オブドゥリオ・バレラ

 

概要

 

国籍 ウルグアイの旗 ウルグアイ
生年月日 1917年9月20日
出身地 モンテビデオ県モンテビデオ
没年月日 1996年8月2日(78歳没)
身長・体重 178cm、80kg

 

Obdulio Varela

 

ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ、センターハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

「ネグロ・ヘフェ(黒い闘将)」と呼ばれた闘将。

 

当時「国内最高のセンターハーフ」の評価を得ていた1940年代から1950年代に活躍したウルグアイ代表のミッドフィールダー。

 

1950年7月16日、超満員の観客を集めたマラカナン・スタジアムに響く熱狂的な声援が、一瞬のうちに悲鳴に変わった。

 

ブラジル国民の誰もが疑わなかったセレソン初優勝の夢が、逆転劇を演じたウルグアイによって打ち砕かれてしまったのだ。

 

ワールドカップの歴史に残る「マラカナンの悲劇」の試合。

 

この大逆転劇を生み出したのが、“ ラ・セレステ ”の偉大なキャプテン、オブドゥリオ・バレラのプレーだった。

 

バレラはファイティング・スピリットと卓越したリーダーシップで、劣勢を強いられたチームを鼓舞。

 

フィールドを走り回り展開力を発揮して、チームを逆転勝利に導いた。

 

まさに彼の統率力が無ければ、ウルグアイ2度目のワールドカップ優勝はなかったのだ。

 

獲得タイトル

クラブ

ペニャロール

  • ウルグアイ・ディビジョン1 1944年、1945年、1949年、1951年、1953年、1954年のリーグチャンピオン
  • トルネオデオナー 1944年、1945年、1947年、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年の勝者
  • コンペテンシア 1943年、1946年、1947年、1949年、1951年、1953年のトーナメント優勝者

 

代表

ウルグアイ代表

  • FIFAワールドカップ 1950年
  • コパ・アメリカ 1942年
  • コパ・バロンデリオブランコ 1940年、1946年、1948年
  • コパ・エスコバルジェローナ 1943年

 

経歴

 

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1936-1938 ウルグアイの旗 デポルティーボ・フベントゥ 60 (20)
1938-1943 ウルグアイの旗 モンテビデオ・ワンダラーズFC 105 (42)
1943-1955 ウルグアイの旗 CAペニャロール 302 (72)
代表歴
1939-1954 ウルグアイの旗 ウルグアイ 45 (9)

 

クラブ

 

1930年7月、ウルグアイで第1回大会となるWカップが行われた。

 

当時12歳のバレラは、準決勝と決勝をセンテナリオ・スタジアムのゴール裏、立ち見席で観戦。

 

母国代表の優勝を目撃して感激し、サッカー選手への憧れを強くする。

 

そして32年、地元のアマチュアクラブに入団。

 

体格の大きなバレラはセンターハーフとして頭角を現し、別の強豪クラブへ移籍する。

 

そこで徹底的に自分を磨き、本格的にプロを目指すようになる。

 

36年、市のU-20選抜のメンバーとなりアルゼンチンへ遠征、そこでプロチームの誘いを受けるが、申し出を断って帰国する。

 

すると間もなくウルグアイ2部リーグのチームからオファーが舞い込み、ついに念願のプロ契約を結ぶことになった。

 

バレラのひたむきなプレーは監督の信頼を得て、レギュラーを獲得、ほどなくキャプテンも任されるようになる。

 

38年、ウルグアイ1部リーグの強豪ワンダラーズに請われ移籍、すぐに攻守の要として中心的役割を担うようになり、バレラは20歳の有望選手として注目され始める。

 

この頃からバレルは「国内最高のセンターハーフ」の評価が定着し、1部リーグの名門、ペニャロールとナシオナルが彼を巡って争奪戦を繰り広げた。

 

破格の条件を提示されたバレルは43年にペニャロールへ移籍、44年には高いキャプテンシーでチームを6年ぶりの優勝に導き、「ネグロ・ヘフェ(黒い闘将)」と呼ばれるようになった。

 

46年、バレラらが中心となってウルグアイプロ選手会が発足、リーグ及びクラブに選手の待遇改善や権利の獲得を求めた。

 

そして要求に応じようとしない幹部たちへ対し、48年にストライキを決行する。

 

リーダーのバレラは関係者から妨害を受けるが、意志を貫通。

 

ついに要求の一部を認めさせ、ストライキは49年に終結した。

 

55年に現役を引退する。

 

代表

 

39年1月、ウルグアイ代表に初めて招集される。

 

そしてその年ペルーで開かれたコパ・アメリカのチリ戦で、途中出場によるデビューを果たした。

 

42年、地元ウルグアイでの開催となったコパ・アメリカでは、6試合すべてに先発出場。

 

決勝でアルゼンチンを1-0と下し、ウルグアイは4大会ぶり8度目の優勝を達成。

 

バレラは初の国際タイトルを手にした。

 

50年、ウルグアイはブラジルで開催される第4回Wカップへの参加を表明。

 

南米に棄権チームが出たため、予選を経ずに出場が決まった。

 

第1回大会チャンピオンのウルグアイだが、ヨーロッパで開かれた2回の大会には不参加、戦争による中断時期もあり20年ぶりの出場となった。

 

バレラはすでに32歳となっていたが、代表キャプテンに選ばれ、初めてとなるWカップに臨んだ。

 

大会直前に棄権国が出るも、グループリーグの組み替えは行われず、ウルグアイはボリビアのみと対戦。

 

格下を8-0と一蹴して、決勝リーグへ勝ち上がった。

 

優勝を決める決勝リーグを戦うのは、ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4ヶ国。

 

抽選の結果、ウルグアイは最終戦でブラジルと戦うことになった。

 

ブラジルはスウェーデンとスペインを難なく下し、勝ち点4の1位。

 

ウルグアイはスウェーデンに勝ったが、スペインとは引き分け、勝ち点3の2位となった。

 

そして7月16日の決勝リーグ最終節、20万人以上の観客を集めたマラカナン・スタジアムで、優勝を決める戦いが行われた。

 

国民の後押しを受けたブラジルに、ウルグアイは防戦一方。

 

開始から30分の間、ウルグアイのチャンスは数えるほどしかなかった。

 

だが猛攻を仕掛けるブラジルに、ウルグアイGKのマスポリが好セーブで凌ぐと、バレラも冷静にチームを統率して前半を0-0で折り返した。

 

しかし後半に入った47分、セレソンのエースであるアデミールが相手DFを引きつけ、抜け出したフリアサへスルーパス。

 

ブラジルに先制点が生まれると、スタンドは一気に興奮のるつぼと化した。

 

しかしこのとき、猛然と線審の元に駆け寄ったのがバレラだった。

 

バレラは線審が一瞬オフサイドの旗を上げたのを見逃さず、判定が覆らないと分かりながらも抗議を行ったのだ。

 

人々で溢れた会場からはバレラへ非難の目が向けられ、一斉に怒号の声が飛んだ。

 

それでもウルグアイのキャプテンは怯むことなく、毅然たる態度で抗議を続けた。

 

そうすることで、ブラジルの勢いを止めようとしたのである。

 

数分間の抗議ののち、バレラは試合に戻って「チャンスはまだある」と仲間を鼓舞する。

 

一方、熱狂する観客の声に冷静さを失ったブラジルは、守備固めを忘れてさらなる攻撃に出た。

 

すると66分にウルグアイが反撃、バレラが右サイドのスペースにボールを送ると、抜け出したギジャがクロスを送り、スキアフィーノの同点弾が決まった。

 

実は前半の28分、ギッジャと激しくやり合っていたブラジルのディフェンダーに、バレラが一喝を喰らわせるという出来事が起きていた。

 

バレラに一喝されたそのディフェンダーは、威圧感でギッジャのマークが甘くなってしまったと言われている。

 

抱き合いながら喜ぶウルグアイ選手たち。

 

しかしバレラはにこりともせず「早く戻るんだ」と仲間に声を掛け、「絶対に逆転するぞ」と叱咤の声を上げた。

 

引き分けでも優勝のブラジル、決して焦る必要はなかった。

 

しかし浮き足だったセレソンたちは、攻撃を開始、またもや空いたスペースを狙われてしまう。

 

79分、再びバレラのパスからギジャが右サイドを突破、そのままゴール前へ切れ込み、逆転弾を叩き込んだ。

 

静まりかえる、マラカナン・スタジアム。

 

そしてブラジル選手たちの動きは、金縛りに遭ったかのように止まってしまった。

 

こうしてウルグアイが2-1と逆転優勝、混乱する会場の中で、キャプテンのバレラはジュール・リメFIFA会長から短い祝辞と優勝トロフィーを受け取った。

 

そしてブラジルはこのあと「マラカナンの悲劇」の呪縛に苦しむことになる。

 

54年、36歳となったバレラは再びキャプテンとしてWカップ・スイス大会に出場、準々決勝のイングランド戦では強烈なミドルシュートを決めた。

 

しかしこの試合で右足靱帯を損傷、準決勝ハンガリー戦は欠場となりウルグアイも敗退してしまった。

 

それまでウルグアイはバレラがいた時、ワールドカップで無敗だった。

 

そしてこの大会を最後にバレラは代表を退き、翌年には現役も引退する。

 

エピソード

 

1950年のFIFAワールドカップではキャプテンとして出場し、ここでも優勝に貢献した。

 

特に決勝のブラジル戦では、引き分けでも優勝可能なブラジルに対して先制されるも冷静にチームを牽引。

 

ボールをフィールド中央に持って行き、「さあ勝つ時が来た」と叫んだことは今でも語り草となっている。

 

幼少期

 

1917年9月20日、バレラはウルグアイの首都モンテビデオ南部にあるテーラ地区で、7人兄弟の末っ子として生まれた。

 

父親は腸詰めソーセージを売り歩く小売人、母親は内陸部出身の黒人だった。

 

バレラはサッカー好きだった父親の手ほどきを受け、幼少頃からボールを蹴り始める。

 

だがバレラが7歳の時、貧乏が原因の家庭内不和で、父親が家を出て行ってしまう。

 

すると、まだ小さかったバレラも家計を助けるため、新聞売りや靴磨きをして小銭を稼ぐようになった。

 

最初小学校にも通ったがそれも3年で辞め、昼夜働きながら、仕事の合間にサッカーをして楽しむという生活を送る。

 

引退後

 

引退後は悠々たる生活を送り、94年にFIFA功労賞を受賞。

 

晩年は心臓疾患に苦しみ、96年にモンテビデオ市内の自宅で死去した。

 

享年78歳だった。

 

プレースタイル

 

守備的ミッドフィールダーとして活躍し強烈なリーダーシップを発揮した。

 

サッカー史上最高のキャプテンの一人とも見なされている。

 

強靭なフィジカルと驚異のスタミナで攻守に渡り活躍するリーダー。

 

展開力もありパスの供給源にもなる。

 

センターバックをこなせるほどの守備力も兼備した闘う男だった。

 

守備の中心でありながら、積極的に攻撃にも参加した。

 

ディフェンスの中心として活躍する一方、驚異的なスタミナでボールを追い、得点にもよく絡んだという。

 

強い体を生かして競り合いに強く、大試合でリーダーシップを発揮した。

 

「ネグロ・ヘフェ(黒い闘将)」と呼ばれた闘将で、当時「国内最高のセンターハーフ」の評価を得ていた。

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