概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1957年1月4日(65歳) | ||
出身地 | モン=ド=マルサン | ||
身長 | 177cm | ||
体重 | 75kg |
Joël Bats
ポジションはゴールキーパー。
利き足は左。
フランス代表のGKでは初めて50キャップを記録し、現在でもファビアン・バルテズに次ぐ歴代2位の出場数を誇る80’年代のフランスを代表するGK。
プラティニ時代のゴールキーパーで1984年の欧州選手権優勝時の守護神。
獲得タイトル
クラブ
パリ・サンジェルマン
- ディビジョン 1 : 1985–86
代表
フランス代表
- UEFA 欧州選手権: 1984
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点 ) |
1974–1976 | ソショー B | ||
1976–1980 | ソショー | 66 | (0) |
1980~1985年 | オセール | 184 | (0) |
1985–1992 | パリ・サンジェルマン | 254 | (0) |
代表歴 | |||
1983–1989 | フランス | 50 | (0) |
クラブ
ソショーでキャリアをスタートさせ、80年にはオセールへ移籍をするとゴールキーパーの素質が開花し、毎シーズン安定感のあるプレーを披露すると、85年にはパリ・サンジェルマンへ移籍をし、ここでも不動の守護神としてゴールを守り、80‐81シーズンにはリーグ優勝を果たしタイトル獲得に貢献した。
代表
1983年9月7日のデンマーク戦にフランス代表で初キャップを記録すると、翌年の欧州選手権での優勝に貢献。
準決勝では、ポルトガルに3-2で勝利し、決勝ではスペインを2-0で下し、アンリ・ドローネ杯を獲得し、初の主要国際タイトルを獲得した。
1989年に引退するまで、彼はフランスの第一選択のゴールキーパーであり続けた。
1986年のワールドカップ予選では8試合すべてに出場し、フランスはUEFA予選のグループリーグで首位に立った。
1986年のFIFAワールドカップ決勝では、フランスのグループステージ3試合、ラウンドオブ16、準々決勝、準決勝を全時間出場した。
準々決勝でブラジルと対戦になりバツは1‐1で迎えた後半26分にジーコの蹴ったPKをセーブすると、その後またもやジーコのヘディングシュートをファインセーブをして試合はPK戦に突入する。
ブラジルの1番手のソクラテスのPKをセーブするなどして、PK戦での勝利に貢献した。
しかし準決勝の西ドイツ戦では、バツが致命的なミスをしてしまい、ブレーメのフーキックを手で弾いてしまいブレーメに先制点をあげられ、敗退の要因を作った。
バツは1988年の欧州選手権予選8試合のうち7試合、1990年のワールドカップ予選8試合全てに出場した。
フランスはこの両大会で決勝トーナメントに進出することはできなかった。
バツは、1989年11月18日に行われた1990年ワールドカップ予選のホームでのキプロス戦に2-0で先発出場し、フランス代表として50試合目の出場となった最初のGKとなった。
エピソード
GKのユニフォームを半袖にしたのは、彼が最初だと言われている。
1986年メキシコW杯の準々決勝ブラジル戦でメキシコの猛暑に耐えかね、自分のユニフォームの袖を自分で切ったことが始まりとされている。
1986年、バツは自分の詩を音楽にし、アルバム『Gardien de tes Nuits(あなたの夜の番人)』を発表した。
同年、『L’Escargot』という童謡、『Soli Solitude』というバラード、『Même si je m’envole (Even if I am flying)』の3枚のシングルを発表した。
引退後
引退後はパリSGで指導者の道を歩み始め、1996年に同チームでリカルド・ゴメスと共に初めて監督に就任。
その後LBシャトールーの監督へと就任するが、1999年に成績不振で解任される。
この年12月にはフィリップ・トルシエ率いる日本代表の臨時コーチとして来日も果たした。
現在はオリンピック・リヨンのGKコーチを務めている。
プレースタイル
ゴールキーパーとして体格に恵まれてはいなかったが、鋭い反射神経と、ポジショニングに優れており、抜群の安定感を誇った守護神。