概要
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1973年2月18日(49歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 174cm | ||
体重 | 66kg |
Claude Makélelé
ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
2000年代に活躍したフランス代表の守備的ミッドフィールダー。
派手さはないが守備的なポジションで銀河系軍団だったレアル・マドリードやチェルシーで縁の下の力持ちとしてチームを支えた名脇役だった。
キャリアを通して守備的MFでプレー。
中盤の底のポジションはマケレレのポジションとして「マケレレロール(Makélélé Role)」と呼ばれることもある。
当時のチームメイトからは「マケレレこそ、俺たちのバロンドール」と、絶大な評価をされています。
獲得タイトル
クラブ
- ナント
- リーグ・アン: 1994-95
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ: 2000-01, 2002-03
- スペイン・スーパーカップ: 2001, 2003
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2001-02
- UEFAスーパーカップ: 2002
- トヨタカップ: 2002
- チェルシー
- プレミアリーグ: 2004-05, 2005-06
- FAカップ: 2006-07
- コミュニティーシールド: 2005
- フットボールリーグカップ: 2005, 2007
- パリSG
- クープ・ドゥ・フランス: 2009-10
経歴
クラブ
15歳の頃に、ムランのクラブであるUSムランに加入し、リリアン・テュラムらとともにプレーした。
1993年、リーグ・アンのFCナントでキャリアをスタートする。
1994-95シーズンにはクラブのUEFAカップベスト4進出に貢献した。
その後オリンピック・マルセイユを経て、1998年にリーガ・エスパニョーラのセルタ・デ・ビーゴへ移籍。
UEFAカップにおいてリヴァプールFC、ユヴェントスFCなどの強豪チームを破った試合で活躍し、評価を上昇させた。
2000年にはレアル・マドリードへ移籍し、超攻撃的サッカーを標榜するスター集団の中において、中盤の守備を担うハードワーカーとして活躍し、2001-02シーズンにはチャンピオンズリーグの制覇に貢献。
当時のチームメイトから「彼こそ、俺たちのバロンドールだ」という、最大級の賛辞が送られた。
攻撃重視の選手が多数プレーする中で、イバン・エルゲラや最終ラインを支えるフェルナンド・イエロと共にチームに不可欠な存在であった。
しかし2002-03シーズン終了後、給料の問題などもありサンティアゴ・ベルナベウを去る。
もっとも自身は後のインタビューの中で、自身の仕事に敬意を払われなかったことが問題なのであり、当時のレアル・マドリードの会長、フロレンティーノ・ペレスに「どんなに金を積まれても、私は出て行く」と言ったと述べている。
その後レアル・マドリードは失点が増加、マケレレへの依存度が高かったにも関わらず彼を評価できなかったペレス会長には批判が浴びせられた。
2003-04シーズンより、ロシアの石油王ロマン・アブラモヴィッチが新オーナーとなったチェルシーFCへ移籍。
移籍後初シーズンはプレミアリーグ2位、UEFAチャンピオンズリーグではASモナコに準決勝で敗れるなど、タイトルを手にすることはできなかった。
しかし2004-05シーズンにはプレミアリーグとフットボールリーグカップを制覇。
2004年より監督に就任したジョゼ・モウリーニョからシーズンの最優秀選手と称賛を受け、FIFProによる2005年のベストイレブンにもチームメイトであるフランク・ランパードやジョン・テリーらとともに選出された。
2008年7月21日、パリ・サンジェルマンFCがマケレレの獲得に関してチェルシーと合意。
同時にキャプテンにも就任した。
2010-11シーズン終了後に現役引退。
代表
1995年7月22日のノルウェー戦でフランス代表デビューを果たす。
1996年にはアトランタ五輪にフランス代表として出場するがベスト8で敗退。
2002年の日韓W杯に参加するが出場機会に恵まれず、FWの不調やエースジネディーヌ・ジダンの故障も響きグループリーグで敗退する。
EURO2004以降代表から遠ざかっていたが、2006年ドイツW杯の欧州予選でフランス代表は予選敗退の危機を迎える。
レイモン・ドメネク監督の希望によりジダン、リリアン・テュラムとともに代表に復帰すると土壇場からの予選通過に貢献する。
2006年5月15日、本選出場メンバーに選ばれ決勝戦まで進んだが、PK戦の末に準優勝に終わる。
W杯終了後に地元のTV局のインタビューで代表引退を明らかにしたが、ユーロ2008の予選でドメネクによって招集され、所属するチェルシーのモウリーニョ監督を巻き込み騒動となった。
EURO2008本大会にも招集されたものの、チームはグループリーグ敗退。
改めて代表引退を発表した。
代表引退の記者会見の席で、フランス代表としてはメジャーなタイトルを得られなかったことについては「フランス代表のユニフォームを着ることができたことが、私のトロフィーだ」と語っている。
エピソード
去られてわかる重要性
ナントからマルセイユ、スペインのセルタを経て、2000年にレアル・マドリーへ加入したマケレレは、「銀河系」と呼ばれたスターぞろいのチームで重要な役割を果たすことになる。
当時のレアルは毎年スーパーなスター選手を獲得していた。ルイス・フィーゴ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウド、デイビッド・ベッカムというキャスティングは補強というよりコレクションに近い。
マケレレはベッカムが加入した2003年にチェルシーへ移籍している。
「自分の仕事に敬意を払われなかった」と移籍の理由を話している。
フロレンティーノ・ペレス会長は、ジダンやフィーゴの守備を肩代わりしてあげる補助要員としか思っていなかったようだ。
クラブの会長はスター選手にはいい顔をする。
スーパースターのいるクラブの会長として自尊心を満足させられる。
ところが、裏方的な役割の選手には見向きもしない、無関心ということもままある。
ペレス会長にしてみれば、マケレレの代わりなどいくらでもいると考えていても不思議ではない。
なにせ、「ジダネス・イ・パボネス」を打ち出した人なのだ。
「ジダンたち」は、ジダンを筆頭とするスターたちだ。一方の「パボンたち」とは、カンテラ出身者を中心とした非スターであり、スターたちを裏で支える役割の選手たちを指す。
主に守備の選手であり、スターの獲得には莫大な金をつぎ込むが、「パボンたち」はなるべく安上がりに済まそうという、強化方針というより経営方針だった。
確かにマケレレにジダンのようなテクニックはない。
だが、ジダンにもマケレレの守備力はないのだ。
レアルのようなアタッカー過多のスター軍団の場合、むしろカギを握るのは守備の選手なのだが、ペレス会長にはそんなフットボールのセオリーなど関心はなかったに違いない。
ロナウド、ラウール、フィーゴ、ジダンにロベルト・カルロスが加わる攻撃陣の背後で、彼らを支えるのがイバン・エルゲラやマケレレの役割だった。
しかし、スターたちがまるで守備をしないのではさすがにもたない。
1人か2人は一時的に「マケレレ」になる必要があった。
ビセンテ・デル・ボスケ監督は、そのぎりぎりのバランスを注意深く見守っていたのだが、そのデル・ボスケもチームを去り、ベッカムがやって来た。
もはやアンバランス確定である。
増え過ぎた「ジダネス」を支えるのに、もはやマケレレだけでは無理だった。
ベッカムが来て、マケレレが去った。
ベッカムが加入して、レアルの人気はピークを迎えるのだが、チームとしての崩壊はマケレレが去ったことで決定的になっている。
マケレレはチェルシーでリスクマネージメントの要となった。
1人で2人分のスペースを守れるからだ。
相手チームがカウンターのチャンスになった時、必ずマケレレが飛んでくる。
立ちふさがるマケレレという「橋」を渡らないとカウンターは成就しない。
だが、それは必ず落ちる橋なのだ。
そこでマケレレを回避するので、ひと手間余分にかかってしまう。
さらに、回避したつもりでもそこには再びマケレレが立ちふさがるので、結局ふた手間かかり、その間にチェルシーの選手たちが戻ってきてスペースはすっかり埋められてしまうのだ。
レアルでは汚れ仕事を引き受ける下請け業者のように扱われたマケレレだが、チェルシーでは最も重要な選手として称えられた。
指導歴
現役引退後は、古巣のパリ・サンジェルマンFCでカルロ・アンチェロッティ監督の下アシスタントコーチを経験した後、リーグ・アンの2014-2015シーズンからSCバスティアの監督に就任。
しかし12試合で2勝しか挙げられず、11月3日に解任された。
2016年1月8日にASモナコのテクニカルディレクターに就任したが、同年6月6日に契約解除が発表された。
2017年1月12日、スウォンジー・シティAFCのアシスタントコーチに就任した。
11月6日、スウォンジーとの合意の下で契約を解除すると共にジュピラー・プロ・リーグに所属するKASオイペンの指揮官に就任することが発表された。
リーグ最下位のクラブを引き継ぐと、シーズン最終戦のREムスクロン戦で途中投入した豊川雄太が3得点を挙げるなど4-0で勝利。
KVメヘレンを得失点差1で逆転し、クラブを1部残留に導いた。
2018-19シーズンはリーグ12位で再び1部残留を果たすと、2019年6月14日に退任することが発表された。
2019年8月3日、監督として招聘されたランパードと共にチェルシーに帰還しテクニカルメンターに就任した。
プレースタイル
圧倒的な攻撃力を誇るチームには、圧倒的な守備力を持つMFが少なくとも1人は存在する。
1974年ワールドカップのオランダ代表にはビム・ヤンセンがおり、1990年代前半のミランにはマルセロ・デサイーがいた。
クロード・マケレレは、中盤の守備を一手に引き受け、その大役を見事にこなす素晴らしいプレーヤーである。
決して派手ではなく知名度では前記の2人に劣るものの、実力では一歩も引けを取らない。
無尽蔵のスタミナで危険なエリアを埋め、パワーとアジリティを兼ね備えた対人守備でボールを奪い取りピンチをチャンスへと変える守備的MFの最高峰である。
当時のチームメイトからは「マケレレこそ、俺たちのバロンドール」と、絶大な評価をされています。
マケレレはチームのリスクマネージメントの要であった。
1人で2人分のスペースを守れるからだ。
相手チームがカウンターのチャンスになった時、必ずマケレレが飛んでくる。
立ちふさがるマケレレという「橋」を渡らないとカウンターは成就しない。
だが、それは必ず落ちる橋なのだ。
そこでマケレレを回避するので、ひと手間余分にかかってしまう。
さらに、回避したつもりでもそこには再びマケレレが立ちふさがるので、結局ふた手間かかり、その間にチェルシーの選手たちが戻ってきてスペースはすっかり埋められてしまうのだ。
マケレレはキャリアのほとんどを中盤の底(守備的MF)でプレー。
優れた危機察知能力で相手のスペースを消し、ジダンやフィーゴらの後ろのスペースをカバー。
加えて、ボール奪取力とフィジカルにも優れており、危険なシーンでは果敢にボールを刈り取り、相手チームの攻撃の芽をすぐさま摘み取る働きをしていました。
それらのプレーが評価され、当時は「マケレレ・ロール」と評価され、チームメイトたちから大きな信頼を獲得。
マケレレの守備力が凄い逸話は、2002年退団した後のレアル・マドリードが証明しています。
当時のレアル・マドリードは攻撃スター選手を取りすぎて守備が脆かったチームと言われ、マケレレを失ったレアル・マドリードは低迷。
マケレレは守備に目がいきがちですが、後方からのビルドアップにおいても重要な存在でした。
シンプルな長短のパスでゲームを組み立て、レアル時代は前線にいるジダンやフィーゴらと攻撃を作り上げていきました。
チェルシーのときには、ボックストゥボックスのランパードに対して縦パスを試みるなど、抜群のコンビネーションを披露。
2003年にマケレレが加入したチェルシーは、04-05シーズンに50年ぶりの優勝を果たし黄金期を迎えました。