ウェイン・グレツキー

概略

生誕 1961年1月26日(59歳)
カナダの旗 カナダ
オンタリオ州ブラントフォード
身長
体重
1.83 m
84 kg

 

ポジションはセンター。

 

左打ち。

 

多くのホッケーファンから、アイスホッケーの神様史上最も優れたホッケー選手と認められている。

 

愛称は「”The Great One”」(グレート・ワン)。

 

オーダー・オブ・カナダ受賞者。

 

弟のブレント・グレツキーもNHLで13試合に出場した。

 

また別の弟のキース・グレツキーはNHLでの出場はないもののバッファロー・セイバーズからドラフトで指名を受けている。

 

記録及び受賞歴等

 

グレツキーは、1999年4月18日の引退時点で61個のNHL記録を保持していた(内訳は、レギュラーシーズン40、プレーオフ15、オールスター戦6)。

 

一シーズンにおける記録としては、ゴール数 (92)、アシスト数 (163) 及びポイント数 (215)、点取り屋の試金石とされる50試合50ゴールの最短到達記録(39試合目)などを持つ。

 

また、プレイオフ通算記録としては、ゴール数 (122)、アシスト数 (260) 及びポイント数 (382) も持つ。

 

さらに、レギュラーシーズン通算では、ゴール数 (894)、アシスト数 (1963) 及びポイント数 (2857) を記録している。

 

彼の生涯アシスト数だけをもってしても、NHLの最多獲得ポイント選手となることができたであろう。

 

ハート記念賞を9度(うち8度は1980年から1987年まで連続)受賞している。

 

ちなみに、グレツキーは北米地区におけるプロスポーツ界で最優秀選手賞を最も多く受賞した選手である。

 

また、アート・ロス記念賞(リーグ最多スコアラー)を10度(うち7度は1981年から1987年まで連続)、コーン・スマイス賞を2度、レスター・B・ピアソン賞(選手が選ぶ優秀選手賞)を5度、レディ・ビング記念賞(フェアプレー)を5度それぞれ受賞している。

 

また、オールスター戦における最優秀選手賞も3度獲得している(最多受賞タイ記録)。

 

オールスター戦においては、ファーストチームのセンターを8度、セカンドチームのセンターを7度務める栄誉を与えられており、これらの合計回数及びオールスター出場回数 (18) は、ゴーディ・ハウ及びレイ・ボークに次ぐ。

 

1982年、グレツキーはホッケー選手、そしてカナダ人としては初めてAP社主催の年間最優秀男性運動選手 (Associated Press Male Athlete of the Year) に選出された。

 

また、同年雑誌『スポーツ・イラストレーテッド』からは、スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞。1990年には、AP社から10年間の最優秀男性運動選手 (Male Athlete of the Decade) に選ばれた。

 

1984年6月25日には、エドモントン・オイラーズ時代におけるアイスホッケーに対する顕著な貢献を称えられ、カナダ最高の勲章であるオーダー・オブ・カナダを受章した。

 

ただし、授章式典はNHLのシーズン期間中に行われる慣例であるため、実際に受勲するのはこの13年7ヵ月後となった(この間カナダ総督は2人も交代していた)。

 

1999年11月22日に、3年間の待機期間を待たずして特例でホッケーの殿堂入りを果す。

 

このときNHLは、この特例が適用される選手はおそらく今後は登場しないであろうとの声明を発表した。

 

また、この殿堂入りの日に至るまでの彼の心情を綴った日誌はカナダ中の新聞に共同配信された。

 

さらに彼のユニフォームの背番号99番を全NHLチームの永久欠番とすることも同時に発表された。

 

1999年には、ESPN が選出する「20世紀最高の運動選手」の第5位に名を連ねた。

驚異的な記録・事実

  • 年間50ゴールを上げた最年少選手

 

  • マーセル・ディオンの現役時代の年間最多ポイントは137であるが、グレツキーはNHL参加初年度でこの記録に並び、その後10シーズンに渡ってこれを下回ることがなかった。(1991-1992シーズンには及ばず121)

 

  • 当時はルーキーとはみなされなかったが、参加初年度で一試合8ポイント及び7アシストを上げたのは新記録。

 

  • ボビー・オアはNHL 史上最高のプレーヤーの一人に数えることができるが、グレツキーは2年目にボビーの持つ年間アシスト記録102を上回る109を樹立し、その後1991-1992シーズンに至るまで102を下回ることがなかった。

 

  • シーズン2年目にはスーパースターと称されたフィル・エスポジトの持つ年間最多ポイント152を破る164を記録。さらにNHLの近代化以降、一試合平均2ポイントを記録した史上初の選手である。

 

  • シーズン3年目には当時破るのが不可能と考えられていた記録の数々、すなわち39試合で50ゴール、エスポジトの持つ年間76ゴール、年間200ポイントの大台などをことごとく突破した。(このシーズンは、212ポイント、92ゴール、120アシストの成績)

 

  • 212ポイントを上げた前年と比較して4年目の1982-1983シーズンは、196ポイントに終わったが、それでも125アシストの新記録を樹立した。

 

  • グレツキーは、唯一の年間200ポイントを達成した選手であるが、彼は、この記録を1981-1982シーズンから1985-1986シーズンの5年間に4度達成している。

 

  • 5年目の1983-1984シーズンは、51試合連続ポイントを記録。この間、61ゴール、92アシスト、153ポイントを上げ、これは実に一試合平均すれば3ポイントに当たる。なおこの期間のほとんどを肩を脱臼した状態で出場していたことは驚嘆に値する。この記録が途絶えた後は、肩の治療のため6試合休場している。

 

  • 50試合以下での50ゴール到達を現役時に3度記録。(なおブレット・ハル (Brett Hull) は2度達成)

 

  • シーズンを通じ一試合平均2アシストを達成したのは、1985-1986シーズンのグレツキーのみ。この期間80試合で163アシスト(一試合平均2以上のアシスト)を行いながら、かつ自ら52ゴールも上げた。

 

  • 1989年は、ゴーディ・ハウのもつ現役最多ポイントの記録(26年間で1850ポイント)をわずか10年間で更新。グレツキーは10年間に渡って年間平均180ポイント以上を上げ続けた。この平均ポイントは、マリオ・ルミュー (Mario Lemieux) を除き他の選手の年間自己ベストを上回る。(ルミューの自己ベストは199ポイント)

 

  • 仮にグレツキーの上げたすべてのゴールを除外したとしても、最多スコアラーとしてアート・ロス記念賞を4度も獲得できただろうし、現役最多ポイントをも獲得できたであろう。というのも、彼の1963アシスト記録は、ゴーディ・ハウの1850ポイントやマーク・メシエの1887ポイントをも上回るからである。

 

経歴

WHA
インディアナポリス・レイサーズ
エドモントン・オイラーズ
NHL
エドモントン・オイラーズ
ロサンゼルス・キングス
セントルイス・ブルース
ニューヨーク・レンジャース
代表 カナダ

 

1978-1979シーズン終了後にWHAは閉鎖、オイラーズを含む4チームがNHLに加入した(他はケベック・ノルディクス、ウィニペグ・ジェッツ及びハートフォード・ホエーラーズ)。

 

翌1979-1980シーズン、グレツキーは異例の18歳でNHLデビューを飾る。

 

このシーズンでハート記念賞(リーグ最優秀選手賞)を受賞(以後8年連続)。

 

加えて最多ポイント記録137をマーセル・ディオンと分かちあった。

 

なおアート・ロス記念賞(リーグ最多スコアラー賞)は、ゴール数の多かったディオンが受賞したが、グレツキーの出場試合数はディオンのそれよりも少なかった。

 

グレツキーは、前年にプロ経験があったためカルダー記念賞(NHL最優秀新人賞)の受賞は逸した(なお、後にルール改正がされ、ティーム・セラニは前年にプロ経験があるにもかかわらず、年間76ゴールによりこの賞を受けることができた。)。

 

2年目には、当時のシーズン最多ポイント記録164を打ちたて、アート・ロス記念賞(レギュラーシーズン得点王、以後7年連続)を受賞、また、2年連続でハート記念賞に輝く。

 

当時のオイラーズは、フォワードにマーク・メシエ、グレン・アンダーソン、ヤリ・クリ、ディフェンスにポール・コフィー、ゴーリー(キーパー)にグラント・フューアら若い有力選手を擁し、これらの選手をグレツキーがキャプテンとして統率していた。

 

1983年にはスタンレー・カップ決勝に進出したが、4回の優勝経験を持つニューヨーク・アイランダーズの前に惜敗した。

 

スタジアムの構造上敗退したチームは勝利チームの控室の横を通って帰路につかなければならず、この際どんちゃん騒ぎしているであろうアイランダーズを目にするのであろうと思ってこの上ない屈辱を感じたという。

 

しかし実際に目撃したのはボロボロになり静まり返っていたがどこか満足そうなアイランダーズの面々であり、グレツキーは勝利には大きな犠牲が伴うことを学び、来シーズンで絶対にスタンレーカップを手にすることを誓ったという。

 

翌1984年に両チームは再び決勝で合いまみえたが、今度はオイラーズが勝利しその後4年間で3度の優勝の先鞭をつけた。

 

NHL所属2年目だけでも、ボビー・オアが持っていた年間最多アシスト記録、フィル・エスポジトの年間最多ポイント記録を突破した。

 

1981年にはホッケーで最も重要視される50試合50ゴールの記録を更新した(従来は、”ロケット”・リシャール (1944-1945) とマイク・ボッシー(1980-1981)が達成している。)。

 

この記録は、1981年12月30日にエドモントンのシーズン39戦目、対フィラデルフィア・フライヤーズ戦において達成された(グレツキーは同試合で5ゴールを上げ、試合は7対5でエドモントンの勝利)。

 

1982年2月24日には、対バッファロー・セイバーズでチームの勝利(6対3)に貢献する4ゴールを上げ、フィル・エスポジトの持つシーズン最多ゴール76の記録を更新。

 

結局このシーズンにおいて80試合92ゴール、212ポイントの記録を残した。

 

さらに1985-1986シーズンには自己の持つ最多ポイント記録を215に塗り替えるとともに、年間最多アシスト163の新記録(以下「記録」ないし「新記録」はグレツキーの達成時点。)を打ち立てた。

 

NHLが劇的に変化を遂げる中で、1988年8月9日にグレツキーは同僚のマーティ・マクソーリー (Marty McSorley) 、マイク・クルシェルニスキ(Mike Krushelnyski)らとともに、オイラーズからアメリカ合衆国のロサンゼルス・キングスに移籍した。

 

移籍の見返りは、選手として ジミー・カーソン (Jimmy Carson) 、マルタン・ジェリナ (Martin Gelinas) 、金銭(1500万ドル)並びにキングスの1989、1991、1993三ヵ年のドラフトにおける第一順目の選択権であった。

 

このトレードの情報が伝わると、カナダ国民の多くが憤慨したため、ある議員が政府に対しこれを止めさせるように働きかけを行ったり、オイラーズのオーナーであるポクリントン (Pocklington)の人形が公衆の面前で焼かれるなどの騒動があった。

 

カナダ国内にはグレツキー自身を「裏切り者」とみなすものが増え、このトレード以降国内におけるグレツキー人気が凋落したとする見方もある。

 

一方グレツキーの移籍は、ロサンゼルスにおいて従来はアイスホッケーに関心を持たなかったファン層の掘り起こしにつながり、初年度の観客動員数を著しく増加させた。

 

当時ロサンゼルス・キングスがホーム試合を開催したグレート・ウェスタン・フォーラムでは、プレーオフまでの各試合でチケットの売り切れが頻繁に起こった。

 

かつてグレツキーが所属した強豪チームと比べるとキングスは弱小と目されたチームであったが、グレツキーは新生キングスをリンクの内外に渡って統率し、スタンレー・カップにおいて前年度覇者の古巣エドモントン・オイラーズに対し、1勝3敗の逆境から挽回して見事4勝3敗の優勝という衝撃的な大番狂わせを演じた。

 

グレツキーの南カリフォルニアへの登場は「NHLの版図」を塗り替えたと評価する向きも多い。

 

カリフォルニアには、3つのNHLチームが所在することとなった。

 

グレツキーの活躍したロサンゼルス・キングスは、1993年のスタンリー・カップ決勝進出でピークを迎えた。

 

シリーズ初戦に勝利した後は、モントリオール・カナディアンズに4連敗を喫した。

 

チームは継続的に選手やコーチを入れ替えたが、1998年まで再びプレーオフ進出すら果せず、長期低迷が続いた。

 

この低迷のはるか前から、グレツキーは痺れを切らし新天地を求めてキングスにトレードを申し出ていた。

 

1996年2月27日に、パトリス・ターディフ (Patrice Tardif) 、ロマン・ボパット (Roman Vopat) 、クレイグ・ジョンソン(Craig Johnson)の3選手及びドラフトの選択権を交換条件として、グレツキーはセントルイス・ブルースに加入した。

 

31試合(レギュラーシーズン及びプレイオフも含む)に出場し37得点を挙げ、地区の決勝において延長戦に突入した試合もあったが、大方の期待に反してチームや点取り屋のブレット・ハルとプレーの反りがあわず、同年7月21日にフリーエージェントとしてニューヨーク・レンジャースに移籍した。

 

グレツキーはレンジャースで3年間プレーし1997年の地区決勝進出に貢献した後、現役生活を引退した。

エピソード

1988年7月17日にアルバータ州エドモントンのセント・ジョセフ聖堂での結婚式は、マスコミによって「王室の結婚式(The Royal Wedding)」と喧伝され、カナダ国内にその映像が生放送された。エドモントンの消防署員が警備員として聖堂の階段に立った。

 

また、結婚式の費用は優に100万ドルを超えるとされ、新婦ジャネットの衣装だけでも4万ドル掛かったと伝えられる。

 

その後、夫妻は5人の子供をもうけている。

 

エドモントンなどでは、ソフトドリンク、ジーパンから壁紙、枕カバー、シリアル、チョコバーや人形に至るまでグレツキーの顔であふれている。

 

また、レンタカー会社、自動車会社、清涼飲料水、ファーストフード、スープ、運動用具、保険会社、医薬品、金融機関及び家電メーカーなどの広告にも登場している。

 

Mike Leonetti の書いた児童用の物語『Gretzky’s Game』では、アイスホッケー好きな主人公の少年のアイドルとしてグレツキーが描かれている。

 

テレビでは1989年に『サタデー・ナイト・ライブ』のホストを務めた。

 

また1992年の漫画番組『プロスター』やコンピューター・ゲームなどに肖像を提供している。

 

雑誌では1997年に『Cigar Aficionado』の表紙を妻とともに飾っている。

 

また、1998年に男性向けファッション事業を始めるとともに、電話カード会社ともライセンス契約を結んだ。

 

さらに、レストラン、スポーツ用具店を所有するほか、ローラー・ホッケーリンクのチェーンを共同経営している。

 

引退後は、南カリフォルニアの Power Automotive Group や Tylenol Arthritis Formula のスポークスマンともなっている。

 

雑誌『フォーブズ』の推計によれば、1990年から1998年まででホッケー及び広告などにより9380万ドルを稼いだとされている。

 

現役時代から馬主として競走馬を所有していた。

 

1991年のジャパンカップ勝ち馬ゴールデンフェザントは、勝利の時点ではグレツキーが共同馬主の一人であったが、レース翌日に社台ファームに売却している。

 

2000年に、NHLのフェニックス・コヨーテズ の Alternate Governor 及び Managing Partnerに就任。

 

グレツキーは、チームの出資の17%を保有している。

 

2004年には、CBC のアンケート投票により「最も偉大なカナダ人ベスト10」の一人に選出された。

 

また「グレツキー」の名称は、コーヒーチェーン「ティムホートンズ」の伝説的なコーヒー(彼の背番号にちなんで、ミルクと砂糖を9つずつ加えたもの)の愛称ともなっている。

 

グレツキーは無類の野球好きで、アイスホッケーだけでなく陸上競技や野球でも注目されていた。

 

子供の頃のグレツキーはアイスホッケーよりも野球をやりたがっていた。

 

プレースタイル

グレツキーの体格と体力は、NHLの平均値をはるかに下回るものでしたが、彼はゲーム史上最も頭の良い選手であると広く認められています。

 

彼のゲームに対する洞察力と即興性は他の追随を許さず、パックがどこに置かれるかを常に予測し、適切なタイミングで適切な動きを実行することができた。

 

エドモントンオイラーズでコーチを務めていたグレン・サザー氏は、「彼はとても知的だった。彼らが彼の歯を食いしばろうとエネルギーを使っている間、彼はただスケートで移動し、旋回し、物事を分析していた」と語っています。

 

また、彼はホッケー界で最もクリエイティブな選手の一人と考えられていました。

 

“ホッケー界の殿堂入りを果たしたイゴール・ラリオノフは、「彼が何をするかわからない」と言った。”彼は常に即興で行動していた。彼が氷上に立つたびに、何か突発的な決定がなされていた。それが彼を驚異的なプレーヤーにしていたのです」。

 

グレツキーの即興性は、1998年の日本オリンピックで脚光を浴びた。

 

当時のグレツキーは、キャリアの終盤に差し掛かっており、キャプテンの座を奪われていた。

 

しかし、シリーズが進むにつれ、彼のユニークな能力がチームのリーダーとなっていったのである。

 

カナダ人は大きな氷を苦手としていました。ヨーロッパ的なパターン、ラテラルプレー、果てしなく続く独創的なサイクリックプレーが苦手だったのだ。徐々にではあるが、試合を重ねるごとに不安が募り、ウェイン・グレツキーがラインアップに加わってきた。カナダ人の中でもほとんど一人だけだった彼は、より大きな氷の表面に、義務感ではなく、より多くのチャンスを提供しているかのように思えた….。パワープレーだけでなく、ダブルシフトやペナルティキルにも参加するようになり、プレー時間も急増した。最終戦になると、ウェイン・グレツキーが氷上でも氷上以外でもリーダーシップを発揮するようになった。

 

彼は天才的な技術でパスとシュートを繰り出した。

 

殿堂入りを果たしたディフェンスのボビー・オールは、グレツキーについて「今まで見た誰よりもパスがうまい」と評した。

 

NHLでの最初の2シーズンは、その巧みなパスワークにより、エース級のプレイメーカーとしての評価を得ていたため、対戦相手のディフェンスは、他の得点源にパスを出そうとするグレツキーを阻止することに力を注いだ。

 

それを受けて、グレツキーは自らゴールを狙うようになり、その効果は絶大だった。

 

彼のシュートは速くて正確だった。

 

“ウェイン・グレツキーはNHL史上最も正確なスコアラーの一人であった」とある伝記に書かれている。

 

それまでのゴール記録を持つフィル・エスポジートが76ゴールを決めるのに550ショットを必要としたのに対し、グレツキーはその約半分の287ショットで76ゴール目を決めたのである。

 

史上最多の92ゴールは、369本のシュート数で達成したのである。

 

他の選手に比べて体が軽いため、ゴールキーパーはグレツキーのシュートの硬さに驚くことが多かった。

 

ゴールキーパーたちは彼のシュートを “sneaky fast “と呼んでいた。

 

また、グレツキーは同じリズムで2度とシュートを打たないので、タイミングを計ったりブロックしたりするのが難しいのである。

 

サイズと強度

 

1979年にリーグ入りしたとき、批評家たちはグレツキーのことを “NHLで力を発揮するには、小さすぎ、弱々しすぎ、遅すぎ “と評した。

 

当時のNHLの平均体重が189ポンド(86kg)だったのに対し、グレツキーの体重は160ポンド(73kg)だったのである。

 

しかし、この年、グレツキーは得点王に並び、リーグの最優秀選手に贈られるハート・トロフィーを獲得した。

 

翌年(1981-82)には、それまでの1シーズンの得点記録を破る164点を記録した。

 

翌年(1981-82年)には、体重170ポンド(約3.5kg)になっても「NHLの平均的な選手に比べれば微々たるもの」だったが、92本のパックをネットに通し、歴代のゴール記録を樹立したのである。

 

彼のキャリアの大部分は、体重が「約170ポンド」だった。

 

エドモントンオイラーズの筋力テストでは常に最下位で、ベンチプレスは140ポンド(64kg)しかありませんでした。

 

スタミナ、運動能力の高さ

 

しかし、彼には並外れた体力があった

 

。彼のヒーローであるゴーディー・ハウのように、グレツキーは「エネルギー源を素早く再生する並外れた能力」を持っていた。

 

1980年、運動生理学者がエドモントンオイラーズの全選手の回復能力をテストしたところ、グレツキーは「機械が壊れたかと思った」と言うほどの高得点を記録した。

 

グレツキーのスタミナは、試合の後半に得点することが多いことからもうかがえる。

 

グレツキーが記録した92ゴールのうち、第1ピリオドで22ゴール、第2ピリオドで30ゴール、第3ピリオドで40ゴールがネットに突き刺さっていた。

 

また、彼は一般的な運動能力も高かった。

 

1980年夏、ジュニア・インターカウンティ・ベースボール・リーグのブラントフォードCKCPブレーブスで、打率.492を記録した。

 

その結果、彼はトロント・ブルージェイズから契約のオファーを受けました。

 

2011年6月には、グレツキーの17歳の息子、トレバーがドラフトでシカゴ・カブスに指名され、歴史は繰り返されました。

 

トレバーは翌月、カブスと契約しました。

 

グレツキーは、夏場に行っていたボックスラクロスにも優れていた。

 

10歳のとき、ホッケーのリーグ戦で196ゴールを決めた後、ラクロスで158ゴールを決めた。

 

彼によると、ラクロスはハードチェックから身を守ることを学んだ場所だったという。

 

“当時のラクロスでは、後ろから殴られることも、クロスチェックされることもあったので、自己防衛のためにボディチェックの巻き方を学ばなければならなかった。”

 

グレツキーは、プロ選手としてこの技術を巧みに応用し、「グレツキーを殴ってはいけないという不文律がある」という噂が流れるほど、巧みにチェックを避けていた。

 

ディフェンス選手にとって、グレツキーは最もつかみどころのない標的でした。

 

同じくアイスホッケー殿堂入りを果たしたデニス・ポトヴァンは、グレツキーを殴ろうとすることを「霧に腕を巻きつけるようなもの」と例えた。

 

彼を見ても、彼を掴もうと手を伸ばしても、その手には何も感じず、たぶん寒気がするだけだ」。

 

最優秀ディフェンスマンに贈られるノリス・トロフィーを3度受賞している205ポンド(93kg)のポトヴァンは、グレツキーを強く叩くことの問題点として、「嫌いなタフガイだ…グレツキーのどこが嫌いなんだ?それは、ガンジーを追い詰めていくようなものだった。

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