概要
国籍 | フランス![]() |
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生年月日 | 1979年3月14日(43歳) | ||
出身地 | ル・シェネ | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 83kg |
Nicolas Anelka
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
若き日から将来を切望されたフランス代表の天才ストライカー。
数多くの渡り歩き、引く先々でトラブルを引き起こしたさすらいのストライカー。
問題児として有名なトラブルメイカーだがサッカーの実力は折り紙付き。
「キング・カントナ」に並ぶフランスが生んだ最強の問題児がこのアネルカである。
問題児と言ってもカントナとは違い、気性が荒いわけではない。
まわりの人とコミュニケーションがうまくとれないタイプである。
獲得タイトル
クラブ
- アーセナルFC
- プレミアリーグ : 1 (1997-98)
- FAカップ : 1 (1997-98)
- FAコミュニティ・シールド : 1 (1998-99)
- レアル・マドリード
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1 (1999-00)
- パリ・サンジェルマン
- UEFAインタートトカップ : 1 (2001-02)
- フェネルバフチェSK
- シュペルリガ : 1 (2004-05)
- チェルシーFC
- プレミアリーグ : 1 (2009-10)
- FAカップ : 2 (2008-09, 2009-10)
- FAコミュニティ・シールド : 1 (2009)
- ユヴェントスFC
- セリエA : 1 (2012-13)
代表
フランス代表
- EURO2000
- FIFAコンフェデレーションズカップ2001
個人
- プレミアリーグ月間最優秀選手 : 2 (1998年2月、2008年9月)
- PFA年間ベストイレブン : 2 (1999, 2009)
- PFA年間最優秀若手選手賞 : 1 (1999)
- プレミアリーグ得点王 : 1 (2008-09)
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1996-1997 | パリ・サンジェルマン | 10 | (1) |
1997-1999 | ![]() |
65 | (23) |
1999-2000 | ![]() |
19 | (2) |
2000-2002 | パリ・サンジェルマン | 39 | (10) |
2001-2002 | →![]() |
20 | (4) |
2002-2005 | ![]() |
89 | (37) |
2005-2006 | ![]() |
39 | (14) |
2006-2008 | ![]() |
53 | (21) |
2008-2012 | ![]() |
125 | (38) |
2012 | ![]() |
22 | (3) |
2013 | ![]() |
2 | (0) |
2013-2014 | ![]() |
12 | (2) |
2014-2015 | ![]() |
13 | (2) |
通算 | 508 | (157) | |
代表歴 | |||
1997 | フランス U-20 | 3 | (0) |
1998-2010 | フランス | 69 | (14) |
クラブ
1996年にフランスリーグ・アンのパリ・サンジェルマンで選手生活をスタート。
育成段階から指導者の評価は高く、同じFWで2歳年上のティエリ・アンリやダヴィド・トレゼゲよりも将来を期待されていた。
その後、18歳ながら50万ポンドという異例の高額で1997年にプレミアリーグ・アーセナルへ移籍し、得点を着実に重ねて評価を上げた。
ペレはこの頃の彼を、「ストライカーに必要なものを全て兼ね備えている」と評した。
1999年に移籍金約53億円でレアル・マドリードに引き抜かれも、怪我もあり不振が続き、高い評価を得られなかった。
アーセナルで活躍した彼の姿はそこにはなく、結果を出せず、チーム内で孤立し、ファンから容赦ないブーイングが浴びせられた。
UEFAチャンピオンズリーグでは予選で2度大敗した天敵バイエルンに準決勝で2得点を奪い、勝利に貢献するという活躍もあったが退団。
2000/01シーズン古巣パリSGに復帰するも、以前のような輝きを取り戻すことはできず、翌2001/02シーズン途中に、前線に故障者続出のリヴァプールに移籍する。
するとアーセナル時代のようなダイナミックな動きを取り戻す。
2002/03シーズンにはマンチェスター・シティに移籍し、ここで「良き理解者」キーガン監督と出会い完全に復調する。
不動のエースとしてゴールを量産した。
チームが強くないためタイトルこそ恵まれなかったものの、一番充実していた時期だった。
2005年1月に移籍したトルコのフェネルバフチェSKで活躍。
トルコではウイングのポジションを与えられプレー。
本人はCFでのプレーを望んでいたようだが、与えられた役割をこなしプレーの幅を広げた。
2006年8月にボルトンに1180万ユーロで移籍。
ボルドンに活躍の場を移したアネルカは、水を得た魚のように驚異的な活躍を見せる。
ほとんどサポートの居ない前線で、1人で暴れまわり11ゴールを挙げる大活躍を見せた。
2008年1月までに53試合出場21得点の成績を残し、同年1月11日にチェルシーに1500万ポンド(約32億円)で移籍。
しかし本職のCFではなくウィングを任されるなど本来の力は発揮できず、わずか2得点に終わる。
2008-09シーズンはスコラーリ監督の下、CFのレギュラーとしてゴールを量産。
監督がヒディンクに代わってからはディディエ・ドログバに出場機会を譲ることが多くなるが、結局シーズン通算19得点でプレミアリーグ得点王に輝いた。
ドログバとの2トップを自ら望むなど、その性格からは珍しい一面を見せたが、これはリヴァプール時代にマイケル・オーウェンと2トップを組んだ時などチャンスメイクする楽しさを覚えたからだという。
なお、ルイス・フェリペ・スコラーリには「ドログバとの共存は不可能」と言われていたが、その後ドログバとは素晴らしい連携を見せるようになり、プレミアリーグでも屈指の2トップとなった。
後にアネルカは「チェルシーに入団した時からドログバと一緒にプレーしたかった」と語っている。
2012年1月、中国サッカー・スーパーリーグの上海申花に移籍し、7月にはチェルシー時代の同僚ドログバと再会するも給料の未払いなどから共に移籍を志願した。
2013年1月、ユヴェントスFCに5ヶ月間の契約で加入するも出場機会はほとんどなかった。
2013年7月、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCに移籍決定。
背番号は39番。
2013年12月28日に行われたウェストハム・ユナイテッドFC戦で「ケネル」と言われる反ユダヤ主義のジェスチャーをし、5試合の出場停止と8万ポンドの罰金処分を受けた。
なお、この騒動でウェスト・ブロムウィッチの胸スポンサーを務めていたZoopla社が2013-14シーズン限りでの撤退を決定した。
この騒動で出場停止中に、自身のTwitterでウェスト・ブロムウィッチとの契約解除を発表、ウェスト・ブロムウィッチは否定したが、ソーシャルメディアを使用した発表を規律違反と見なされ解雇を通告された。
2014年4月6日、アトレチコ・ミネイロのアレシャンドレ・カリウ会長が自身のTwitterでアネルカのアトレチコ・ミネイロ加入をツイートした。
しかし、アネルカがクラブに知らせずクウェートで行われたイベントに勝手に参加したことにより、4月15日にアトレチコ・ミネイロ幹部のエドゥアルド・マルフが契約の取りやめを明らかにした。
2014年9月15日、ムンバイ・シティFCに移籍。
2015年7月、2015シーズンは選手兼任監督に就任することが発表された。
2015シーズン終了後にムンバイを退団、以来無所属となっており、アネルカ本人は現役引退を表明していないが、これが事実上の現役引退となった。
代表
1998年に期待のストライカーとしてフランス代表デビュー。
それからパリ・サンジェルマン、リヴァプール、マンチェスター・シティと移籍を繰り返し、フランス代表からは遠ざかっていた。
常々フランス代表のメンバーに名を列ねているが、過去3度のW杯の代表選考では最後の方で毎回落選している。
唯一EURO2000の時だけメンバーに選ばれ、優勝を経験。
ジャック・サンティニが指揮を執るフランス代表では、招集初期の親善試合で活躍を見せ「奴は俺たちのロナウドなのさ」とチームメイトからも賞賛されたが、レアル・マドリード移籍を境に低迷、なかなかメンバーに定着せず、怪我をしたシドニー・ゴブの代理招集を拒否してからは完全に代表と決別。
2005年1月に移籍したトルコのフェネルバフチェSKでの活躍により、11月上旬に行われたコスタリカとの親善試合で、およそ3年ぶりに代表復帰を果たした。
しかし2006年ドイツW杯時にフランス代表FWのジブリル・シセが骨折で絶望となった際にもレイモン・ドメネク監督に批判的だと見られた彼は代表に招集されず代役として選ばれたのはシドニー・ゴブだった。
2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出されたが、グループステージ2戦目のメキシコ戦のハーフタイム中、ドメネク監督に対して暴言を吐いたとしてチームから追放された。
その後、フランスサッカー協会に18試合(親善試合も含む)の出場停止を言い渡された。
大会後に代表引退を表明した。
エピソード
問題児として有名で、行く先々でトラブルを起こしたアネルカのエピソードは尽きない。
天才少年からヒールとなった波乱万丈のキャリアを紹介したい。
アネルカは8歳にして「ただのプロ選手ではなく、スターを目指す」と口にしていた。
そしてまだ10歳そこそこの息子たちにも「サッカー選手というのはな、ものすごく厳しい世界なんだ。軽々しく『プロになる』なんて言うんじゃない!」と厳しい口調で説いている。
それだけに、理想的な形でプレーできる環境に自分の身を置くことを優先させるように立ち回れなかったものかと、残念に感じる部分も多々あった。
それに、早熟だったがゆえのプライドと、反骨精神旺盛なパリ郊外出身者という生い立ちも絡んでいるように思えた。
行く先々でトラブルに直面
アンリはアネルカが13歳でクレールフォンテーヌに入校した時について「『すごいヤツが入ってきたぞ!』とみんながザワついた」と振り返っている。
その後、16歳にしてパリ・サンジェルマンでトップデビューと順風満帆なキャリアのスタートを切るのだが、そこからは行く先々で、自発的にしろ、そうでないにしろ、様々なトラブルに見舞われている。
ヴェンゲル監督に見初められてアーセナルに移籍することになった時も、育成を受けたクラブで最初のプロ契約を結ぶ、というフランスリーグの掟を、ボスマンルールを盾に破った。
さらに上を目指したかった彼は20歳の時、当時の移籍金最高額でレアル・マドリーに迎えられたが、ここでもトレーニングをボイコットするという騒動を起こしている。
日々の行動から買い物したものまで逐一メディアに暴かれる度を越した報道のせいもあり、心身ともにコンディション不振に陥った彼は、スタッフと話し合いがしたいと直訴。
「練習前に話がしたい」と懇願したが「練習後だ」と突っぱねられたことで、練習参加を拒否したのだという。
人によっては「え? そんなことで? 後でもいいじゃん」と思うだろう。
しかし、アネルカにとって大事だったのは練習の前か後かではなく、「自分と真摯に向き合う意思がクラブ側にあるのかないのか」という点だったのだ。
自尊心を傷つけられることに過剰に反応するエピソードは他にもあった。
2002年のW杯の後、当時のフランス代表監督ジャック・サンティニが視察に訪れた時、「君のことはよく知らないから呼ばない」と言われると、「PSGやアーセナルやRマドリードでプレーしてきた自分を知らないなんてあるものか」と呆れ、「『もう2度と来るな』と言ってやった」と話している。
まあ、サンティニは端から見ても微妙なキャラクターだったから、アネルカが不信感を抱いたのも一理あるが……。
ウェストブロミッチ時代も、開幕戦で自分を交代させたスティーブ・クラーク監督に対し「プレシーズン中、ずっと攻撃の中心を担った自分に対するこの扱いはなんだ!」と激怒した。
それによって次の試合から干されてしまうのだが、結局クラーク監督はその後、成績不振により更迭。
新監督の下、数試合ぶりに出場した試合でさっそくゴールを奪うと、クラーク監督に向けて「どうだ、見たか!」という挑発ポーズをかましてみせた。
ところが、これが反ユダヤ思想のジェスチャーであると非難され、処分と罰金をくらっている。
W杯惨敗の責任を負わされたのか
ヴェンゲルはアネルカを「礼儀正しく、正直で誠実、忠誠心に厚い人物」と描写していたが、彼自身が他者への敬意をことさら重んじる人だからこそ、そうでない相手には嫌悪感を抱く。
ヴェンゲルやマンチェスター・シティ時代のケビン・キーガンなど、「この人は信頼できる」と思う師は、彼はとことん慕っている。
逆に自分の哲学に反する相手には、容赦なく立ち向かう。
彼のエピソードを語るうえでのクライマックスは、なんといってもあの事件、2010年のW杯南アフリカ大会だ。
練習をボイコットしたあげく0勝で敗退し、世界中に恥をさらしたフランス代表だが、ことの発端はアネルカとレイモン・ドメネク監督の衝突だった。
2戦目のメキシコ戦のハーフタイム、スコアは0-0、ドメネク監督がさぞアネルカのせいだと言わんばかりに彼の名前を口にしたことで口論になった。
翌日の『レキップ』紙の1面に、アネルカがドメネクに浴びせたという放送禁止用語がでかでかと掲げられると、フランスサッカー連盟だけでなくスポーツ相や大統領も「国民の象徴であるサッカー選手にあるまじき行為である」とアネルカを非難。
アネルカは即刻追放処分となってチームを離脱し、それを不服としたチームメイトたちが練習をボイコットするなど内部崩壊した、という顛末だ。
このドキュメンタリーの中でアネルカは、大会が始まる前の練習試合の時から、共通意識のまったくないチームに危機感を覚え、離脱したいとさえ思っていたと明かしている。
気になったのは、この騒動の時に連盟がアネルカをかばわなかったことだ。
2年前に放送されたドキュメンタリーの中でドメネクは、言葉のやりとりはあったが、『レキップ』紙に掲載された言葉は実際にはアネルカは発していない、と告白している。
ロッカールームでアネルカの隣にいたというウィリアム・ギャラスも「一切聞いていない」と証言しているのに、なぜ連盟はアネルカ側の主張を聞かず、即追放などという厳しい処分を下したのか?
メキシコ戦の後、選手たちは話し合いを持とうとドメネクを呼び出したが、ドメネクはこれにも応じていない。
ひょっとすると連盟は、勝ち目がなかったこの大会、実力不足で敗退したことになるより、一部の選手の暴挙のせいにしたほうが好都合だったから、もともと問題児扱いされていたアネルカに責任を負わせたのではないか? そんな深読みもしたくなってくる。
しかし、もしそれが事実だった場合、スケープゴートにされてしまう要素を持っていたという点に関しては、アネルカにも問題があった。
不器用な世渡り下手
良き理解者であるヴェンゲルは、「アネルカは日々の悩みを内側に溜め込んでいる。それがある瞬間に爆発してしまう。人々の記憶に残るのはその姿で、それが彼の印象になってしまっている」と語り、「環境にも恵まれなかった。そうでなければもっと上に行けていたはずだ」と結んでいる。
友達だったら、アネルカはものすごく信頼できる人なんだろうと思う。
多くの人に心を開くことはしないが、「この人なら」と思った相手には誠心誠意、接するタイプだ。
プライドは高そうだが、ズルやごまかしはしない。実直すぎて不器用な世渡り下手だ。
現在は家族とドバイで暮している。
彼はあまりに実直だったから、偽善的な世界ではうまく立ち回れないんだろうというような声もあった。
プレースタイル
なんでもできる万能型ストライカー。
驚異的なフィジカルの強さを持ち、抜群のスピードも兼ね備えている。
テクニックも非凡なものを持っており、ヘディングも強く、ストライカーとしては、はっきり言って穴というものがない。
アンリとトレゼゲを足して2で割ったようなタイプを言われている。
スピード、パワー、バランス、テクニック全てに秀でた選手であった。
一番の武器は、飛び出しと1対1のシュート。
アネルカは動き出しに優れた万能ストライカーといえる選手でした。
動き出しに優れ、的確なポジショニングとタイミングで一気に相手を置き去りにしてゴールを奪っていきます。
またGKとの1対1も非常に強く、憎たらしいほど冷静にゴールに流し込んでいくので、ラインを破られた時点で得点といってもいい選手でした。
またボール技術もあり、ポストプレーも巧みなので基準点になることもできました。
しかし、ポストプレイヤーにありがちな前線で張るプレーではなく、サイドに流れたり中盤に下がってボールを引き出す動きが得意でした。
そのため独力で局面を打開するよりもコンビネーションで崩すほうが相性がよく、優秀なパサーやパートナーが必要不可欠なプレースタイルでもあります。