概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年7月28日(56歳) | ||
出身地 | マナコル | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 83kg |
Miquel Ángel Nadal
ポジションはディフェンダー(センターバック)、ミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
“The Beast”の愛称で呼ばれた。
RCDマジョルカでキャリアを始めマジョルカでキャリアを終了したが、最大の実績はヨハン・クライフ監督率いるFCバルセロナ、いわゆるエル・ドリーム・チームの時だった。
プロ19シーズンの間で1部462試合を含む492試合に出場した。
1990年代のスペイン代表を中心選手として支え、FIFAワールドカップに3回・UEFA EURO ’96に出場。
62キャップを記録した。
獲得タイトル
クラブ
- FCバルセロナ
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1991-92
- UEFAカップウィナーズカップ : 1996-97
- UEFAスーパーカップ : 1992, 1997
- プリメーラ・ディビシオン : 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1997-98, 1998-99
- コパ・デル・レイ : 1996-97, 1997-98
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1991, 1992, 1994, 1996
- RCDマジョルカ
- コパ・デル・レイ : 2002-03
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1983-1986 | ![]() |
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1986-1987 | ![]() |
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1987-1991 | ![]() |
130 | (22) |
1991-1999 | ![]() |
208 | (12) |
1999-2005 | ![]() |
149 | (6) |
代表歴 | |||
1991-2002 | ![]() |
62 | (3) |
クラブ
86/87シーズンに、地元マジョルカでトップデビュー。
翌87/88シーズンにはレギュラーとして活躍するが、チームは2部に降格してしまう。
しかしナダルの活躍もあり、わずか1シーズンで1部に復帰。
その後もDF陣の中心として活躍。
また、セットプレーからの強烈なヘディングなど得点力も誇示しました。
その後、マジョルカで安定したパフォーマンスを披露するナダルにFCバルセロナが目を付けた。
91/92シーズンからFCバルセロナでプレーすることになる。
クーマンやフェレールなどとDFラインを形成、ロマーリオやストイチコフら「ドリーム・チーム」の豪華な攻撃陣を支え超攻撃的チームで守備の要として活躍。
そのシーズンにいきなりリーグ優勝を果たし、チャンピオンズカップも制する。
その後、クライフのドリームチームに欠かせない存在とし活躍する。
91/92から3シーズン連続でリーグ優勝を飾り、93/94シーズンには再びビックイヤーへのチャンスが巡ってきた。
決勝の相手はACミラン。
しかし、ナダルは決勝の日地獄を見る事になる。
攻撃的サッカーを披露するFCバルセロナ圧倒的有利と誰もが見ていた。
しかし、試合が始まるとACミランの攻撃に手も足も出ない。
FCバルセロナのDFはズタズタに破られ4対0で敗れる。
94/95シーズンにはドリームチームは崩壊するも、ナダルは安定したパフォーマンスを見せた。
97/98シーズンにはオランダ人、ファン・ハールが監督に就任すると、徐々に活躍の場が少なくなっていく。
そのシーズンはチームに貢献し、優勝はしたが、翌98/99シーズンには完全に戦力外となり、シーズン終了後、古巣マジョルカに移籍する。
そして、ここで見事に復活を遂げる。
本来の激しいプレイを取り戻し、素晴らしいパフォーマンスを見せる。
00/01シーズンには、ナダルを中心とした固い守備と、エトー、ルケ、フィニディ、イバガサらのスピードある攻撃で、リーグに旋風を巻き起こし、チャンピオンズリーグ出場権を獲得する好成績を収める。
02/03シーズンには、国内カップで見事優勝を果たした。
04/05シーズン終了後、自らの体の衰えを感じ、愛するチームに迷惑をかけるわけにはいかないと、現役を引退した。
クライフ時代、攻撃ばかり注目されていましたが、この人の役割は本当に重要でした。
全選手が非常に攻撃的であったため、ナダルへの負担はかなり大きかったと思います。
バルセロナ退団後のマジョルカでの活躍は見事でした。
代表
1991年11月13日、UEFA EURO ’92予選のチェコスロバキア戦でスペイン代表デビューして以降62キャップを記録。
1994 FIFAワールドカップでは3試合に出場して、ベスト11候補に名を連ね、1998年の1998 FIFAワールドカップでは2試合出場した。
マジョルカでの活躍から、1998年W杯以後遠ざかっていた代表に復帰し、2002 FIFAワールドカップでは36歳ながら全4試合に出場、ベスト8での韓国代表戦を最後に代表を引退した。
グループリーグ第3戦南アフリカ代表戦ではすでに決勝トーナメント進出が決まっていたことから主将のフェルナンド・イエロが休養したため、代わりにキャプテンマークを巻いて出場した。
また、UEFA EURO ’96ではベスト8のイングランド戦でPK戦を失敗したことにより、チームは敗退した。
エピソード
スペインのプロテニス選手で、グランドスラム優勝回数歴代1位(21回)、史上2人目となるキャリアゴールデンスラム達成、全仏オープン最多優勝・最長連覇記録を保持するラファエル・ナダルを甥に持つ。
ミゲル・アンヘルの兄トニ・ナダルはラファエルのコーチを2017年まで務めていた。
引退後
引退してから5年が経った2010年7月、3シーズンバルサで同僚だったミカエル・ラウドルップ監督率いるマジョルカにコーチングスタッフとして戻った。
2011年9月末にラウドルップとディレクターのロレンソ・セラ・フェレールがクラブを去ると、アウェーで2-2と引き分けたCAオサスナ戦で暫定として1試合チームを指揮した。
プレースタイル
大柄でスピード不足であったが、強烈なフィジカルの強さで一時代を築いたスペイン屈指のディフェンダー。
スピード不足の感は否めないものの、長身で屈強な身体を誇り、対人や空中戦に強さを発揮する典型的なストッパー。
ボランチとしてもプレーできます。
ヘディングが非常に強く、セットプレーから多くの得点を挙げた。