遂げました。
ところが2004/05シーズンの10月23日ポーツマス戦でじん帯を損傷、その後も相次ぐケガで試合出場が困難な状況となり、2006/07シーズン限りで現役を退いています。
代表
1996年夏、U-21スペイン代表の一員としてUEFA U-21欧州選手権に臨み、準優勝の成績を収めた。
25歳の誕生日であった1999年3月27日、UEFA欧州選手権2000予選のオーストリア戦で、フアン・カルロス・バレロンとの途中交代でスペインA代表デビューを飾った。
ベルギーとオランダで共催された本大会のメンバーにも選ばれ、ベスト8進出に一役買った。
SSラツィオ時代にはスランプに陥ったが、2002 FIFAワールドカップのスペイン代表メンバーに招集された。
控え選手の立場であったが南アフリカ戦ではフリーキックで1得点し、アイルランド戦ではPK戦の最終キッカーを務めた。
2002 FIFAワールドカップの4ヶ月後のベルギーとの親善試合で40キャップに到達し、その試合が代表での最後の試合となった。
エピソード
サッカー選手引退後、メンディエタは、活躍の舞台をピッチからナイトクラブへと変えていた。
彼はDJに転身し、大きな成功を掴もうとしているのだ。
一体なぜ、スペイン・サッカー界屈指の名手はDJになることを選んだのか?
この度、英紙『The Sun』の取材に応じたメンディエタは、「実は昔から土曜の夜にはこっそりナイトクラブに行っていた」と告白。
そして、「もちろんチームには内緒さ。帽子をかぶって、変装していたから、誰もDJが僕だとは知らなかったと思う」と、現役時代からDJの仕事をかじっていたことを吐露した。
その熱の入れようは本物だ。
メンディエタは、ロンドンのウェストエンドを拠点に活動中で、その仕事っぷりには、「前々から音楽をかけることは好きだったけど、まさか引退後、それが本職になるとは思わなかった」と本人も驚きを隠さない。
「僕はこれまでに小規模のクラブから大勢のファンがいるフェスティバルまで、さまざまな場所でDJを見てきたし、自分自身で回してみたりもした。そのなかで、ターンテーブルをいじることが好きだってことに気づいたんだ」
とはいえ、その前途は多難だったようで、引退から2年後に踏んだ初舞台では赤っ恥をかいたという。
「最初にやった時は最悪だったね。何かを間違ってファンが音楽を聴くことができなかったんだ。そこから約2分間、技術スタッフがターンテーブルを直している間、会場の雰囲気はまさに地獄さ。僕には気の遠くなるような時間だったよ。ただ、その後は最高にうまくいっているよ。今じゃ色々な場所でやれるようになった」
数年前にはリスボンで行なわれたCL決勝で、ファン向けにDJパフォーマンスも披露するなど活動の幅を広げ、「聞いてくれる人の魂を揺さぶれるのが楽しいんだ。たとえ、その歌を知らなくてもリズムで人々を喜ばせられる」と語るメンディエタは、インタビューの最後にこう言い放っている。
「サッカー界と音楽界を結びつけること。これこそが僕が今まさに楽しんでいることなのさ」
舞台は変われど、メンディエタが変わらないのは、与えられた仕事に対して“本気”であること。
これこそが彼がどの世界でも一流と認められる所以なのだろう。
プレースタイル
驚異的なスタミナでサイドを忙しく上下し、正確で速いクロスボールが蹴れるスペイン屈指のサイドアタッカー。
豊富なスタミナとスピードを備えており、ドリブルからの正確なクロスにミドルシュートやFKといった得点力に定評がある。
スペイン史上屈指の名クロサーでもある。
強靭な精神力の持ち主でキャプテンも務めます。
少年の頃は長距離走の選手として活躍しており、そのスタミナは正に無尽蔵と言うに相応しい。
スタミナだけでなくロングフィード、フリーキックも一級品でキャプテンシーまで備えている。