概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1967年2月18日(53歳) | ||
出身地 | カルドーニョ | ||
身長 | 174cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ)またはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。
「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、ファンタジスタの象徴的な存在として知られていた。
1993年度バロンドール受賞者。
1993年度欧州年間最優秀選手、1993年度FIFA世界年間最優秀選手。
1990年代に活躍したイタリア代表のファンタジスタ。
サッカー史上屈指のスーパースター。
イタリアのビッグクラブを渡り歩き、代表でも1994年ワールドカップ準優勝に導く。
そのドラマティックなサッカー人生は後世にも語り継がれる。
セリエA通算205ゴールは歴代5位。
キャリア318ゴールはイタリア人No.3である。
使用スパイクはデビューから引退までディアドラ。
1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用。
弟のエディ・バッジョも元サッカー選手である。
趣味はハンティング。
獲得タイトル
クラブ
- ヴィチェンツァ
- セリエC1 1984-85
- ユヴェントス
- コッパ・イタリア 1995
- UEFAカップ 1993
- セリエA 1994-95
- ACミラン
- セリエA 1995-96
個人
- バロンドール 1993
- FIFA世界年間最優秀選手 1993
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 1993
- 英誌ワールドサッカー選出20世紀の偉大なサッカー選手100人16位1999
- オンズドール 1993
- ブラヴォー賞 1990
- FIFA100 2004
- ゴールデンフット賞 2003
- イタリア代表通算得点記録 歴代4位
- セリエA通算得点記録 歴代5位
経歴
クラブ
1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。
1984-85シーズンに12得点を記録。
1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。
ところが契約成立からわずか2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負った。
それでもフィオレンティーナは契約を破棄せずに辛抱強く回復を待った。
移籍直後の1985-86シーズンを欠場、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。
だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点をあげ、フィオレンティーナはUEFAカップ出場。
1989-1990シーズンには17得点の活躍。
1990年、当時史上最高額の150億リラという移籍金でユヴェントスに移籍。
フィレンツェではクラブに対する暴動が起こった。
バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑していた。
ユヴェントスの選手として初めてフィレンツェに戻ってきた試合では、地元のティフォージから裏切り者扱いされ、彼がボールを持つ度にブーイングを浴びせられた。
しかし、後半になると状況が一変する。
ユヴェントスが決勝点のチャンスとなるPKを獲得するが、通常のPKキッカーであるバッジョは蹴るのを拒否した。
監督の怒りを買ったバッジョは即座に交代を命じられたが、スタンドから拍手を受けながらピッチを去った。
1992-93シーズンはリーグ戦で21得点を挙げ、またチームをUEFAカップ優勝に導いた。
これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。
この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞した。
1994-95シーズンはユヴェントスの9年ぶりのリーグ優勝、コパイタリア獲得に貢献した。
1995年、若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、高額の年俸更新を避けたいユヴェントスはインテルへの移籍交渉を進めていた。
選手の頭越しの交渉に反発したバッジョは、あえてインテルのライバルチームであるACミランへの移籍を自ら選択。
1年目はレギュラーとしてそれなりのプレーを見せ、フィオレンティーナ戦でPKを決めるなど、ミランの優勝に貢献した 。
しかし2年目はミラノダービーではゴールを決めたが、タバレス監督からサッキ監督に代わると、ベンチスタートとなるなど、出場機会を減らすこととなり、バッジョの起用は限定的なものとなり、目立った活躍を見せることはなかった。
終わった選手と見られがちになった1997-98、ワールドカップ代表招集を目指すべく先発起用を目的に中堅クラブのボローニャに移籍。
目論みは当たり自己最多の22得点をマークし、予選では呼ばれなかったが本大会メンバー招集を果たした。
1998年から、インテルに2シーズン所属、ロナウドとのコンビが話題となりモラッティ会長から活躍を期待する発言もあった。
しかし同年のUEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦で2ゴールを挙げるなどの活躍もある一方で負傷欠場も少なくなく、ロナウドには膝の故障による長期離脱が生じ二人が組むスペクタクルシーンを見る機会はほとんど生まれなかった。
翌年は、負傷もあったがとりわけマルチェロ・リッピ監督との確執によって出場機会は減少してしまった。
インテル退団が半ば既定となった後の2000年5月23日のCL出場権プレーオフパルマ戦で大活躍。
前半35分にFKで先制、さらに同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪い、翌日のガゼッタ・デロ・スポルト誌で満点の “10” を獲得した。
最後の試合で、自己をクビにした指揮官を最高の活躍で救うという皮肉な結末となった。
この頃、Jリーグの某チームから破格の条件でオファーを受け、移籍を真剣に検討、次のワールドカップへの出場を目指していたことから、トラパットーニ代表監督に日本でプレーしても代表に呼ばれる可能性が有るか尋ね、イタリアに留まる決断をした。
2000年から、カルロ・マッツォーネ監督の下ブレシアで4シーズンを過ごした。
2001-02シーズンでは、2002年FIFAワールドカップ出場を目指すべく、シーズン前半にゴールを量産。
しかし、2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で左膝十字靭帯に全治6ヶ月の負傷。
このシーズンは前半でも靭帯を故障しており、1月31日の試合は復帰2試合目だった。
ワールドカップ出場は絶望と思われたが、自身は招集を目指す意志が強く驚異のリハビリで僅か2ヶ月で復帰。
4月21日のフィオレンティーナ戦で後半25分に途中出場、2ゴールを挙げた。
しかし結局のところワールドカップ本大会への招集はかなわなかった。
その後も中心選手として活躍を続け、2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦が現役最後の試合。
先発出場し83分の途中交代時にはアウェースタジアムにもかかわらず、客席全体からスタンディングオベーションが送られた。
代表
イタリア代表としては1988年11月16日に行われたオランダとの国際親善試合でデビュー。
1989年4月22日に行われたウルグアイとの国際親善試合で初ゴールをあげた。
FIFAワールドカップにはイタリアW杯(背番号は15)、アメリカW杯(背番号は10)、フランスW杯(背番号は18)に出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。
ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーを務めている。
一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。
1990年の地元開催では当初はスーパーサブ的存在であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。
この得点は大会のベストゴールのひとつに数えられ、世界に名を知られることになった。
準決勝の相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであったが、この試合はバッジョはスタメンから外れ、チームもアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で破れてしまい、バッジョを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。
1994年ワールドカップはエピソードの章で詳細を後述する。
ボローニャでゴールを量産した好調さを買われ、1998年フランスワールドカップのメンバーにサプライズ選出された。
大会を通じて2得点1アシストを記録した。
初戦チリ戦で先発出場。
パオロ・マルディーニからのロングボールを、バッジョがダイレクトでスルーパスを走りこんだクリスティアン・ヴィエリに通しアシストを記録。
その後追いつかれるが、バッジョ自らPKを誘い、これを決めた。
グループリーグ最終戦のオーストリア戦では決勝ゴールを決める活躍を見せた。
準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つが、ボールはクロスバーをわずかに越えていった。
結局、この試合も決着はつかず、PK戦に突入。
バッジョは1番手でPKを決めたが、イタリアは3大会連続でPK戦で敗退した。
1999年以降は代表からは遠ざかる。
本人は2002年日韓大会出場を熱望し、所属クラブでゴールを挙げ続け、全治6か月の負傷を懸命のリハビリで2か月で復帰するなどアピールを行なったものの招集されることはなかった。
現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。
なお、ロベルト・バッジョのイタリア代表での通算成績は国際Aマッチ56試合出場27得点。
そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で「バッジョが点を決めれば負けない」という記録を持つ。
エピソード
1994年ワールドカップ
数々のドラマを生み出した悲運のスターとして有名なロベルト・バッジョ。
そんな彼のエピソードをいくつか紹介しよう。
時は1994年。
前年の1993年に、バロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。
しかし本大会直前に右足のアキレス腱を痛めてしまい、万全でない状態で1994年ワールドカップを迎えた。
イタリアは、グループリーグ初戦・アイルランド戦を落とし、グループリーグ第2戦ノルウェー戦では、ペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際には、アリーゴ・サッキ監督により控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョはベンチに下げられてしまった。
このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる。
試合後にサッキは「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明した。
グループリーグ第3戦メキシコ代表戦も引き分け結局、イタリアは1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメントに進出(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。
無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。
決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも先制を許し、反撃の切り札で投入したゾラは不可解な判定で退場処分となり1点を追い掛ける苦しい試合展開になる。
しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めた。
イタリアの救世主の誕生である。
準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから角度のない所から決勝点をあげて、2-1で勝利。
準決勝のブルガリア戦でも続けざまに2得点を挙げて2-1と勝利した。
決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。
しかし、準決勝で右足のふくらはぎを痛め、決勝への出場が危ぶまれた。
決勝のブラジル戦、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。
PK戦は一番手のバレージとマルシオ・サントスがどちらも失敗。
イタリアは続くデメトリオ・アルベルティーニとアルベリゴ・エバニが決めたが、4番目のダニエレ・マッサーロが失敗する。
一方ブラジルは、ロマーリオ、ブランコ、ドゥンガが決めた。
そしてイタリアは最後にバッジョが失敗して優勝を逃してしまった。
ここまでチームを牽引したバッジョ、決勝に間に合わせて神がかったプレーを見せたバレージ。
2人の英雄が枠を外す悲劇的な結末だった。
「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」(バッジョ)
一時の絶体絶命から底を打って復活したイタリア。
英雄を待っていたのは悲運だったが、最後まで昂然と頭を上げた勇者でもあった。
W杯優勝を目前にして逃したファンタジスタの娘であるヴァレンティーナさんが見解を示した。
「1994年の決勝のPKは時々、話題になることがある。私はブラジルに行く機会が多いが、向こうでもみんながよく覚えているようね。あれは彼の人生において消し去ることのできない記憶。しかしこのことを彼と話すのは難しい」
「あそこまでたどり着くのにかなりの苦労をしたはず。しかしあのPKを機に、ファンからより一層、愛されるようになったのではないだろうか。あれは“偉大な選手でも失敗する”ということの証明であり、まるで人間に戻ったかのような瞬間だったから」
ロベルト・バッジョは、多分、ここ数十年のサッカー界で、もっともファンに愛された選手の一人だろう。
彼のサッカー人生は、華麗なプレイとともに、世界中の人々の記憶に残っている。
監督との確執
もう一つ、バッジョの人生に欠かせないストーリーがある。
それは、あれほど世界中のサッカーファンに愛されたロベルト・バッジョが、監督にだけは嫌われ続けた、という事実だ。
国民やメディアからは圧倒的に支持されて、監督からは嫌われる。
監督から嫌われた原因は守備をしないそのスタイルにあったがそれだけではなかった。
ワールドカップのたびに、バッジョを出場させるべき、と考えるメディアや国民の声が沸騰し、そのままその声がイタリア代表監督たちへのプレッシャーになった。
セリエAでも、それは変わらない。バッジョを抱えた監督は、そのまま、バッジョというストレスを抱え込んだ、という態度を取ってきた。
バッジョがいることでチームが乱れるとこぼし、バッジョがいかにチームによくないか、ということを述べ立てた。
その中でも、インテル時代のマルチェッロ・リッピ監督は、バッジョにとって、どんでもない意地悪な男だった。
マルチェロ・リッピと言えば、ドイツのワールドカップでイタリア代表を24年ぶりの優勝に導いた名将である。
彼はチャンピオンズリーグとワールドカップの両方を制した唯一の監督でもある。
そのリッピが、バッジョには出場機会を与えず、練習中にはあからさまな嫌がらせをし、バッジョは食事さえ監督の許可がないと食べられない、という仕打ちを受けた。
きっかけは何だったのだろう?
リッピはロベルト・バッジョとの最初のミーティングで、バッジョにスパイになるように依頼していた、というバッジョ自身の証言がある。
リッピは唐突に、今インテルの足を引っ張っている選手、彼の仕事を邪魔する選手は誰なのかを知る手伝いをしてくれないか、と言ってきた。要するにスパイになれ、ということだよ。ぼくははっきりと言った。『監督、ぼくはあらゆる点であなたを助けるつもりです。でも名前を挙げることだけはできません』
バッジョはその依頼を断り、それ以来、リッピの意地悪爺さんが続いた、というのだ。
バッジョは、控え選手の一番後ろにリストされ、ずっとベンチにいて、時にはウォーミングアップをさせられたのに、出場機会を与えられない、という仕打ちも受けた。
そして、ここがバッジョのすごいところなのだが、リッピがそれでも、時にはバッジョに出場機会を与えると、あっという間に逆転勝利に導くゴールを上げてしまうのだ。
観客は喜び、リッピの立場はさらに悪くなっていく。
当時、インテルのゲームをテレビで見ていて、セリエAの解説を加茂周元日本代表監督がやっていた。
ロベルト・バッジョが逆転のゴールを決めた瞬間、解説者の加茂は「この選手は・・・本当に・・・」といったまま言葉を失った。
感動と驚きが一緒になって、加茂の開いた口をふさいでしまったような状態になったのだ。
現代のサッカーが、より事業として意識され、勝利が業績として認識されるようになり、監督の手腕と責任は、企業の社長のそれと同じくらい高くなってしまった。
監督や社長というのは、選ばれた人たちだ。
一方で、その地位はとても脆弱で、ちょっとしたことで崩れてしまう。
名監督、名社長と言われる人ほど、その矛盾を肌で知っている。
だから彼らは、自分が責任を取れる範囲という枠を、本能的に意識する。
それを超えたことが発生すると、ピピピと危険を知らせるアンテナが鳴ってしまうのだ。
バッジョは監督が責任範囲と考えているこの枠を、軽々と超えてしまう。
「勝利のため」という矢印と「国民を喜ばせる」という矢印が、完全に一致して、彼のプレイは興奮を呼び込む。
監督は、本能的に、こんな矢印がチームにあったら、おれは責任が取れない、と察知する。
しかし、記憶に残る名選手とは、結局そういう選手だ。
プレースタイル
優れたテクニックと、誰も予想できないようなタイミングや方法でパスやシュートをするなど、アイデア溢れるプレーをする選手であり、「ファンタジスタ」という言葉はまさにバッジョのためにあると言われた。
ロベルト・バッジョは旧式の縫い合わせのあるボールを使って、ボールタッチのフィーリングを確かめることがよくあったという。
繊細さがうかがえるエピソードであり、この繊細さがバッジョを偉大な選手にし、同時に彼の時代での生きにくさにも繋がっていた。
ギリギリでDFをかわし、GKを愚弄するようにフェイントをかける。
大げさなアクションはなく、常にさりげなく最小限の動きだ。
敏捷でバランス感覚も抜群だったが、根底にあるのはボールタッチの繊細さだった。
その瞬間に、ベストなボールタッチができる。
後方からのロビングを振り向きざまにボレーで合わせてゴールの隅へ収め、浮き球をかかとで引っかけて絶妙のラストパスにする……タメ息が出るような美しいボールタッチ、突出したボールコンタクトの才があった。
数cm、いや数mm触るところが違えばまったく違う結果になるプレーを次々と成功させている。
サッカーがボールを扱うスポーツである限り、バッジョの才能はどの時代でも通用する。
ただ、彼の全盛期でさえベンチに置かれたのもまた事実なのだ。
サッカーに芸術点があって美しいゴールは2点にカウントされるなら、どの監督もバッジョを起用しただろう。
しかしゴールはどんなゴールでも1点しか入らないし、サッカーは得点やそれに絡むプレー以外にも仕事はたくさんある。
バッジョが主にプレーした1990年代は、ちょうどプレッシング戦術が広まっていった時代だった。
走れて潰せて組織的にプレーできる選手をそろえることが優先され、フィールドは屈強なハードワーカーで占められていった。
バッジョの繊細なボールタッチ、インスピレーション、ゴールセンスは依然として貴重ではあったが、彼1人走って守備を頑張る選手ではなかった。
リアリズムが大手を振って闊歩し、ファンタジスタはひっそりと息をするような時代だったかもしれない。
しかしファンは彼のファンタジックな攻撃を愛し、敵チームは彼を恐れた。