概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1955年10月4日(67歳) | ||
出身地 | ラス・パレハス | ||
身長 | 188cm | ||
体重 | 73kg |
Jorge Valdano
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「エル・フィロソフォ(哲学者)」。
1980年代に活躍したアルゼンチン代表のストライカー。
アルゼンチンが1986 FIFAワールドカップで優勝した時のストライカー。
レアル・マドリードで「キンタ・デル・ブイトレ」(ハゲワシ部隊)の理想的なパートナーとして活躍。
しかし、病気のためこれからという時期にピッチを去らなければならなかった不運な選手である。
獲得タイトル
クラブ
ニューウェルズ・オールドボーイズ
- アルゼンチン プリメーラ ディビシオン: 1974
レアル·マドリード
- ラ・リーガ: 1985–86、1986–87
- コパ・デ・ラ・リーガ: 1985
- UEFAカップ: 1984–85、1985–86
代表
アルゼンチン代表
- FIFA ワールドカップ: 1986
個人
受賞歴
- ラ・リーガ年間最優秀外国人選手: 1985–86
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1973-1975 | ![]() |
49 | (12) |
1975-1979 | ![]() |
63 | (21) |
1979-1984 | ![]() |
143 | (47) |
1984-1987 | ![]() |
85 | (40) |
通算 | 340 | (120) | |
代表歴 | |||
1975-1990 | ![]() |
23 | (7) |
クラブ
73年にアルゼンチンの名門ニューウェルズ・オールドボーイズでプロデビュー。
そのシーズンのリーグ優勝に貢献し、75シーズンまでの3シーズンで11ゴールを挙げた。
75/76シーズンにスペインに渡る事になるのだが、移籍先は2部の所属するアラベスであった。
マラドーナやケンペスのように決してスーパースターとしてスペインに渡ったわけではなかった。
アラベスでは4シーズン、プレーし着実に結果を残すと、79/80シーズンからは1部のサラゴサに移って活躍することになる。
サラゴサに移ってからも特別目覚しい活躍をしたというわけではないが、バルダーノのプレーは徐々に評価を高める。
82/83シーズンには17ゴールを挙げる活躍を見せ、その活躍に注目したのがレアル・マドリードであった。
バルダーノもレアル・マドリードへの移籍を希望していたが、契約を全うするためもう1シーズンサラゴサでプレー。
そして、84/85シーズンにはついに念願叶って白いユニフォームに袖を通す事になった。
このシーズン、開幕からいきなり故障で出遅れたが、復帰すると26試合で17ゴールという素晴らしい成績を残した。
しかし、チームは低迷し5位になるのがやっとであった。
UEFAカップでは見事に優勝を果たし、バルダーノはそのタイトル獲得の原動力となった。
翌85/86シーズン、新しく加入したウーゴ・サンチェスと2トップを組み、素晴らしいコンビネーションを見せる。
バルダーノと中心とした攻撃的サッカーでレアル・マドリードは素晴らしいサッカーを見せ、レアル・マドリードは6シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。
さらに、UEFAカップでは2シーズン連続の優勝を果たし、見事2冠を達成した。(ここから、レアル・マドリードは黄金期を迎える)
ファーストチームに昇格したばかりの「キンタ・デル・ブイトレ」との相性は抜群で、エル・ブランコで4つのタイトルを獲得。
そのうち2つは、クラブのトロフィールームで他にはないUEFAカップのタイトルである。
しかしW杯明けの86/87シーズン、まさかの悪夢が襲う。
チームは開幕から絶好調。
バルダーノ、ウーゴ・サンチェス、ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケスらが華麗な攻撃サッカーを見せる。
しかし、シーズンの途中からバルダーノの動きにキレがなくなり、その後体調不良を訴える。
検査の結果、1987年の初めにB型肝炎と診断され、そのシーズンの終わりに現役を引退。
その時まで、リーガの80試合で40ゴールと高い得点率を維持し続けた。
その1年前には、アルゼンチン代表としてワールドカップ優勝も経験。
しかし、病気の影響と治療の大変さゆえ、プロ生活をそれ以上続けることはできなかった。
代表
ユース代表としてもエースとして活躍。
75年のユースの大会での優勝し、その存在はヨーロッパでも徐々に注目されるようになった。
アルゼンチンのA代表としては1975年に開催されたコパ・アメリカ1975の代表メンバーに選ばれ、同年8月6日に行われたグループリーグのブラジル代表戦に出場した。
1982年にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップ、1986年にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップと2大会連続で代表メンバーに選出された。
メキシコ大会では中盤のホルヘ・ブルチャガと共にエースのディエゴ・マラドーナをサポートし、グループリーグ初戦の韓国代表戦で2得点を挙げると、ブルガリア代表戦、決勝の西ドイツ代表戦でそれぞれ1得点ずつの通算4得点を記録。
全7試合にフル出場し優勝に貢献した。
1988年に肝炎を患ったことで現役を引退。
1990年、アルゼンチン代表監督のカルロス・ビラルドの意向により現役復帰し、代表に合流すると国際親善試合2試合に出場したが、同年に開催された1990 FIFAワールドカップの最終登録メンバーからは落選し、3度目のワールドカップ出場は逃した。
エピソード
現役引退後は指導者に転じ、1988年にレアル・マドリード・カスティージャの監督を経て、1991年にCDテネリフェの監督に就任。
チームを初のUEFAカップ出場に導いた。
1994年にはレアル・マドリードの監督に就任。
ラウール・ゴンサレスの才能を見抜きトップチームにデビューさせ、1994-95シーズンにリーガ優勝を果たすと同時に、ヨハン・クライフの率いるFCバルセロナの連続優勝を阻止した。
バレンシアCFで監督を務めた後、2000年7月にレアル・マドリードの会長に就任したフロレンティーノ・ペレスに招かれて、同クラブのスポーツディレクターに就任。
ルイス・フィーゴやジネディーヌ・ジダン、ロナウドの獲得に成功しチームを世界一のスター軍団へと変貌させた。
しかしリーグ優勝を果たしたにも関わらず対立のあったビセンテ・デル・ボスケ監督や主将フェルナンド・イエロを切ることで後の不振も招き、2004年6月に責任をとる形で辞任した。
2006年3月には、プロモーション活動のため、訪れていたメキシコでヘリコプターの墜落事故に遭い、重傷を負った。
2009年6月には盟友であるペレス元会長が、レアル・マドリード会長選挙に再選すると、副会長兼ゼネラルディレクターに就任。
しかし2011年5月25日、前年より監督に就任したジョゼ・モウリーニョら現場のコーチングスタッフと、移籍戦略や現場干渉、在籍選手に対する姿勢などで見解に大きく隔たりができたことを理由に、ゼネラルディレクターを解任された。
その後は、レアル・マドリードのご意見番としてエル・パイス紙での執筆活動や解説者業を行っている。
プレースタイル
大柄でヘディングが強いが、力強さを全面に押し出すのではなく、華麗な身のこなしで次々とゴールを決めるストライカー。
188センチと大柄ながら、テクニックにも秀でたフォワードだった。
空中戦に強いだけでなく、機動力でも目立ち、そのうえ両足を使えた。
大柄な体躯を生かした得点能力だけでなく、前線でコンビを組むエースのマラドーナやブイトレを生かすための献身的な動き、守備意識の高さでチームに欠かすことのできない存在であった。
前線では体を張り得点以外の面でもチームのために尽くす。
そのプレースタイルと素晴らしい人格で、多くの人から尊敬を受けた。
しかし、病気のためこれからという時期にピッチを去らなければならなかった不運な選手である。