ビクトール・バルデス

概要

国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1982年1月14日(40歳)
出身地 ルスピタレート・ダ・リュブラガート
身長 183cm
体重 78kg

 

Víctor Valdés

 

ポジションはゴールキーパー。

 

利き足は右。

 

バルサのカンテラ育ちでバルサ生え抜きの守護神です。

 

FCバルセロナの歴史の中で最も成功を収めたゴールキーパーの一人であり、6度のリーガ・エスパニョーラ優勝、2度のコパ・デル・レイ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たしている。

 

さらに5度のサモラ賞にも輝いた名手。

 

スペイン代表としてもワールカップやユーロで優勝しており、あらゆるタイトルを獲得したゴールキーパーだ。

 

獲得タイトル

クラブ

FCバルセロナ
  • リーガ・エスパニョーラ:6回 (2004-05, 2005-06, 2008-09, 2009-10, 2010-11, 2012-13)
  • コパ・デル・レイ:2回 (2008-09, 2011-12)
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ:6回 (2005, 2006, 2009, 2010, 2011, 2013)
  • UEFAチャンピオンズリーグ:3回 (2005-06, 2008-09, 2010-11)
  • UEFAスーパーカップ:2回 (2009, 2011)
  • FIFAクラブワールドカップ:2回 (2009, 2011)

代表

  • FIFAワールドカップ:1回 (2010)
  • UEFA欧州選手権:1回 (2012)

個人

  • サモラ賞:5回 (2004-05, 2008-09, 2009-10, 2010-11, 2011-12)

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
2000 スペインの旗 バルセロナC 16 (0)
2000-2003 スペインの旗 バルセロナB 77 (0)
2002-2014 スペインの旗 バルセロナ 387 (0)
2015-2016 イングランドの旗 マンチェスター・ユナイテッド 2 (0)
2016 ベルギーの旗 スタンダール・リエージュ (loan) 5 (0)
2016-2017 イングランドの旗 ミドルズブラ 28 (0)
代表歴
2000-2001 スペインの旗 スペイン U-18 11 (0)
2001 スペインの旗 スペイン U-19 3 (0)
2001 スペインの旗 スペイン U-20 1 (0)
2002-2003 スペインの旗 スペイン U-21 11 (0)
2005-2017 スペインの旗 スペイン 20 (0)
2001-2017 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ 12 (0)

 

クラブ

 

1992年7月1日、10歳にしてFCバルセロナの下部組織であるラ・マシアに入団したが、同年9月には家族と一緒にカナリア諸島に引っ越した。

 

13歳となった1995年に再びFCバルセロナに復帰し、順調に下部組織のカテゴリーを昇格していった。

 

2002年8月14日、UEFAチャンピオンズリーグ予選のレジア・デ・バルソビア戦(3-0)でトップチームデビューを果たした。

 

2002-03シーズン序盤はアルゼンチン代表のロベルト・ボナーノの控えであったが、ボナーノが満足のいくパフォーマンスを残せなかったため、ラドミール・アンティッチ監督が就任するとレギュラーに抜擢された。

 

2003年になるとボナーノは退団。

 

代わりにトルコ代表のリュシュテュ・レチベルが加入し、再び控えに降格するかと思われたが、2003-04シーズンも引き続き出場機会を得た。

 

2004年夏にリュシュテュ退団にともなって正GKの座を完全に摑んだ。

 

2004-05シーズンはほぼ全試合に出場して6シーズンぶりのリーグ優勝を果たし、個人的にもサモラ賞を獲得した。

 

2006年5月17日、チャンピオンズリーグ決勝のアーセナル戦では、ティエリ・アンリの至近距離からのシュートを2度も防ぐなど、14シーズンぶりのビッグイヤー獲得の立役者となった。

 

試合後にはフランク・ライカールト監督に名指しで称賛された。

 

2006-07シーズンは初めてリーグ戦38試合全てにフル出場した。

 

2007-08シーズンのチャンピオンズリーグでは、欧州カップ戦で466分間連続無失点を続け、1975年から1976年にかけてペレ・バレンティ・モラが記録したクラブ記録を更新した。

 

2007年11月27日のリヨン戦でジュニーニョ・ペルナンブカーノに45ヤードの距離からの直接フリーキックを決められ、この記録は途切れた。

 

2006-07シーズンはリーグ戦ではレアル・マドリードに次いで2位、チャンピオンズリーグも決勝トーナメント1回戦で準優勝のリヴァプールFCに敗れ連覇はならなかった。

 

2007-08シーズンのリーグ戦では3位、チャンピオンズリーグも優勝したマンチェスター・ユナイテッドFCに準決勝で破れ、2季連続で無冠に終わった。

 

2008年4月1日のチャンピオンズリーグ準々決勝、シャルケ04戦1stレグでバルセロナでの公式戦通算250試合出場を達成した。

 

2009年5月27日、チャンピオンズリーグ決勝で連覇を目指したマンチェスター・ユナイテッドを2-0で破り、リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイとあわせて「3冠(トレブル)」を達成した。

 

この試合では前後半に1回ずつクリスティアーノ・ロナウドの決定機を防いだ。

 

前半には遠めの位置からのフリーキックを防ぎ、後半には低いクロスに合わせたロナウドのシュートを防いだ。

 

2009-10シーズンはリーグ戦で新記録となる勝ち点99を獲得し、自身4度目(グアルディオラ就任から2年連続)のリーグ制覇を成し遂げた。

 

チャンピオンズリーグ準決勝インテル戦では、敗戦後に相手のジョゼ・モウリーニョ監督に詰め寄ってインテル幹部に制止された。

 

2011年8月29日のビジャレアルCFとの開幕戦に出場し、アンドニ・スビサレッタが保持していたゴールキーパーとしての公式戦クラブ最多出場記録(410試合)に並んだ。

 

11月1日、チャンピオンズリーググループステージのヴィクトリア・プルゼニ戦(4-0)でミゲル・レイナのクラブ記録(824分)を更新する公式戦895分連続無失点を達成した。

 

また、この年はルイス・アルコナーダ(3季連続)を上回り史上初となる4季連続(通算5度目)となるサモラ賞も受賞し、バルサのレジェンド、アントニ・ラマレッツの最多記録に並んだ。

 

2013年1月18日、2014年で終了する契約を延長せず同年限りで退団することを示唆した。

 

2014年6月、契約満了に伴いバルセロナを退団。

 

7月にASモナコへの加入が迫ったが、3月に負った右ひざの前十字靭帯断裂の影響を受け、メディカルチェックをクリアできず破談となった。

 

10月24日、恩師ルイ・ファン・ハールが監督を務めるマンチェスター・ユナイテッドFCでリハビリをすることが発表された。

 

2015年1月8日、フリートランスファーでマンチェスター・ユナイテッドへの加入が正式発表された。契約期間は1年半。

 

2015年7月15日、U-21でのプレーを拒否したのを理由に「哲学に反した」とファン・ハールに戦力外を通告された。

 

また、8月2日にトップチームのロッカーを撤去されU-21チームに移動させられたと報じられている。

 

8月7日、チームの2015シーズンの背番号が発表されたが、バルデスの名前は無かった。

 

2016年1月24日、ベルギーのスタンダール・リエージュへシーズン終了まで期限付き移籍。

 

2016年7月7日、2年契約でミドルスブラFCへ移籍。

 

レギュラーポジションを摑みリーグ戦28試合に出場したが、チームは19位に終わり2部降格が決まった。

 

2017年5月25日、双方合意の下でクラブとの契約を解消した。

 

2017年8月17日、現役引退を表明したとスペインの複数メディアが報じた。

 

今後は友人とともにテレビ制作会社「Cray4fun」を経営するという。

 

代表

 

2005年、ウルグアイとの親善試合に臨むスペイン代表に初招集されたが、出場機会はなかった。

 

2010年5月20日、2010 FIFAワールドカップの出場メンバー23人に選ばれた。

 

背番号12を受け取り、イケル・カシージャスとホセ・マヌエル・レイナに次ぐ第3GKの役割を与えられた。

 

6月3日、オーストリアのインスブルックで行われた韓国との親善試合で代表デビューを果たした。

 

本大会では出場機会がなかったが、スペイン代表は初優勝を果たした。

 

8月11日、メキシコとの親善試合の後半にカシージャスとの交代で試合に出場し、2キャップ目を刻んだ。

 

代表では基本的にカシージャスの控えという位置づけであり、初招集以降なかなか出番をもらえずにいたが、2010年以降はそれなりに出場機会も増えている。

 

2004年からカタルーニャ代表に選ばれ、キャプテンを務めている。

 

エピソード

 

GKは孤独だ。特に、それを愛せなかった者にとっては――。

ビクトール・バルデスは2018年1月1日、Twitterに「みんないろいろありがとう」とメッセージを出した後ですべてのSNSアカウントを閉じ、公の場から姿を消した。それが彼の引退宣言だった。

 

2016-17シーズン、ミドルスブラでのパフォーマンスは悪くなく、前年夏、契約解除をした際には恩師グアルディオラのいるマンチェスター・シティ行きの噂が流れたほどだった。

 

36失点は不本意だろうが、プレミアリーグで28試合プレーできたというということは、引退はバルセロナ時代に負った右膝十字靭帯断裂の大ケガのせいではなかった、ということだ。

 

ケガから立ち直った選手も、ケガの後遺症から立ち直れなかった選手もいる。

 

ビクトールの場合もケガ以降のパフォーマンスに納得していなかったのかもしれない。

 

だが、直前まで第一線でやれていたのにあっさりと、世界との接点を一挙に断ち切るような不可解な形で、選手生活に終止符を打った彼に対しては、どうしてなのか? もっとやれたのではないか? という疑念を振り払うことができない。

 

思い当たるとすれば、そうか、やっぱり彼はGKが嫌いだったのか、ということだ。

 

ビクトルはGKになりたくなかった。

 

「生まれ変わったらGKには絶対にならない。苦痛が大き過ぎて報われない」とまで言っている。

 

「仲間の失望の表情と非難の視線に耐えられなかった」からだ。

 

FWは何度ミスをしても許されるが、GKは一度のミスが許されない。

 

ゴールの少ない競技で最後の砦であるGKは、他のポジションにはない重圧にさらされる。

 

それが子供時代のビクトールの目には不当な扱いに映り、GKが嫌いになった。それでもGKであり続けたのは、父と兄に「タレントがあると説得させられ」「その期待を裏切りたくなかった」のと性格的に「鍛錬するのが好きだった」から。

 

つまり、ビクトールは自分のためではなく周りのためにプレーしていたのだ。

 

嫌々やって世界有数のトップアスリートに成長したというのは、私は聞いたことがない。

 

「8歳から18歳までは特に苦しかった。なぜ嫌いなことをやらないといけないのか常に自問していた」彼は、18歳の時に一度サッカーを辞める決心をするが、心理カウンセラーの助けで思い止まる。

 

トップデビューはその2年後だった。

 

そこからの彼の輝かしいキャリアのことは紹介するまでもない。

 

だが、その裏で内心の葛藤は続いていた。「週末が怖かった。ミスをするのではとパニックになっていた。90分間酷い思いを続けるような人生に意味はない」とまで彼を追い込むようになっていた。

 

ミスが怖いのならミスをしないGKになればいい、というふうに発想し、さらに厳しい鍛錬に挑んだ。

 

だが、恐怖や嫌悪などネガティブな感情を成長への原動力にし続けるのには、やはり無理がある。

 

絶頂期にあった2013年1月、彼はバルセロナを飛び出す決心をし、その理由を述べた会見で「私は信頼されていなかった」「GKについて意見できるのはグラウンドにいる者だけだが、今なら、私を信じていない、と言われても驚かない」などの攻撃的な言葉で、和解の余地がない事実上の三行半を突きつける。

 

周りのためにプレーしてきた彼が周りに耐えられなくなった時、子供時代から抑えつけてきたもの――GKを不当に扱う周囲への怒り――が爆発したのだろう。

 

退団を控えた2014年3月、右膝の十字靭帯を断裂し予定されていたモナコ移籍は破談になる。

 

このキャリア初の大ケガについて、ビクトルはこんなコメントを残している。

 

「膝が壊れるのはわかっていた。うまく行き過ぎていたのだから、壊れるのは当たり前だ」

 

“自業自得”とも読み取れる言葉からは、自分の気持よりも周囲の期待を優先した自分への嫌悪感とか後悔のようなものが伝わってくる。

 

8カ月間のリハビリを頑張り、マンチェスター・ユナイテッドから声をかけられるも当時監督だったルイス・ファン・ハールと衝突。

 

スタンダール・リエージュを経て、ミドルズブラで見えた希望の灯を気まぐれに見える格好で吹き消したのも結局は、プロGKとしての自分を好きになり切れなかったからではないか。

 

GKは孤独である。

 

鬱病に苦しんだロベルト・エンケも周りには理解されないと思い込み、一人で人生の幕を閉じた。

 

「不当に責められるというGKの孤独感が、人生にも少しずつ伝染していった」というビクトールの言葉は、そのままエンケのケースに当てはまるのだろう。

 

GKという存在への無理解による、我われの残酷さに恐ろしくなる。

 

「たった一度ミスしただけで、背中に”非難の土砂降り”を浴びる」

 

ビクトール・バルデスはそう吐露している。

 

「その罵声は、ファンが発するものだけではない。手厳しい監督だったり、心情を理解できないチームメイトだったりすることもある。たとえ言葉にしなくても、態度で『戦犯はおまえだよ』という気持ちが突き刺さってくることもあるよ。ゴールキーパーは孤独を生きている。他の選手たちが理解できない思いを抱えてね」

 

バルサは超攻撃的なスタイルを信奉してきただけに、GKのリスクは増える。

 

ボールをつないでいるところを奪われるかもしれないし、総攻撃の裏をつかれ、1対1の場面を作られるかもしれない。

 

それでも失点は失点であり、GKが矢面に立たされるのだ。

 

厳しい勝負を生き抜いたバルデスの言葉は重い。

 

バルサでプレーするGKの十字架とは――。

 

バルサは世界でも特異なチームと言える。

 

ユース年代から一貫し、「ボールありき」の戦いを叩き込まれる。攻撃こそ防御なり。

 

圧倒的にボールをつなぎ、運ぶことで優位に立ち、攻撃し続けるのがフィロソフィーだ。

 

必然的に、GKにもボールプレーヤーとしての性質が求められる。

 

「GKがリベロになることで、ボールプレーは完成する」

 

1990年代、バルサの始祖とも言えるヨハン・クライフは宣言し、積極的にリベロ的GKを登用した。

 

足技を優先し、先発に起用したのだ。

 

失点すれば非難の嵐にさらされるゴールキーパーにとって大きなリスクを伴うバルサのゴールキーパーは半端な覚悟では務まらない。

 

引退後

 

引退後は起業家へ転身し、2人のパートナーと共同でテレビ製作会社『Crazy4fun』を設立したバルデスだったが、2019年夏にバルセロナに復帰しフベニールA(U-19)の指揮官に就任した。

 

しかし、しかし、初陣でいきなり審判に暴言を吐き退場処分を受けたほか、上層部との確執も生まれ、就任からわずか3カ月で解任されていた。

 

2019年10月にはその任を解かれた。

 

2020年からはテルセーラ・ディビシオン(スペイン4部)のオルタの監督に就任している。

 

プレースタイル

 

バルセロナの選手らしい足元の技術とセーブ能力を兼ね備えた名手として君臨。

 

1対1での飛び出しや、ハイボールに対する積極的なパンチング、味方への大声でのコーチングと最後尾からチームを引き締める。

 

ジャンルイジ・ブッフォンやイケル・カシージャスが名を馳せた当時、DFラインの裏のスペースを積極果敢に埋めるバルデスのプレースタイルは異色だった。

 

高い足下の技術を併せ持っており、華麗なパスワークを見せるバルセロナの攻撃にも欠かせない存在だった。

リーガエスパニョーラでは、04/05から連覇を達成。

 

圧倒的な攻撃力が魅力のチームだったが、実はこの2シーズンは失点数でも29、35失点でリーグ1位だった。

 

攻撃的なチームゆえに、バルデスが1対1の状況にさらされることも多かったが、鋭い飛び出しや反射神経の高さでチームのピンチを何度も救っている。

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