概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年8月28日(56歳) | ||
出身地 | メデジン | ||
身長 | 172cm | ||
体重 | 80kg |
René Higuita
ポジションはゴールキーパー。
利き足は右。
愛称は「エル・ロコ(狂人)」。
1990年代に活躍したコロンビア代表のゴールキーパー。
長らくコロンビア代表のシンボルともいえる存在だった。
ペナルティエリア外へ飛び出し、相手のスルーパスをカットするスイーパー的な役割を担ったり、ドリブルで敵陣深く攻め上がり決定機を生み出すパスを供給するなど、それまで存在しなかった様な、全く新しいGKであった。
ペナルティーエリアを大きく飛び出し、高いDFラインの背後をカバー。
時にはドリブルで敵陣深くに攻め上がり、攻撃参加も見せた規格外のキーパー。
フィールドプレイヤーを兼ね備えたスタイルは、スイーパーGKの先駆的存在とされる。
FKやPKも得意とし、GKながら41得点を記録。
ロジェリオ・セニ、ホセ・ルイス・チラベルト、ホルヘ・カンポスなど攻撃型キーパーに大きな影響を与えた。
曲芸師のような「スコーピオン・キック」でスタンドを沸かせ、90年W杯ではコロンビアのベスト16進出に貢献。
しかしカメルーン戦ではいつもの飛び出しからボールを奪われ、ロジェ・ミラのゴールを許すという失態を演じている。
長髪に髭をたくわえた独特の風貌でカルロス・バルデラマとともに長らくコロンビア代表のシンボルともいえる存在だった。
強烈な個性とインパクトを放ち、記録よりも記憶に残る選手だった。
獲得タイトル
クラブ
アトレティコ・ナシオナル
- コパ・リベルタドーレス: 1989; 準優勝1995
- コパ・インターアメリカーナ: 1989
- インターコンチネンタルカップ: 準優勝 1989
- コロンビアリーグ: 1991、1994
代表
コロンビア代表
- コパアメリカ 3位: 1993, 1995
個人
- 南米チームオブザイヤー:1989年、1990年
- ゴールデンフットレジェンドアワード: 2009
経歴
クラブ
学校のクラブでサッカーを始め、最初はFWとしてプレー。
チームのトップスコアラーとなるほどの活躍を見せが、たまたま欠場したキーパーの代役を務めたことから、そのポジションでの適性に気づき活躍の場を移す。
85年、19歳となったイギータは、首都ボゴタの名門ミジョナリオスFCでプロとしてのキャリアを開始。
主にフィールドプレイヤーとして16試合に出場し、7ゴールの記録を残す。
86年、故郷の古豪ナシオナル・メデジン(アトレティコ・ナシオナル)に引き抜かれて移籍。
翌87年には、歯科医という異色の経歴を持つ、フランシスコ・マツナラが監督に就任する。
ウルグアイでのコーチ時代に、ゾーンディフェンスによるプレッシング戦術を学んだというマツナラ監督。
高いDFラインから陣形をコンパクトに保ち、数的優位を作って局地戦でボールを奪取、素早く攻撃に繋げる「スモールサッカー」を掲げ、チーム改革に臨んだ。
マツナラはその戦術を実現するための選手を各クラブから集める一方、メデジンの優秀な若手をレギュラーに抜擢した。
その一人が、ショーマンシップで沸かせる異色のGK、イギータだった。
相手をかわす足技を持ち、果敢な飛び出しからスイーパーの役割を果たすイギータは、高いDFラインの裏をカバーするのにうってつけの人材。
それに加えて、彼がドリブルで駆け上がることで攻撃の厚みも増すという利点もあった。
リスクを伴うイギータのプレーに眉をしかめる者もいたが、『個人の自由を尊重し、それぞれの特徴を生かし切る』をコンセプトにするマツナラ監督は、「プレッシングに必要なのは体力より集中力。イギータはチームに緊張感を与えてくれる」とそれを問題にしなかった。
長い低迷期にあったメデジンだが、イギータ、エスコバル、ペレア、アルバレス、ガルシアと強力な陣容を整え、88年のコロンビアリーグではミジョリナスに続く2位。
コパ・リベルタドーレス(南米クラブ選手権)への出場権を得る。
89年2月からリベルタ・ドーレス杯のグループステージが開始。
グループを2位で勝ち上がったメデジンは、トーナメントの1回戦でアルゼンチンのレーシングを撃破、準々決勝へ進む。
準々決勝は、ミジョリナスとの同国ライバル対決。
メデジンはこのライバル対決を2戦合計で2-1と制し、準決勝ではウルグアイのダヌービオFCにホームで6-0と圧勝。
ついに決勝進出となった。
5月に行われた決勝は、パラグアイチャンピオン・オリンピアとの戦い。
敵地での第1戦は0-2と落としてしまうが、ホームでの第2戦は逆に2-0の勝利。
2戦合計で4-4と並び、優勝の行方はPK戦に持ち込まれた。
オリンピアの1人目をイギータが止めるも、メデジンの4人目が外して4-4。
メデジン5人目のキッカーにイギータが名乗りを上げ、見事に沈めてPK戦はサドンデスに突入する。
このあと両チーム3人ずつが失敗したあと、イギータがオリンピアの9人目をナイスセーブで阻止。
最後にアルバレスが決め、メデジンがコパ・リベルタドーレス初制覇を果たす。
4本のPKを止めて、自らも1本を決めたイギータは優勝の立役者となった。
南米のクラブ王者となったメデジンは、12月に行われたトヨタカップで、当時世界最強のACミランと戦う。
奇しくもプレッシング戦術を掲げるチーム同士の戦いは、白熱の展開。
ミラン圧倒的有利の予想を覆し、両者互角の勝負を繰り広げた。
試合は0-0のまま延長に突入。一進一退の攻防は続き、PK戦が見えてきた117分、ファン バステンがPエリア付近で倒され、ミランがFKのチャンスを得る。
このFKを途中出場のエヴァーニが叩き込み決勝点。
メデジンは惜しくも優勝を逃してしまったが、その戦いぶりは世界のファンに強い印象を残した。
91年にはメデジンのリーグ優勝に貢献。
代表では同年のコパ・アメリカ(チリ開催)に出場し、グループリーグ4試合を1失点に抑え、ベスト4進出に大きな役割を果たしている。
そのあとスペイン・バリャドリッドの監督に就任したマツナラに招かれ、イギータはバルデラマ、アルバレスとともにスペインに渡り「コロンビア・コネクション」を形成する。
しかし、スペインサッカーが水に合わなかった「コロンビア・コネクション」が真価を発揮することはなく、バリャドリッドは開幕から低迷。マツナラ監督は解任となり、コロンビアの3人も退団。
イギータは93年にメデジンへ復帰する。
97年にメデジンを退団した後は、国内外の各クラブを転々。04年、エクアドルのアウカス在籍中にコカインの陽性反応が出て逮捕。
6ヶ月の活動停止処分を受けてしまう。
逮捕後に引退を表明していたイギータだが、07年にベネズエラのグアロスFCと契約を結び、40歳で現役に返り咲く。
そして08年にはコロンビアに戻り、10年1月、43歳で現役引退。
代表
87年からナシオナル・メデジンと兼任でコロンビア代表を率いることになったマツナラ監督。
代表の司令塔に “カリブの怪人” バルデラマを据えて、同年のコパ・アメリカ(アルゼンチン開催)で旋風を起こして3位の好成績を収める。
イギータはこの大会のあと代表に選ばれ、89年のコパ・アメリカ(ブラジル開催)に初出場。
G/L初戦のベネズエラ戦では、PKによる得点を挙げて勝利に貢献するが、グループ3位に終わり決勝トーナメントに進めなかった。
マツナラ監督は、ボランチのアルバレスを加えたメデジンの強固な守備陣(メデジン・ユニット)を、そのまま代表に移植。Wカップ南米予選では思わぬ苦戦を強いられるが、大陸間プレーオフでイスラエルを下し、28年ぶり2回目のWカップ出場を果たす。
90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。
コロンビアは初戦でUAEと対戦、イギータはいつものように奔放なプレーで人の目を引きつけながら、2-0の完封勝利を収める。
しかし第2戦はオフサイド・トラップの掛け損ないから失点、ユーゴスラビアに0-1の敗戦を喫してしまう。
グループ突破を懸けた最終節の対戦相手は、優勝候補の西ドイツ。コロンビアは欧州の強豪を相手に、得意のプレッシングサッカーを展開。
狭いスペースに押し込めてボールを奪うと、バルデラマを中心とした攻撃陣が、奔放なパス交換で西ドイツを苦しめる。
しかしともに得点は生まれず、終了時間が近づいた88分、フェラーとの連携からリトバルスキーにDFラインの裏を突かれて失点。
コロンビアは瀬戸際に追い込まれた。
ロスタイムの2分、バルデラマを起点にリンコン、ファハルドとボールがわたり、最後はバルデラマ必殺のスルーパスからリンコンが同点弾。
土壇場で1-1と引き分けたコロンビアは、グループ3位ながら辛うじてベスト16に進む。
トーナメント1回戦は、開幕戦で前回王者アルゼンチンを倒し、勢いに乗るカメルーンとの戦い。
前半はコロンビア優勢で試合が進むが、後半54分にカメルーンは38歳のロジェ・ミラを投入。
年齢を感じさせない老雄の鋭い動きに、コロンビアは手を焼く。
スコアレスで延長に突入した106分、オマン・ビイクのパスに抜け出したミラが、ペレアとエスコバルを置き去りにしてシュート、イギータの肩口を破って先制点を決める。
その3分後、Pエリアを飛び出したイギータがボールをキープしようとするも、ミラがすかさず奪って無人のゴールへ2点目を流し込む。
116分にバルデラマとのワンツーからルディンが1点を返すが、追撃及ばず1-2の敗戦。
負けに繋がる失態を演じたイギータだが、「初めての大きなミスだった。でも謝ったらチームのみんなが許してくれた。だから今後も自分のスタイルを変えるつもりはない」と、落ち込むことはなかった。
のちにGKのバックパス・キャッチが禁止され、足で扱うようにと改正されると、新しいルールは「イギータ法」と呼ばれることになる。
W杯南米予選を控えた93年6月、誘拐事件に関与した容疑でイギータは逮捕されてしまう。
当時、麻薬王パブロ・エスコバルのメデジン・カルテルと、対立する犯罪組織カリ・カルテルの抗争が激化。
その中でカリ・カルテル幹部の娘が誘拐されるという事件が起き、イギータがエスコバル側の仲介人となって解決に当たった。
その時に仲介報酬を受け取ったことで、事件への関与を疑われたのだ。
イギータは「エスコバルとは友人だが、仲介をしただけで事件に関わっていない」と無罪を主張。
結局その訴えは認められるが、7ヶ月の間収監されたイギータは、94年のアメリカWカップに出場することが出来なかった。
W杯南米予選でアルゼンチンを2-1、5-0と続けて撃破。
2大会連続Wカップ出場を果たしたコロンビアは、優勝候補のダークホースに挙げられるなど、国民の期待は高まっていた。
しかし初戦のルーマニア戦を1-3と落とすと、第2戦のアメリカ戦はDFアンドレス・エスコバルのオウンゴールなどで1-2の敗北。
コロンビアは早々の帰国となった。
アメリカ戦敗北の10日後、代表キャプテンでイギータのチームメイトであるエスコバルが、メデジン郊外のバーで射殺されたという悲報が世界にもたらされる。
コロンビア代表に復帰したイギータは、95年6月にウェンブリー・スタジアムで行われたイングランドとの親善試合に出場。
イングランドMFジェイミー・レドナップがループシュートを放つと、身体を反らし、曲げた両足のかかとで跳ね返す曲芸技「スコーピオン・キック」を披露。
詰めかけた観客を大いに沸かせた。
その2ヶ月後には、コパ・リベルタドーレス準決勝・第1レグのリーベル・プレート戦に出場。
0-0で進んだ後半の51分にメデジンがFKのチャンスを得ると、前線に上がってきたイギータがボールをセット。
彼の蹴ったボールは見事にゴールネットを揺らし、1-0と勝利の立役者となる。(第2レグで追いつかれ、PK戦負けで準決勝敗退)
遊び心満載で破天荒なプレーは賛否両論。
しかしイギータ本人は、少しも気にかけることなどなかった。
エピソード
05年にはテレビの企画で整形手術をしたり、リアリティー番組に参加してサバイバル生活を体験したりと、その突飛で奇矯な行動から「エル・ロコ(狂人)」のあだ名を授かる。
1993年6月4日、麻薬王パブロ・エスコバルによって麻薬組織の大物カルロス・モリーナの娘が誘拐された事件に介入し、逮捕された(後に冤罪と判明)。犯人グループへ身代金を渡したことの報酬として6400ドルを受け取ったため、事件から利益を得ようとする犯罪であるとして、7か月間投獄された。
長期間、刑務所に収監されていたため、1994 FIFAワールドカップに出場できなかった。
南米予選においてアルゼンチンに圧勝したことなどからコロンビアは優勝候補に挙げられていたが、イギータを失った同国はグループリーグで敗退した。
2004年11月29日、コカイン陽性反応により逮捕された。
2008年4月、コロンビア代表のコーチ就任を希望し、活発に政治的な活動をしたいと表明した。
引退後
引退後はサウジアラビアのクラブでコーチを務め、17年にはゴールキーパーコーチとして古巣のナシオナル・メデジンに復帰している。
プレースタイル
ペナルティエリア外へ飛び出し、相手のスルーパスをカットするスイーパー的な役割を担ったり、ドリブルで敵陣深く攻め上がり決定機を生み出すパスを供給するなど、それまで存在しなかった様な、全く新しいGKであった。
ペナルティーエリアを大きく飛び出し、高いDFラインの背後をカバー。
時にはドリブルで敵陣深くに攻め上がり、攻撃参加も見せた規格外のキーパー。
守備に回っても、相手のスルーパスを足で食い止めるなどDFの仕事に割り込んだ。
ペナルティエリア外へ飛び出し、相手のスルーパスをカットするスイーパー的な役割を担ったり、ドリブルで敵陣深く攻め上がり、センタリングを上げたりするプレースタイルから「21世紀のキーパー」とも言われ、後に登場したホルヘ・カンポスやホセ・ルイス・チラベルト、ロジェリオ・セニといった攻撃的なゴールキーパーの先駆けとなった。
PK阻止率の高さゆえにレフ・ヤシン以上と言われた事もある。
高いDFラインの背後をカバーするのにうってつけの足技の持ち主だった。
ただ、イギータは裏に蹴られたボールを飛び出してクリアするのではなく、コントロールして攻撃の第一歩に変えた。
それにとどまらず、時には相手FWをドリブルで1人、2人とかわすプレーもやってのけた。
フィールドプレーヤーを兼ねたスタイルは、今でこそそういうプレーも見かけるものの、当時は画期的どころかクレイジーなスタンドプレーとしか思われていなかった。
だが、マツラナ監督はイギータのスタイルを改めようとせず、むしろ奨励した。
イギータはペナルティーエリアを飛び出して、相手のロングボールやスルーパスをカットすると、そのままドリブルで1人、2人とかわす。
最初は受け入れられない人も多かった。
マツラナ監督は、のちにこう話している。
「最初からガンジーが好きな人ばかりではないさ」
偉大な変革者の多くは初期の段階で理解されない。
しかし、イギータのプレーは時代の先を行くかどうかは別にして、受け入れない人には受け入れられない何かがあった。
FKやPKも得意とし、GKながら41得点を記録。
スコーピオンキック
少し前方へ飛び上がりながら、体を反らしてカカトで蹴ったセービング。
空中でイギータの両腕は飛行機の翼のように左右に開かれ、サソリの尾のように持ち上げられた両足のカカトで見事にボールをヒットしていた。
「ウチには手でセーブできるGKがいるから、イギータは要らないよ」
イングランドのテリー・ベナブルズ監督の反応は素っ気ないが、観客はもちろん大喜びである。
イギータは何度かほかの試合でもスコーピオンをやっているらしい。
こんな方法でシュートを防ぐことに意味はない。
手でキャッチすれば済む話だ。
でも、それでは面白くない。
それではイギータらしくない。