概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年8月14日 | ||
出身地 | ブエナベントゥーラ | ||
没年月日 | 2022年4月13日(55歳没) | ||
身長・体重 | 185cm、80kg |
Freddy Rincón
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「エル・コロソ(巨人)」。
1990年代に活躍したコロンビア代表のミッドフィールダー。
バルデラマやアスプリージャと同世代のコロンビア黄金期のメンバーの一人。
主に南米のクラブで活躍し、コロンビア代表としても1990年、1994年、1998年のワールドカップに出場した。
獲得タイトル
クラブ
インディペンディエンテ・サンタフェ
- コパ・コロンビア: 1989
アメリカ・デ・カリ
- カテゴリープリメーラA: 1990、1992
パルメイラス
- カンペオナート・ブラジレイロ・セリエA: 1994
- カンペオナート・パウリスタ: 1994
コリンチャンス
- ブラジレイラン: 1998, 1999
- カンペオナート・パウリスタ: 1999
- FIFAクラブワールドカップ: 2000
代表
コロンビア代表
- コパアメリカ 3位: 1993, 1995
個人
- ボラデプラタ: 1999
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1986 – 1988 | アトレティコ・ブエナベントゥーラ | 77 | ( 18 ) |
1988 – 1990 | インデペンディエンテ・サンタフェ | 82 | ( 20 ) |
1990 – 1993 | アメリカ・デ・カリ | 177 | ( 54 ) |
1993 – 1995 | パルメイラス | 28 | ( 12 ) |
1994 – 1995 | → ナポリ (ローン) | 28 | ( 7 ) |
1995 – 1997 | レアル・マドリード | 21 | ( 0 ) |
1996 – 1997 | → パルメイラス (ローン) | 17 | ( 7 ) |
1997 – 2000 | コリンチャンス | 151 | ( 37 ) |
2000 | サントス | 20 | ( 1 ) |
2001年 | クルゼイロ | 16 | ( 1 ) |
2004年 | コリンチャンス | 7 | ( 2 ) |
合計 | 627 | ( 162 ) | |
代表歴 | |||
1990 – 2001 | コロンビア | 84 | ( 17 ) |
クラブ
リンコンは、1986年にインデペンディエンテ・サンタフェでプロとしてのキャリアをスタートさせ、1989年には首都のクラブでコパ・コロンビアを制覇し、その活躍は国内でも高く評価された。
アメリカ・デ・カリでは、1990年と1992年にコロンビア選手権を制覇した。
1994年のワールドカップでの活躍がきっかけとなり、パルマはコロンビア人MFと契約を結ぶ。
しかし、外国人選手3人ルールのため、ナポリに貸し出され大活躍をしたが、彼を留める金銭はナポリにはなかった。
最終的に1995-96年のシーズンにレアル・マドリードに売却されたが、人種差別を受け、思うような結果が残せずにヨーロッパを去ることになる。
その後、リンコンは、キャリアの後半をブラジルのクラブサッカーで過ごし、パルメイラス、コリンチャンス、サントス、クルゼイロでプレーした。
コリンチャンスに所属していた時、クラブは1998年と1999年にブラジル選手権を制覇し、2000年には自身最高のタイトルである第1回FIFAクラブワールドカップを制覇した。
代表
リンコンは、コロンビア代表として84キャップ、17ゴールを挙げ、1990年、1994年、1998年のワールドカップに出場した。
彼の最も記憶に残るゴールは、1990年ワールドカップの6月19日、イタリアのミラノで行われた西ドイツ戦でのゴールである。
ロスタイムに入り、コロンビアはグループリーグ敗退を免れるために、1点が必要だった。
カルロス・バルデラマからのパスを受けたリンコンは、冷静にボド・イルグナーの股を抜くシュートを決め、チームが必要としていた引き分けに持ち込んだ。
1993年9月5日、1994年FIFAワールドカップ予選のアルゼンチン戦で、チームメイトのカルロス・バルデラマからボールを受け、アルゼンチンのGKセルヒオ・ゴイコエチェアを抜き去り、先制点を決めた。
エピソード
2005年8月20日にブラジルのSão Paulo Perdizes Stakeで洗礼を受けたモルモン教徒である。
2005年、リンコンは2006年シーズンのイラティの監督に任命され、サッカー監督のキャリアをスタートさせた。
2006年9月27日、リンコンはサン・ベントの監督に任命された。
2009年、コリンチャンスのユースチームのヘッドコーチに就任。
2007年にコカイン密輸の共犯と資金洗浄の疑いでコロンビアとパナマで犯罪捜査が行われ、5月10日にサンパウロ警察が身柄を拘束した。
2013年8月、バジェ・デル・カウカ県で交通事故にあい地元の病院で手術を受けた。
事故死
2022年4月11日、故郷のバジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリ市内にて、乗車していた乗用車とバスが衝突。
リンコンは頭部に重傷を負い、重体と発表されていたが、懸命な治療の甲斐もなく、13日に死去したことが発表された。
プレースタイル
驚異の身体能力を誇ったセンターハーフ。
圧倒的なフィジカルと驚異のスピード、それに無尽蔵のスタミナを武器にまさに巨人のように中盤に君臨した。
ジャンプ力もあり空中戦でも強さを発揮した。
そのスピードを活かしてドリブル突破することもある。
またその強烈なキックから繰り出される弾丸シュートも武器の一つ。