概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1969年12月9日(52歳) | ||
出身地 | サン=ジャン=ド=リュズ | ||
身長 | 169cm | ||
体重 | 69kg |
Bixente Lizarazu
ポジションはディフェンダー(左サイドバック)。
利き足は左。
1990年代から2000年代にかけて活躍したフランス代表のサイドバック。
バイエルンなどで活躍し、フランス代表としては1998年ワールドカップと2000年ユーロの優勝メンバー。
バスク人でバスク代表としてプレーした経験もある。
獲得タイトル
クラブ
ボルドー
- ディビジョン 2 : 1991–92
- UEFAインタートトカップ:1995年
- UEFAカップ準優勝: 1995–96
バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ: 1998–99 , 1999–2000 , 2000–01 , 2002–03 , 2004–05 2005–06
- DFBポカール: 1997–98 , 1999–2000 , 2002–03 , 2004–05 , 2005–06
- DFB リーガポカール: 1997 , 1998 , 1999 , 2000
- UEFA チャンピオンズ リーグ: 2000–01 ; 次点: 1998–99
- インターコンチネンタルカップ: 2001
代表
フランス代表
- FIFAワールドカップ:1998年
- UEFA欧州選手権:2000年
- FIFAコンフェデレーションズカップ:2001年、2003年
個人
- ESM チーム オブ ザ イヤー: 1998–99
- UEFA年間最優秀チーム: 2001
- FIFA XI : 2002
- Équipe type spéciale 20 ans des trophées UNFP : 2011
経歴
クラブ
ボルドー在籍時の1988年11月12日カーン戦で国内1部リーグにデビューし、MFジダンやFWデュガリーらと共に活躍します。
95/96シーズンのUEFA杯では決勝にコマを進めますが、バイエルンに敗れてタイトル獲得はなりませんでした。
その後1シーズンのみビルバオでプレーします。
純血主義を貫く同クラブですが、自身はバスク地方出身のため入団が実現しました。
ただし国籍はフランスであるため、戦後(第一次世界大戦)の同クラブ初の外国人選手となりました。
97/98シーズンにバイエルンに入団。
当時はマテウスがリベロとして活躍していたため左WBとして、彼の退団以降は4バックのSBとしてプレーします。
同胞の右SBサニョールらと共にリーグ3連覇やクラブ25年ぶりの欧州制覇など、黄金期に欠かせない選手となりました。
クラブとの契約が満了し、04/05シーズンに母国マルセイユへ移籍。
しかし日本代表を率いたトルシエ監督との間で確執が生まれ、半年でバイエルンに復帰。
衰えに加え若手ラームの台頭もあり以前ほど活躍できませんでしたが、国内2冠を連覇して有終の美を飾りました。
代表
1992年11月14日フィンランド戦で代表デビュー。
1994年W杯予選はこの試合含めて4試合プレーします。
以降デサイー、ブラン、テュラムと組むDFラインでフランス黄金期を支える存在となり、1996年欧州選手権ではベスト4に進出します。
1998年に地元で行われたW杯では、グループリーグのサウジアラビア戦でゴールを挙げるなど6試合に出場して初優勝に貢献します。
さらに2000年のEURO2000でもフランス代表の中心選手として活躍し優勝し、前人未到のスーパーダブルに貢献した。
また2001年コンフェデ杯も制するなど、素晴らしい時を過ごしました。
2002年W杯では優勝候補でしたが、グループリーグ3試合で敗れました。
しかし翌年のコンフェデ杯で3試合戦い連覇すると、2004年欧州選手権でも3試合戦いベスト8に進みました。
2004年のEURO2004終了後、代表から引退。
エピソード
2005年、バイエルン・ミュンヘン復帰後の背番号は69であったが、これはリザラズ自身が1969年生まれで、身長169cm、体重が69キログラムであることに因んでいる。
出身地のサン=ジャン=ド=リュズは大西洋に面したリゾート地。
リザラズも幼い頃からマリンスポーツに親しみ、サーフィンはプロ並の腕前だという。
サッカー以外の他のスポーツもプロ級の腕前で、身体能力や運動神経の高さがうかがえます。
彼はダイビング、サーフィン、音楽にも真剣に興味を持っています。
彼はまた、周囲の自然の保護にも関心を持っています。
ビセンテ・リザラズは、資源保護活動に取り組んでいるある。
彼はETAとして知られるバスクの分離主義組織から何度も深刻な脅威を受けています。
その後、自分で警備員を雇いました。
引退後
引退後はテレビにてコメンテーターの仕事をこなしたりしていたが、スケルトン競技において40歳で選手権優勝した人物に影響を受け、その健脚を生かして競技生活を始めた。
冬季五輪の正式種目になっているスケルトンのフランス代表として、五輪出場を目指すことが報じられている。
2009年にリスボンで行われたブラジリアン柔術の欧州大会にライト級で出場、青帯シニア1のクラスで優勝を果たした。
プレースタイル
小柄だがその突破力と精度の高いクロスを持ち味のサイドバック。
小柄なサイズを感じさせないアグレッシブなプレーが身上の左SBで迫力あるオーバーラップなど、上下動を繰り返します。
バスク出身で堅実さも備え、攻守に貢献度の高い選手です。