概要
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1959年10月2日(62歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 180cm | ||
体重 | 70kg |
Luis Fernández
ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
1980年代から1990年代にかけて活躍したフランス代表のミッドフィールダー。
フランス代表では、スペイン大会で「銀の中盤」と評されたミシェル・プラティニ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナを中盤の底で支えたベルナール・ジャンジニに代わり、新たな「銀の中盤」を形成。
獲得タイトル
クラブ
- パリ・サンジェルマンFC
- クープ・ドゥ・フランス:2回(1982、1983)
- ディヴィジオン・アン:1回(1986)
代表
フランス代表
- UEFA欧州選手権:1回(1984)
- アルテミオ・フランキ・トロフィー:1回(1985)
個人
- フランス年間最優秀選手賞:1回(1985)
- エトワールドール:1回(1986)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1978-1986 | ![]() |
225 | (30) |
1986-1989 | ![]() |
59 | (3) |
1989-1993 | ![]() |
93 | (5) |
代表歴 | |||
1982-1992 | ![]() |
60 | (6) |
クラブ
ASミングエットでサッカーを始め、1981年にフランスに帰化した。
19歳の時にパリ・サンジェルマンと初めてプロ契約を結ぶ。
1986年のFIFAワールドカップで敗退し、PSGで1部優勝を果たした直後、フェルナンデスはジャン=リュック・ラガルデールのチーム、ラシン・パリに移籍する決断を下した。
しかし、強いチームであったにもかかわらず、クラブとフェルナンデスは成功せず、彼は3シーズンでラシンを去った。
ラシンからフェルナンデスは1989年に、より控えめなクラブであるカンヌに移籍した。
クラブレベルでは、カンヌは1991-92シーズンの終わりにリーグ2に降格したが、フェルナンデスはクラブに残り、契約満了でキャリアを終えることにした。
しかし、数週間後、カンヌはフェルナンデスを監督に指名したため、選手兼任監督としてシーズンを終え、シーズン終了後にカンヌを1部リーグに復帰させた。
その後、プロ選手から引退し、専任の監督になった。
代表
1982年11月10日のオランダ戦でデビューを果たした。
23歳のフェルナンデスは、わずか数カ月前に1982年FIFAワールドカップの準決勝に進出したチームの重要な一員としてすぐに活躍することになった。
選手時代のキャリアのピークは1984年に自国で開催された欧州選手権。
フランス代表では、スペイン大会で「銀の中盤」と評されたミシェル・プラティニ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナを中盤の底で支えたベルナール・ジャンジニに代わり、新たな「銀の中盤」を形成。
決勝でスペイン代表を破り、フランス初の国際タイトルを手にした。
2年後に行われたワールドカップ・メキシコ大会では前評判も高く、準々決勝ではジーコ擁するブラジル代表をPK戦の末に破ったが、前回大会同様、西ドイツ戦で敗退、準決勝で姿を消した。
欧州選手権としては1992年のスウェーデン大会にも背番号10で出場しているが、グループリーグ敗退の憂き目に会っている。
エピソード
ワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝では、PK戦の最後のキッカーとして登場。
緊張のあまり「自分には蹴れない」とうずくまるフェルナンデスに、少し前にPKを外していたプラティニが「お前ならできる」と励ましている。
PKスポットに向かうフェルナンデスは俯いたままだった。
PKを決めて真っ先に向かった先はもちろんプラティニ。
試合後にロッカーで一番騒いでいたのはフェルナンデスだった。
引退後
ASカンヌ所属時代から選手兼監督を務め、指導者の道を歩み始めたフェルナンデスは34歳の若さにしてパリSGの監督に就任。
1994-95シーズンにクープ・ドゥ・フランスとクープ・ドゥ・ラ・リーグの2冠、翌シーズンにはカップウィナーズカップを獲得するなど、パリSGに初のヨーロッパタイトルをもたらすと共に、監督としての評価を高めた。
パリSG退団後はリーガ・エスパニョーラへと渡り、1997-98シーズンには強豪とはいえないアスレティック・ビルバオを2位に導いている。
2000年11月にパリSGに復帰。
当時所属していたロナウジーニョとの確執が伝えられ、チームも思うような結果を出すことが出来なかった。
2003-04シーズン途中にリーガに復帰し、降格の危機にあったエスパニョールを残留に導く。
2005年にはカタールのアル・ラーヤンSCと契約したが5ヶ月で解任され、その後イスラエルのベイタル・エルサレムで指揮を執っていた。
マルセイユで不遇を囲っていた中田浩二にオファーを出したことが、日本にも伝わっている。
2006年12月に不調に陥っていたベティスの監督に途中就任し、リーガに再度復帰した。
だがチームを浮上させることはできず、6月9日のオサスナ戦で0-5の大敗を喫した後解任された。
2008-09シーズン途中、スタッド・ランス監督に就任し、リーグ・ドゥ(仏プロリーグ2部)残留を目指すが、3部(フランス全国選手権)降格となり、解任。
2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選グループ2でサッカーイスラエル代表が予選敗退した後、イスラエルサッカー協会はドゥロル・カシュタン監督の後任として、協会内の勢力争いを受けることのない外国人監督就任を希望し、エリ・オハナを暫定監督に任命し、慎重に選定を進めていた。
2005-06シーズンに同国のベイタル・エルサレムを率いたフェルナンデスの実績を買い、彼のサッカーイスラエル代表監督就任を2010年3月21日に発表した。2010年5月1日から1年半の契約だった。
その後、イスラエル代表がUEFA EURO 2012予選グループFで敗退した為、イスラエルサッカー協会はフェルナンデス監督との契約を更新せず、2011年12月27日、元ハポエル・テルアビブFC監督のエリ・グトマンと2年契約でイスラエル代表監督に就任させた。
フランスのラジオ局RMCの番組「ルイス・アタック!」で自身がパーソナリティーを務めるなどインタビュアーとしても活動している他、スペイン語圏の選手に対しては自ら通訳もこなすなどピッチ外でも活躍している。
プレースタイル
攻守に渡り活躍できる総合力の高いMFでボールを奪うだけでなく、正確なパスもできるエキスパート。
豊富なスタミナを武器に攻守に渡り幅広いエリアをカバーする。
彼の存在があってこそ、プラティニ、ジレス、ジャン・ティガナは存分にその力を発揮できた。
高いインテリジェンスを生かした鋭い読みとフィジカルを生かした激しいタックルでボールを奪う守備力の高さが売り。
インテリジェンスやフィジカルだけでなくテクニックにも優れ、パサーとしても優秀で中盤でボールの配給係として機能した。
晩年には代表チームでゲームメイカーとしても活躍した。