概要
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1981年5月15日(41歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 173cm | ||
体重 | 72kg |
Patrice Evra
ポジションはディフェンダー(左サイドバック)。
利き足は左。
マンチェスター・ユナイテッドで活躍したフランス代表の左サイドバック。
2007-08シーズンにはマンチェスター・ユナイテッドでUEFAチャンピオンズリーグを制覇した。
当時、現役屈指の左サイドバックの一人と評された。
獲得タイトル
クラブ
- ASモナコ
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ 2003
- マンチェスター・ユナイテッドFC
- プレミアリーグ 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2010-11, 2012-13
- フットボールリーグカップ 2005-06, 2008-09, 2009-10
- FAコミュニティ・シールド 2007, 2008, 2010, 2011, 2013
- UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08
- FIFAクラブワールドカップ 2008
- ユヴェントスFC
- セリエA 2014-15, 2015-16
- コッパ・イタリア 2014-15, 2015-16
- スーペルコッパ・イタリアーナ 2015
個人
- PFA年間ベストイレブン : 2006–07, 2008-09
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー : 2009
経歴
クラブ
パリ・サンジェルマンFCのユース組織から選手生活を始める。
イタリアのクラブを転々とした後、当時リーグ・ドゥに所属していたOGCニースに移籍。
その昇格に貢献するなどしてフランスリーグ内での評価を高め、2001-02シーズン終了後にはディディエ・デシャン監督率いるASモナコに移籍した。
移籍した最初のシーズンから同じ左サイドを主戦場とするジェローム・ロタンとのコンビネーションで大車輪の活躍を見せ、2003-04シーズンでのUEFAチャンピオンズリーグ準優勝の主力メンバーにも名を連ねた。
シーズン終了後は数々の移籍話にも拘わらず残留を選択したが、師と慕ったディディエ・デシャンの2005-06シーズン途中での辞任もきっかけになったのか冬の移籍市場で移籍を決断。
2006年1月10日に推定移籍金550万ポンドでイングランドのマンチェスター・ユナイテッドFCに移籍し、イングランドの地で新たな挑戦を始めることとなった。
移籍後は同じ左SBの元アルゼンチン代表DFガブリエル・エインセとスタメン争いを演じた。
エインセはレギュラー争いに敗れる形で2007年にレアル・マドリードに移籍。
2006年11月29日のエヴァートンFC戦でオーバーラップからのプレミアリーグ初得点を記録。
PFAによるベストイレブンに選出されるなど、リーグ屈指のSBとしての地位を確立させました。
2007/08シーズンのチャンピオンズ・リーグでは10試合に先発し、決勝では同国のチェルシーを下しましたが、翌年には同じ舞台でバルセロナの軍門に下りました。
その後2年連続でリーグベストイレブンになり、ヴィディッチ欠場時に腕章を巻くなどチームでの重要度を高めます。
2010/11シーズンの11月20日ウィガン戦では、久々にゴールを決めています。
2012/13シーズンはセットプレーからの巧みなヘッドなどで自己最多の4ゴールを挙げ、2年ぶりのリーグ優勝を果たしました。
2014年7月21日に120万ポンドでユヴェントスへ移籍した。
チームはセリエA、コッパ・イタリアを制して2冠を達成し、チャンピオンズリーグでも決勝進出を果たすが、自身は終盤に負傷交代となり準優勝で敗退。
これによりチャンピオンズリーグ決勝で敗れた回数が4回となり、個人としては単独最多を記録した。
2016-17シーズンは、アレックス・サンドロの後塵を拝しスタメンから外れることが多かった。
2017年1月、オリンピック・マルセイユ移籍が決定。
日本代表SB酒井宏樹と同僚になった。
2017年11月2日、ヴィトーリア・ギマランエスとの試合で、試合前に味方サポーターにキックを見舞い、試合前にレッドカードを受け退場するという珍事件を起こした。
この事件を受けてマルセイユは11月10日付でエブラを解雇、またUEFAも同日、2018年6月30日までの出場停止と罰金の処分を発表した。
2018年2月7日、ウェストハム・ユナイテッドFCと2018年6月までの短期契約を締結した。
ウェストハムを退団後は1年間無所属が続き、2019年7月に現役引退を発表した。
代表
ここまでの活躍が認められてフランス代表に選出され、2004年8月16日の対ボスニア・ヘルツェゴビナ戦で初出場を飾る。
リザラズやアビダルの存在があり、2006年W杯や2008年欧州選手権予選での招集は多くありませんでした。
しかし、ユナイテッドでの活躍が評価されUEFA EURO 2008のフランス代表のメンバーに選出。
本大会中にエリック・アビダルからレギュラーを奪取した。
2010 FIFAワールドカップではティエリ・アンリに代わりキャプテンを務めたが、後述の首脳陣との対立、練習のボイコットなどもありチームは1勝もできぬままグループリーグで敗退した。
その後、主将として練習のボイコットを主導したとしてフランスサッカー連盟から5試合の出場停止処分が課され、エヴラはこれに抗議をしたが認められなかった。
その後、2011年3月17日に代表に復帰した。
2012年欧州選手権予選では中盤以降5試合に出場。
本戦では初戦のみ出場し、その後はクリシの存在によりベンチを温めました。
2014年W杯予選は8試合出場。
スペインと1勝1分に終わると、プレーオフでウクライナを逆転で下して2大会出場を決めます。
モナコで師事したデシャン監督からの信頼は変わらず、本大会でもグループリーグ突破を決めた後のエクアドル戦以外4試合に先発しました。
2016年欧州選手権は全7試合に出ますが、地元での優勝はなりませんでした。
2018年W杯予選も1試合にとどまっていましたが、2019年に現役引退を表明。
エピソード
陽気な人柄でチームのムードメーカーとしても知られているが、歯に衣着せぬ発言で物議を醸すことも多い。
08-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ準決勝でアーセナルFCを2試合合計4-1で下した際には、試合後に「11人の大人対11人の子どものような試合だった」と語りアーセナルを挑発。
更に同じシーズンのリーグ戦のアーセナル戦(この試合でマンUはリーグ3連覇を達成)後には、アーセナルのセスク・ファブレガスに対し、「ファブレガスは、故意に俺を負傷させようとした。そんなに殴るのが好きなら、ボクサーにでもなればいい」と発言している(マルカ紙より)。
2010 FIFAワールドカップのメキシコ戦にニコラ・アネルカがレイモン・ドメネク監督を侮辱し、チームから追放された事件で「(チーム内に)裏切り者がいる」と発言し、首脳陣と衝突。
練習ボイコットにまで発展させる要因となった。これにより前述のとおりフランス代表からは出場停止処分が課され、さらにフランスのマルセイユで行われた2010-11シーズンチャンピオンズリーグ決勝トーナメント・ラウンド16の1stレグに出場したが、エブラがボールに触れる度にマルセイユサポーターからブーイングを浴びることとなった。
2011-12シーズンのリーグ戦でリヴァプールFCを2-1で下した際、その前の対戦において自身に対し人種差別的な発言を行い、更にこの試合において試合前の握手を無視したルイス・スアレスのすぐ側でチームの勝利をこれ見よがしに祝福し、主審から注意を受けた。
10代の頃に性的虐待被害
自伝の宣伝で行われた英紙タイムズ(Times)とのインタビューで、13歳の時に通っていた学校の教師から被害を受けたと明かした。
虐待の経験については、自伝の中で触れたりインタビューで話したりするよりも、自身の母親に初めて伝えたときの方がつらかったというエブラは、「(母は)もちろん落ち込んでいた」と当時を振り返り、「つらい瞬間だった。まだ伝えられていないきょうだいや親しい友人もいる」と続けた。
今回公表することを決断した理由は、同様の状況にいるかもしれない子どもに手を差し伸べるためだといい、「この話を抱えて生きてきたのは、すごく後悔していることの一つ。多くの人を助けられたかもしれないから」と話した。
また、フランス・リーグ1のASモナコでプレーしていた24歳の時、警察から加害者の疑惑に関して連絡を受けたが、被害の経験について伝えることはできなかったとも明かした。
現在も加害者の男に対して法的措置を取るつもりはないとしている。
サッカー界屈指のジョーク好きと知られる彼だが、実は壮絶な人生経験を送ってきたという。
彼は11歳の時に友達の兄弟が射殺されるのを間近で目撃。「誰かが殴られたり、死んだりする時、自分にとってそれは映画ではなく、人生だった。誇りには思っていない。ギャングの話をする人が嫌いだ。自分にとってはサバイバルだった」と語っている。
13歳の時に通学時間短縮のために校長の家に寄宿していたが、性的な虐待を受けた。
『Daily Mail』によれば、その当時の話を自伝にこう綴っているそう。
パトリス・エブラ
「校長は僕が寝たと思い、僕のことを触ろうとした。
それが間違ったことだと僕は分かっていたので、彼の手を押しのけて、パンチしようとした…。
暗闇のなかで言葉をかわすことはなかったけれど、彼は自分自身に触り、性的に興奮していた。
あの家での最後の晩、僕が家族のもとに帰ることを知っていた彼はついにやり遂げた。僕のペニスを口に入れたんだ。
数年後にモナコでプレーしている時に警察から連絡があった。
数人の子供から校長への訴えがあり、警察は彼が僕にも何かしようとしていたのかを知りたがっていた。
僕は有名だったし、反応を恐れて、『ない』とウソをついた。確かかと確認されたが、そう答えた。
そのウソをずっと抱えて生きてきた。どれほど後悔しているかは言い表せない」
プレースタイル
スピードとスタミナを兼備した攻撃志向の強い左SB。
中盤との連係で一気に前線へ攻めてクロスを供給します。
フィジカルも強く、デシャンいわく「リザラズをほうふつとさせる」選手です。
一番の持ち味はスタミナです。
試合終盤になっても動きが衰えず粘り強い守備・攻撃→守備時のプレスに加え、攻撃面でもフリーランニグで味方を助けます。
攻撃面に関しては一人で抜くよりも味方とのコンビネーションで崩していくタイプです。(もちろん一人で抜けるテクニックもありますがあまり仕掛ける事はない)
ですので、チームに馴染むのに多少時間がかかります。
目立つプレーが少ない分あまり有名ではないですけど、豊富なスタミナを活かしたプレーで全盛期は間違いなく世界最高の左SBだったと思います。