概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1967年1月18日(56歳) | ||
出身地 | サンティアゴ | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 73kg |
Iván Zamorano
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は」「ヘリコプター」、「バンバン」、「ザ・デリブル(恐怖の男)」「イワン(イバン)雷帝」。
1990年代に活躍したチリ代表のストライカー。
チリの国民的英雄である。
若くしてヨーロッパに渡り、スペインやイタリアなどで活躍。
それまで海外に出る事の少なかったチリ人選手で初めての成功者となった。
レアル・マドリード時代の95年には得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献している。
チリが「ロハス事件」の不祥事による制裁を受け、90年と94年のWカップ出場は叶わなかったが、98年にはマルセロ・サラスという相棒を得てフランス大会に初出場。
サラスとの「ZA-ZA(ササ)コンビ」は伝説のコンビとして有名。
2000年のシドニー五輪にはO/A枠で参加し、銅メダル獲得に大きな役割を果たした。
獲得タイトル
クラブ
CDコブレサル
- セグンダ・ディビシオン – 1985
- コパ・チリ – 1985
レアル・マドリード
- プリメーラ・ディビシオン – 1994-95
- コパ・デル・レイ – 1993
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ – 1993
インテル
- UEFAカップ – 1997-98
クラブ・アメリカ
- プリメーラ・ディビシオン – 2002
代表
チリ代表
- オリンピック 銅メダル – 2000
個人
- EFE賞 – 1992–93, 1994–95
- ピチーチ賞 – 1994-95
- スペイン最優秀外国人選手 – 1994-95
- ESM選出欧州年間ベストイレブン – 1994-95
- オリンピック得点王 – 2000
経歴
クラブ
地元のクラブチーム、CDコブレサルでデビュー。
1987年には、カップ戦も制して名を挙げた。
その後1988年には同じチリの、ウーゴ・ルビオと共にボローニャの入団テストを受けたが、ルビオのみ契約を勝ち取った。
そこでスイスのFCザンクト・ガレンへ移籍して、23得点を挙げて得点王になるなど、頭角を現した。
翌年セビージャFCへ移籍。
1990-91シーズン、第2節のレアル・マドリード戦で移籍後初ゴールを決めた。
2シーズンで、61試合で37得点を決めるなど、ここでも得点能力の高さを証明し、1992-1993シーズンには500万ドルでレアル・マドリードへ移籍を果たす。
レアル・マドリードに所属した4年間でリーグ戦137試合に出場し、77得点を記録。
「バンバン」の愛称で親しまれ、ファンの間で人気を博した。
当時スペインリーグはヨハン・クライフ監督率いるFCバルセロナが無敵のチームとして君臨していた。
しかしレアルはリーグ、カップ、スーパーカップを獲得した。
移籍初年度の1992-93シーズン、第34節のセヴィージャ戦でのハットトリックなど26得点を挙げた。
翌93/94シーズンはバルダーノ監督の信頼を得ることができず、ベンチを温める時間が長くなる。
1993-94シーズンのスーパーカップ、バルセロナ戦では1stレグ、2ndレグで共に1ゴールを挙げて優勝に貢献した。
1994-1995シーズン、最終的に28得点を挙げて得点王に輝くなど、ラウドルップと並びリーグ制覇に最も大きな役割を果たした。
宿敵FCバルセロナから移籍してきたミカエル・ラウドルップ、超新星ラウールそしてアマビスカらと強力攻撃陣を築き、自ら28得点を挙げ得点王になるとともに5シーズンぶりにリーグ制覇をもたらした。
同シーズン、第16節のFCバルセロナとのクラシコではハットトリックの活躍でライバルからの勝利に大きく貢献した。
1996-1997シーズンにはセリエA・インテルへ移籍、リーグ7節のパルマ戦で移籍後初得点と2点目を決めた。
1997-98シーズンのUEFAカップ決勝では、ラツィオ相手に決勝ゴールを決めて、優勝に貢献した。
インテルではそれ程多くの得点を奪えなかったが、常に全力でプレーするプレースタイルはファンの支持を集めた。
2001年にはメキシコのクラブ・アメリカへ移籍し、初戦でハットトリックを達成するなどの活躍でリーグ優勝に貢献。
キャリアの最後のシーズンを母国のクラブチーム・CSDコロコロで過ごし、2003年に現役を退いた。
同12月23日にはサンティアゴで引退試合が行われ、5万の観衆が引退を惜しんだ。
代表
1987年6月19日のペルー戦で代表デビューを果たす。
89年のW杯南米予選・ブラジル戦でチリが、「ロハス事件」(GKロハスの自作自演による、再試合を狙っての暴行被害偽装)と呼ばれる不祥事を起こしてしまい、90年W杯・イタリア大会への出場を絶たれただけでなく、94年W杯予選への参加資格も取り消されてしまう。
そのためサモラーノは、年齢的に一番良い時期に差し掛かっていたにもかかわらず、W杯への挑戦を阻まれることになった。
コパ・アメリカ1991では6得点を挙げたガブリエル・バティストゥータに次ぐ5得点を記録した。
同年に創設されたFIFA年間MVP投票でヨーロッパ人以外で最高の7位を記録した。
1995年も同じく自己最高タイの7位に入った。
フランスワールドカップ南米予選では、伝説の「ZA-SAコンビ」で2人でなんと23得点を挙げ、本大会出場に大きく貢献。
チリの4大会ぶりの出場となったフランスW杯に出場し、マルセロ・サラスとの「Za-Sa(サ・サ)コンビ」で同国をベスト16へと導いた。
また2000年のシドニー五輪にはオーバーエイジ枠で出場し銅メダルをもたらす原動力となり、自身は6得点を挙げて大会得点王となった。
2001年9月1日のフランス戦を最後に代表を引退した。
エピソード
マドンナはサモラーノの大ファンだそうです。
背番号9へのこだわり
サッカーの世界でエースストライカーの代名詞とされる背番号「9」に特別なこだわりを持っていたことで知られる。
インテル在籍時の1997-98シーズン、サモラーノが背番号9、そしてロナウドが10をつけていたが、翌1998-99シーズンにロベルト・バッジョが加入すると、バッジョが背番号10、ロナウドが9となり、サモラーノはクラブから背番号の明渡しを命じられた。
一旦は拒否したが認められず、サモラーノは背番号18のユニフォームの1と8の間に小さな「+」を加えて(1+8=9)着用していた。
交通事故
サモラーノはブエノスアイレス市内を車で運転中に、リベルタドール大通り沿いのブエノスアイレス日本庭園近辺で事故を起こした模様で、救急ヘリコプターが駆けつけたという。
車両が横転するほどの大事故だったが、サモラーノは軽傷で命に別状はなかった模様。
別の車にサモラーノが乗っていた車は追突され、横転し妻であるマリア・アルベロさんと共に病院へと搬送された。
妻のマリア・アルベロさんだけはヘリコプターで搬送されたが命に別状はなかったようである。
サモラーノも現役時代はヘリコプターと呼ばれていたがこれは偶然・・
引退後
2003年に現役を引退した後は、ユニセフの親善大使となったことでも知られている。
引退後は一時期、チリのユース年代の代表チームでアシスタントコーチを務めた。
また、引退後はチリ代表選手のマネジメントを行っていたが、そのうち事業家に転身。
投資会社を設立し、07年にはサンチャゴ北部にスポーツ総合施設を建設している。
巨大な敷地には、サッカー場、ラグビー場、ホッケー場、テニスコート、競泳プール、陸上競技場、体育館などのほか、病院やスポーツ科学の研究部門も併設。
チリスポーツの総合リーダーを目指して造られた。
このスポーツ施設は成功し、一時サモラーノの個人資産は8000万ドルにもなると報道されたが、少し前から経営は傾き、このコロナ禍の影響で破産。
現在スポーツ施設は競売にかけられているという。
現在は、アメリカのスペイン語スポーツチャンネル「TUDN」のサッカー解説者を務めている。
プレースタイル
さほど大柄ではないが、空中戦に強かった事から、「ヘリコプター」の異名を持つストライカー。
イバン・サモラーノは抜群のスピードと滞空時間の長いヘディング、そして闘志を全面に出したプレースタイルで、所属した全てのチームで愛された。
ボックス内での相手ディフェンダーとの駆け引きや、ポジショニングに秀でていた。
また強烈なゴールへの意欲と得点力、持ち前の闘争心で「ザ・デリブル(恐怖の男)」「イワン(イバン)雷帝」の異名を持つチリのストライカー。
ゴールへの嗅覚が極めて鋭く、現役時代は空中戦に強くヘディングの名手として知られたが、サモラーノ自身もヘディングでの得点については「ヘディングでのゴールはその選手がオールラウンドで、より完全な選手であることの証明となる」と独自の哲学を持っている。