概要
生年月日 | 1927年5月2日 | ||
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出生地 | モンテビデオ, ウルグアイ | ||
没年月日 | 1985年5月19日 ( 58歳) | ||
没地 | モンテビデオ、ウルグアイ | ||
身長 | 169cm | ||
体重 | 62kg |
Víctor Rodríguez Andrade
ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(右サイドバック)。
利き足は右。
1950年のワールドカップでブラジルを破り優勝したウルグアイ代表の右ハーフバック。
ロドリゲス・アンドラーデは、同じくウルグアイ代表のホセ・アンドラーデの甥にあたる。
ホセ・アンドラーデは、1930年のワールドカップで初優勝したウルグアイ代表の選手であり、ワールドカップ優勝者でもある。
クラブレベルでは、C.A.ペニャロールで2度のウルグアイ1部リーグ優勝を果たした。
獲得タイトル
クラブ
ペニャロール
- ウルグアイ・プリメーラディビジョン チャンピオン:1953年、1954年
代表
ウルグアイ代表
- FIFAワールドカップ 勝者: 1950; 準決勝進出者: 1954年
- 南米選手権 勝者: 1956年
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1945 – 1951 | セントラル・エスパニョール | ||
1952 – 1957 | ペニャロール | ||
代表歴 | |||
1947 – 1957 | ウルグアイ | 42 | ( 0 ) |
クラブ
幼少期、ロドリゲスはバリオ・スールとバリオ・パレルモのストリートでプレーしていた。
セントラル・フットボール・クラブでサッカー選手としてのキャリアをスタートさせ、そのクラブに在籍していた1947年に代表チームへの初招集を受ける。
1952年にペニャロールに移籍するまでセントラルに在籍し、ペニャロールでは1953年と1954年にウルグアイ選手権を制覇した。
代表
ロドリゲス・アンドラーデは、1947年12月から1957年5月までウルグアイ代表のジャージを着ていた。
1950年と1954年のワールドカップ決勝、1947年の南米選手権(自身初の公式戦)、1953年、1956年の南米選手権に出場した。
ラ・セレステでは通算42キャップを数え、ノーゴールだった。
●1950年ワールドカップとマラカナソ
1950年ブラジルワールドカップで、ロドリゲス・アンドラーデは、23歳というウルグアイ代表の中では若い部類に入るが、チームの4試合すべてに出場した。
大会の勝敗を決することになった決勝ラウンドのホスト国との試合では、ジジーニョをマークするのが彼の守備の仕事であった。
しかし、後に本人が語ったように、ロドリゲス・アンドラーデは、このプレー中にラインマンが旗を上げ、ブラジルのオフサイドを示すのを目撃した。
2点目、ウルグアイはジャッジに目をやると、フリアカはジャッジを置き去りにし、GKと1対1で対峙した。
その時、ロドリゲスはオブドゥリオ・バレラに叱咤され、ゴールは決まったが、バレラはウルグアイの状況を冷静にさせ、観衆を黙らせた。
ウルグアイは体勢を立て直し、フアン・スキアフィーノが同点ゴールを決め、アルシデス・ギジャが勝ち越しゴールを決めた。
●1954: ワールドカップの栄光の終焉
その4年後、スイスで開催されたワールドカップの決勝戦は、ハンガリー代表の活躍で幕を閉じた。
ゴールデン・チームは1次リーグで2勝を挙げ、17ゴールを挙げた。
一方、ウルグアイはチェコスロバキアとスコットランドと対戦し、それぞれ2-0、7-0で勝利し、グループ首位に立った。
第2ラウンドではイングランドを4-2で破り、ハンガリーも同じスコアでブラジルを下した。
準決勝では、ディフェンディング・ワールドチャンピオンと優勝候補が激突し、両チームによる最も見事なサッカーのデモンストレーションのひとつとして記憶されている試合で、ハンガリー代表がウルグアイにワールドカップ史上初の敗北を与えるのに120分を要した。
ロドリゲス・アンドラーデは、1950年大会と同様、大会の全試合に出場し、ワールドカップ出場最後の試合で、筋肉を痛め延長戦に出場しなければならなかったにもかかわらず、力強いプレーを見せた。
●南米選手権
ロドリゲス・アンドラーデが10代だった1942年に最後の南米タイトルを獲得したウルグアイは、彼が初めて出場した1953年と1955年の2回を含め、1945年から1955年まで6回連続で優勝することができなかった。
1955年大会では、アンヘル・ラブルナ率いるアルゼンチンに1-6で敗れる屈辱を味わった。
しかし、1956年初頭、モンテビデオで開催されたこの大会では、1950年ワールドカップ決勝のメンバーで唯一残っていたベテランのアンドラーデが、シャルルアスを優勝に導き、最終戦でラブルナとオマール・シボリのアルゼンチンを破った。
こうしてロドリゲス・アンドラーデは、ワールドカップと南米選手権を制した同世代の唯一のウルグアイ人選手となった。
最後の国際試合は1957年6月5日、アルゼンチン戦で1-1の引き分けだった。
そしてサッカー選手としてのキャリアを終えた。
エピソード
モンテビデオのバリオ・スールに生まれたビクトル・ロドリゲスは、叔父であるホセ・アンドラーデの名前を誇りに思う家族のもとに生まれた。
叔父への憧れと命名の習慣から、彼は両方の姓を使うようになった。
彼が「黒い驚異」と比較されたのは、彼が親戚であったからだけでなく、二人ともウイングでプレーしていたからである(アンドラーデは右サイドでプレーしていたが)。
そのため、ロドリゲス・アンドラーデという名前は、この左ミッドフィルダーを指すときに普遍的に使われ続け、時には単にアンドラーデと呼ばれることさえある。
引退後、約20年間、モンテビデオの議会宮殿で案内係として働き、その間、ウルグアイ・バスケットボール連盟のバスケットボールチーム「25デ・アゴスト」の創設に携わった。
ロドリゲス・アンドラーデは1985年5月に死去し、死後1ヵ月後、ルイス・ヒエロ・ガンバルデラ上院議員は議会のセッションで彼にスピーチを捧げた。
2005年12月、ウルグアイ郵政局は、ロドリゲスの最初のチームであるセントラルFC(1971年セントラル・エスパニョーラ)の創立100周年を記念した切手を発行した。
この切手には、クラブの歴史を象徴する3人の人物が描かれている。
中央には、ビクトル・ロドリゲス・アンドラーデ、チームメイトのルイス・リージョ、監督のフアン・ロペス。
2002年の決議を経て、2007年3月、モンテビデオ市議会とモンテビデオ市命名委員会は、ビクトル・ロドリゲス・アンドラーデに敬意を表し、バリオ・スールの通りを「ビクトル・ロドリゲス・アンドラーデ通り」に指定した。
プレースタイル
ポジションは右のハーフバック。
今で言うところのディフェンシブハーフと右サイドバックの混合のような役割。
主に右サイドでプレー。
スピードを生かして攻め上がり、好パスを送っただけでなく、守っては的確なタックルで相手を封じた。
不屈のメンタリティと豊富な運動量が最大の武器で、その運動量を駆使してピッチを駆け巡った。
守備の技術に秀でており、カバーリングやスライディングも巧だった。
またスピードがあり、パスやドリブルなどの基礎技術もあるので攻撃でも貢献できた。