概要
国籍 | ![]() ![]() ![]() |
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生年月日 | 1972年3月27日(51歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 180cm | ||
体重 | 85kg |
Jimmy Floyd Hasselbaink
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
1990年代から2000年代に活躍したオランダ代表のストライカー。
ジミー=フロイド・ハッセルバインクは現役時代、18シーズン、10クラブでプレーし、その過程で245ゴールを挙げたが、彼のキャリアがピークに達したのはチェルシーの選手としてであった。
オランダ代表では同じ時代にベルカンプ、クライファート、ファン・ニステルローイ、ロイ・マカーイ、ファン・ホーイドンクというワールドクラスのストライカーが活躍したため出番は限られた。
獲得タイトル
クラブ
ボアビスタ
- タッサ・デ・ポルトガル: 1996 – 97
アトレティコ・マドリード
- コパ・デル・レイ 準優勝: 1999 – 2000
チェルシー
- FAチャリティ・シールド: 2000
- FAカップ 準優勝: 2001 – 02
ミドルスブラ
- UEFAカップ 準優勝: 2005 – 06
カーディフ・シティ
- FAカップ準優勝: 2007 – 08
個人
- コパ・デル・レイ 得点王: 1999 – 2000
- プレミアリーグ得点王: 1998 – 99 , 2000 – 01
- モストアシスト プレミアリーグ: 1998 – 99
経歴
クラブ
オランダ人選手としては非常に珍しく、国内でほとんど結果を残すことができず、ポルトガルで成功を収める。
96/97シーズンには、強豪のボアビスタへ移籍。
ここではヌーノ・ゴメスと2トップを組みゴールを量産。
得点王になったポルトのジャルデウに次ぐ20ゴールと期待に応えました。
2人で35ゴールを挙げる活躍を見せ、ヌーノ・ゴメスはベンフィカへ、ハッセルバインクはリーズへ引き抜かれることとなった。
イングランドではまだ無名の存在であったが、1シーズン目から結果を残し、リーズのエースストライカーとして君臨。
98/99シーズンには、18ゴールを挙げ、プレミアリーグ得点王に輝き、欧州でも注目される存在となった。
キューウェル、ボウヤー、スミスらと共にリーグ4位貢献しました。
99/00シーズンからは、クリスチャン・ヴィエリの後釜を探していた、アトレティコ・マドリードに移籍。
環境の違いと、チームの極度の不振という難しい状況の中ではあったが、バレロンやソラーリのアシストもありゴールを量産し、すぐにサポーターの心をつかみ人気者となる。
24ゴールを挙げる大活躍を見せたが、チームは2部に降格。
ハッセルバインク自身はアトレティコ・マドリードというチームをかなり気に入っていたようで、残留するつもりであったようだが、チームの財政難の影響でチェルシーに売却されることとなった。
チェルシーでは、ゾラ、グジョンセン、ポジェの援護などにより、いきなり移籍したそのシーズンに23ゴールを挙げ、得点王に輝き。
翌01/02シーズンも23ゴールを挙げ、ヨーロッパを代表するストライカーの1人となった。
2年目はランパードの加入もありマークも軽減されます。
5度の1試合2ゴールや本拠スパーズ戦でのハットトリックと、昨年と同数ながら2度目の得点王に輝きます。
4シーズンで70ゴールを挙げる大活躍を見せが、アブラモヴィッチの政策により、モウリーニョが残留を望んでいたにも関わらず、03/04シーズン終了後にミドルスブラに放出。
ミドルスブラでは、マーク・ヴィドゥカと2トップを組み相変わらずの決定力で、UEFAカップ出場権獲得に大きく貢献、さらに翌シーズンのUEFAカップで大番狂わせを演じ、決勝で敗れたものの準優勝という快挙と遂げた。
現役最後のシーズンは下部リーグでのプレーとなったが、ファウラーとのコンビで7ゴール、FAカップでは優勝は逃したが決勝進出を果たしている。
代表
1998年5月27日カメルーン戦で代表デビューし、W杯は2試合出場。
クライファート、ファンニステルローイ、ファンホーイドンク、マカーイがひしめく中、2002年W杯予選では6試合に出てポルトガル戦など3ゴールと結果を残しますが、まさかの敗退となりました。
2004年欧州選手権予選は1ゴールで、本戦メンバーから落選しました。
代表では23試合で9ゴールを挙げている。
代表ではクラブレベルの実績からするとなんとも寂しい数字である。
というのも、同じ時代にベルカンプ、クライファート、ファン・ニステルローイ、ロイ・マカーイ、ファン・ホーイドンクというワールドクラスのストライカーが活躍したためである。
決したこれらのストライカーと比べて実力が劣っている訳ではなかったが、活躍の場は限られていた。
特にライカールト、ファン・ハール時代には、ほとんど活躍の場は与えられなかった。
エピソード
テリーの印象
ハッセルバインクが、チェルシーで主将を務めた元イングランド代表のDFジョン・テリーの印象を語った。
ハッセルバインクは、2000年に移籍金1500万ポンド(約26億円)でアトレティコ・マドリーから鳴り物入りでチェルシーに入団。
加入初年度のシーズンは、プレミアリーグで23得点を挙げ、得点王に輝いている。
一方、テリーはチェルシーの下部組織で育ち、1998年10月にトップデビュー。
2000年から就任したクラウディオ・ラニエリ監督に重用されて出場機会を増やすと、ハッセルバインク氏とは4年間ともにプレーした。
クラブでは650試合以上に出場している。
英紙『テレグラフ』によれば、ハッセルバインク氏にはテリーの将来性を確信した出来事があったという。
「チェルシーに来てから最初の日にテリーは大物になると予感した。初めての全体練習で、私を遠慮なく蹴り飛ばしたからね。彼がフットボールで生計を立てる覚悟があると直ぐに悟ったよ。テリーはプロの選手として最も大切なものを心得ていた。物事が悪い方向に傾きかけるときにチームを引っ張るには強い精神力がいるからね」
指導者
現役引退後は古巣チェルシーの下部組織などで経験を積み、2011年にはノッティンガム・フォレストのコーチに就任。
2013年1月に同職を退任、同年5月から ベルギー2部のロイヤル・アントワープの監督に就任した。
2013-2014シーズンを7位で終えるなどまずまずの成績だったが、シーズン終了後に退任、2014年11月からはイングランド4部のバートンの監督に就任。
2014-2015シーズンにバートンを4部リーグ優勝に導き、3部昇格の立役者となった。
その功績から複数のクラブが招聘に動いたとされるが、2015年12月4日にクイーンズ・パーク・レンジャーズの監督就任が発表された。
2017年9月4日、ノーサンプトン・タウンの監督に就任した。
プレースタイル
十分なパワーとスピードを擁し、独特の嗅覚から右足を振りぬく躍動感に満ちたプレーでゴールを量産するオランダ代表ストライカーです。
黒人選手特有のスピードとパワーが売りで、躍動感あふれるプレーでゴールの山を築いた。
ゴール前での得点感覚が優れているということは言うまでもないが、ハッセルバインクと言えば超強烈なシュートが代名詞と言える。
少々距離があろうと、角度が厳しくとも、DFに囲まれていようと、鋭い振りから放たれたボールは、うなりをあげてネットを揺らした。
その右足から放たれる弾丸シュートこそ、この屈強な男の代名詞である。
敵陣でパスを受ければバイタルエリアの手前であろうが、迷わずゴールを狙い、DFのみならずGKのブロックさえ突き破る弾丸シュートを放った。