概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1960年11月3日(59歳) |
出身地 | ミシガン州ジャクソン |
身長 | 191cm |
体重 | - |
ポジションはアウトサイドヒッター。
右利き。
バレーボール(インドア)とビーチバレーの2種目でオリンピックの金メダルを獲得した唯一の選手である。
ミスターバレーボール。
2001年バレーボール殿堂入り。
国際バレーボール連盟の「20世紀最優秀選手」に選出。
賞と栄誉
カレッジ
- すべてのアメリカ人(1979、1980、1981、1982)
- NCAAバレーボールトーナメント最優秀選手(1981年、1982年)
- UCLA殿堂(1992年に導入)
FédérationInternationale de Volleyball(FIVB:国際バレーボール連盟)
- 世界のFIVBベストプレーヤー(1986、1988)
- 20世紀のFIVBベストプレイヤー
アメリカンバレーボールプロフェッショナル(AVP Professional Beach Volleyball)
- AVPベストオフェンスプレーヤー(1990、1993、1994)
- AVPベストディフェンスプレイヤー(2002)
- AVPカムバックプレーヤーオブザイヤー(1997)
- AVPの最も価値のあるプレーヤー(1990、1992、1993、1994、1995、1998)
- AVP Sportsman of the Year(1995、1997、1998)
- AVP優秀業績賞(2004)
バレーボール殿堂入り2001年。
アメリカンバレーボールコーチ協会
- AVCA殿堂入り2005年。
アメリカの大学スポーツ情報局長
- アカデミックオールアメリカホールオブフェイムが2009年に導入されました。
獲得メダル | |||||||||||||||||||||
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経歴
カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (1979-1981年)
アメリカナショナルチーム (1981-1988年)
ビーチバレー(1988-1990年)
ポルト・ラヴェンナ・バレー (1990-1992年)
1982年世界選手権で国際大会デビュー。
1984年ロサンゼルスオリンピックと1988年ソウルオリンピックに出場し、2大会連続金メダルを獲得。
1990年から1992年までプレーしたイタリア・セリエAのラヴェンナでは、1991年世界クラブ選手権で優勝し、最優秀選手に選出。
1990-1991シーズンのリーグ優勝にも貢献するなどインドアで活躍した後、ビーチバレーに転向する。
1996年アトランタオリンピックにケント・ステフェスと組んでビーチバレーで出場し、金メダルを獲得。
エピソード
父親はハンガリー動乱のためにアメリカに逃れてきた移民である。
6歳のときにビーチバレーを始め、大学に入ってからバレーボールを始める。
バレーボールとビーチバレーの2種目でオリンピックの金メダルを獲得した唯一の選手である。
キライは、ジョン・ヘイスティングスと共著で1996年にサイモンとシュスターが共同執筆したカーチ・キライのチャンピオンシップバレーボールと、バイロン・シューマンと共著で1999年にヒューマンキネティクスが発行したビーチバレーボールの2冊の本の著者です。
プレースタイル
天才的なサーブレシーブと巧みなスパイク技術を持っている。
彼は恐ろしくレシーブが上手かった。
彼はレシーブをして、そのままスパイクする。
身長は191cmと世界基準では高くないがジャンプ力があり、ブロックアウトを狙うスパイクがクレーバーだった。
191㎝という身長で戦っていたのだから滞空力が高く、ジャンプしてから、空中で打つコースを判断して打っていたそうです。
足の長い、コーナーをピンポイントで狙うようなクロスとか芸術的。
カーチ・キライ氏が「ミスター」と呼ばれた所以は、何も金メダルチームのキャプテンを務めたからではありません。
80年代に入ってアメリカチームが構築した戦術が「分業制」。
それまではセッターを除く4(前衛のミドルブロッカーを外した場合)~5人でサーブレシーブをし、前衛の2~3人が攻撃するというシステムが一般的だったのに対し、2人のOHが全てのサーブに対応し、セッター対角の選手は後衛でも攻撃に専念させる戦術を実戦したのです。
そのシステムを完成させる重要な役割を担ったのがカーチ・キライ選手でした。
サーブレシーブをし、そこから攻撃に入り、相手のスパイクにも負けないレシーブ力を持っているオールラウンダーでした。
まさにバレーボールに必要な全てのプレーの技術力が高く、さらにチームをまとめる統率力のあるリーダーだったからこそ「ミスターバレーボール」と呼ばれたのです。
プレースタイルはもう完全なるオールラウンダー。
1番はやはりスパイクだけど、分業制の中でパッサー(パスする人)を任されていたりと守備も高い能力。
強烈なジャンプサーブはこの時代ないけど、サーブレシーブがきれいだった。
サーブレシーブに2人置く戦術はダグビルが考案したもので、代表メンバーが変わっても、キライは必ずパッサーの1人を担っていたほど。
守備範囲はコートの半分。
今のリベロとほぼおんなじ範囲。
キャプテンとしてもチームの支柱だった。
大きな声を出したり、チームメイトに駆け寄っていったり精神的なリーダーでもあった。
最後に彼の言葉を紹介しよう。
「チームメイトがより良くプレーできるよう助けろ。君がいいプレーをするかは関係ない。みんなで成功するんだ。」