概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1966年1月29日(54歳) | ||
出身地 | リオデジャネイロ | ||
身長 | 167cm | ||
体重 | 70kg |
ポジッションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。利き手は左。
愛称は「バイシーニョ」。
90年代を代表するブラジルの点取り屋。
類稀な決定力で得点を量産し、ブラジル代表歴代2位の56得点を記録。
94年W杯では5得点を決めて母国の優勝に貢献し、大会MVPにも選ばれる。
また、同年のFIFA年間MVPも獲得した。
88-89シーズンに母国のバスコ・ダ・ガマからPSV(オランダ)に移籍すると、3年連続の得点王に輝くなどリーグ4連覇に貢献。
93-94シーズンにバルセロナ(スペイン)に移籍すると、33得点でリーグ得点王になる活躍を見せ、リーグ制覇の立役者となった。
また、07年には生涯1,000ゴールを達成している。
現在はブラジル上院議員を務める。
個人タイトル
- リオデジャネイロ州選手権得点王 : 1986, 1987, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000
- オリンピックサッカー得点王 : 1988
- エールディヴィジ得点王 : 1988-89, 1989-90, 1990-91, 1991-92
- KNVBカップ得点王 : 1989, 1990
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王 : 1989-90, 1992-93
- リーガ・エスパニョーラ得点王 : 1993-94
- リーガ・エスパニョーラ・最優秀南米選手 (EFEトロフィー) : 1994
- FIFAワールドカップ最優秀選手 : 1994
- オンズドール : 1994
- FIFA最優秀選手 : 1994
- FIFAコンフェデレーションズカップ得点王 : 1997
- Torneio Rio-São Paulo 得点王 : 1997, 2000
- コパ・ド・ブラジル得点王 : 1998, 1999
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 26位 : 1999
- コパ・メルコスール得点王 : 1999, 2000
- Copa João Havelange 得点王 : 2000
- ボーラ・ジ・オーロ : 2000
- 南米最優秀選手: 2000
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA得点王 : 2001, 2005
- FIFA 100 : 2004
- ゴールデンフット賞 (all time legend) : 2007
経歴
クラブ
ブラジル内外のクラブを渡り歩き、1988-89シーズンPSVに移籍すると、シーズン中3度ハットトリックを決め、同シーズン12月11日開催のインターコンチネンタルカップ、ナショナル戦でもゴールを決め、在籍中は2度UEFAチャンピオンズリーグで得点王になるなど頭角を現した。
1993-94シーズンよりスペイン・FCバルセロナに移籍。
9月5日デビュー戦となったレアル・ソシエダ戦ででハットトリックを達成。
また同シーズン10月30日のアトレチコ・マドリード戦、1994年1月の対レアル・マドリード戦、2月19日オサスナ戦、3月12日アトレチコ・マドリード戦でもハットトリックを達成しするなど出場33試合で30ゴールという決定力を発揮して得点王を獲得し、クラブをリーグ優勝に導いた。
しかしチャンピオンズリーグでは10試合2ゴールと振るわず、決勝ではACミランに4-0と敗れた。
1994-95シーズンは不調でベンチに座ることもありシーズン途中にバルセロナを退団し、フラメンゴに移籍した。
2000年にはクラブ世界選手権を皮切りに5つの大会で得点王となり、ブラジルサッカー界の混乱が生み出した過密日程もあり、代表戦を含めて公式戦73試合で72ゴールという成績を残した。
2004年にフルミネンセFCを解雇されたが、その後に自らがデビューしたCRヴァスコ・ダ・ガマに移籍。
2005年ブラジル全国選手権セリエAで22得点を決め、得点王に輝いた。
2005年末までの現役続行の予定だったが、米国下位リーグのマイアミFCに移籍し、現役を続けることになった。
マイアミでは19得点を上げ、リーグの得点王になる活躍を見せた。
その後、オーストラリアAリーグのアデレード・ユナイテッドFCに、リーグ戦4試合限定の「ゲストプレーヤー」として移籍することが決定。
前所属のマイアミFCとの親善試合なども契約に含まれている。
2007年から再び古巣のヴァスコ・ダ・ガマに復帰。
1年間の内に3度移籍をしてはいけないというFIFAの規定によってFIFA側はその移籍を正式には認めていなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマは「アデレード・ユナイテッド在籍は『招待』であり『移籍』ではない」と言う主張を掲げチームに帯同させ、試合にも出場させている。
ちなみにその復帰初戦では、10分間でハットトリックを達成している。
なお、ロマーリオは、ペレに次ぐ世界2人目(アルツール・フリーデンライヒを含めれば3人目)の1,000ゴールをマークしている。
1,000ゴール目は2007年5月20日の全国リーグ・スポルチ・レシフェ戦でのペナルティーキック。
1,000ゴール達成で引退するのではという噂もあったが、その後もプレーを続けて、さらにゴールを重ねた。
これまで幾度となく引退をほのめかしその度に発言を撤回しプレーし続けてきたが、2008年4月、プロキャリアでの911ゴールを収録したオフィシャルDVDの発売記念会見の場で「これは公式のアナウンスである。私はもうプレーしない」と、これまでの引退宣言とは一線を画し正式に引退する意思がある事を表明した。
自身がプレーしたヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、フラメンゴによる3クラブ共催の試合がエスタジオ・ド・マラカナンで予定されており、この試合で現役を引退することが伝えられた。
しかし、2009年11月にはリオデジャネイロ州選手権2部のアメリカFCで、試合に出場した。
代表
1987年5月23日のアイルランド戦で代表デビューを飾るとレギュラーの座を掴み、1988年にオリンピックブラジル代表としてソウルオリンピック準優勝、1989年にはコパ・アメリカ優勝に貢献した。
しかし1990年のワールドカップ・イタリア大会ではカレカ、ミューレルらのライバルにポジションを奪われ、1次リーグ最終戦のスコットランド戦、1試合出場に終わった。
ワールドカップ・アメリカ大会への出場をかけて行われた、南米予選最終戦のウルグアイ戦で2ゴールを決めて本大会出場に貢献、本大会ではグループリーグで3ゴールを決め、準々決勝のオランダ戦では先制ゴール、準決勝のスウェーデン戦で決勝ゴールを決めるなど、フリスト・ストイチコフに1点差で得点王のタイトルを逃したが、5得点を上げてブラジルの4度目の優勝に貢献。
同大会のMVPと同年のFIFA最優秀選手に選出された。
1998年のワールドカップ・フランス大会は直前の怪我のために出場が叶わず、ブラジル代表は決勝でエース・ロナウドの不調が響きフランスに0-3で敗れ準優勝に終わった。
2002年の日韓共催ワールドカップでは地区予選で第八節のボリビア戦で3得点、第九節のベネズエラ戦で4得点を挙げるなど、リバウドと共にチーム最多の8得点だったが、本大会のメンバー選考でルイス・フェリペ・スコラーリ監督の構想から外れた。
2004年、ブラジル代表からの引退を表明。
ホルヘ・カンポスと合同で代表引退試合を行った。
2005年、前年すでに代表引退試合を行っているにもかかわらず、1試合限りで代表に復帰した。
試合前の宣言通り、有終の美となるゴールを決めて代表から引退した。
エピソード
彼は悪童として有名で数多くの悪童伝説を残しています。
以下、一部をご紹介します。
シメオネの顔面に左ストレートをお見舞い
事件は94年1月にカンプノウで行われたバルセロナVSセビージャの試合に起きました。
アルゼンチン代表のシメオネのハードマークにブチ切れて、とうとう試合中がまんできずに左ストレートをかまします!
その決定的瞬間とその後のインタビューがこちら↓
ロマーリオ反省というか、全く悪びれる様子ありません。
実はこの前の週に行われたレアルとのクラシコでロマーリオは大量5点のうち3得点を挙げる大活躍をしていました。
しかし試合後カーニバルで遊びたいという理由でブラジルへ帰国。
セビージャ戦は休暇明けということでベンチスタートだった訳なのです。
ちなみに当時のことをクライフ監督はインタビューで下記のように語っている
ある日彼が私にブラジルへ戻る為に2日間練習を休んでいいか聞いてきたことがある。それはリオのカーニバルの為だったんだろうね。私はこう答えた。もし明日の試合で2ゴール決めたらお前に通常のオフと合わせて2日間の休みを与えるとね
翌日彼は20分で2ゴールを決め、直後に私に交代の合図を送ったんだ。そしてこう言ったんだ”監督、俺の飛行機あと1時間以内で出発するから”
試合中チームメイトに対してブチ切れ
これは2002年にモルンビースタジアムで行われたサンパウロVSフルミネンセの試合。
ちんたらプレーしていたチームメイトのAndrei Frascarelliがロマーリオがドつくシーンをカメラがしっかりととらえた!
これに動揺してしまったこの選手は終始思い通りのプレーができず、結果サンパウロに6-0という歴史的敗北を喫することとなりました。
この出来事によりその後ロマーリオはスポーツ裁判所により40%の減給処分となったそう。
ちなみに試合後のインタビューは
Tu é surdo ou cego, não sei. Tu é cego?(盲目かつんぼか知らんが。お前は盲目か?)と公の場でかなりきつい言い方してます。
カメラの前でサポーターをボコる
ロマーリオがフルミネンセに所属していた時、当時チームは24チーム中23位という2部降格の危機に瀕していました。
にも関わらずバーベキューやナイトクラブで遊びまくる選手たちにサポーターの不満は溜まっておりました。
そして練習中に選手に対してヤジを飛ばすサポーターとロマーリオが口論に途中ロマーリオは練習を完全に無視してケンカしに行ってます。(動画2:55から)
更にその翌日サポーターはとうとうフルミネンセの練習場に6羽のニワトリを放ってしまいます。
ニワトリはブラジルでは弱虫の象徴なのです。
これに切れたロマーリオは、トレーニング後着替えを終えてから観客席に殴り込みフルミネンセサポーターの青年はカメラの前でボコボコにされてしまいました。
この件によりロマーリオはおよそ3万レアル(当時150万円くらい)の罰金を支払いチームは最終的にはシーズン19位でフィニッシュ。
無双していたスラム少年時代
子供の頃にロマーリオと一緒にプレーをしていたおじさんのインタビュー動画。
ヴァスコダガマの下部組織出身のロマーリオ。
9-0で勝利したポンチプレッタとの試合で全得点を決めたり、ひとりで11ゴール決める試合もあったとか。
当時の無双ぶりや貧しい少年時代のエピソードを語る。
【伝説の名言】ペレは黙っていれば詩人なのに
2005年のこと。
この数日前にペレはロマーリオに対して引退するべきとコメントしていた。
記者にペレがこんなこと言ってますけど?ときかれた場面。
ペレはおとなしくしてりゃ詩人なのにね。いちいちペレの言う事に反応するつもりはない。ペレは本当クソみたいな事しか言わないのはみんなわかってるはずだ。やつは人の事ばかり気にしてないで、もう一度自分の人生の心配だけしてればいい。俺はいつだってペレは史上最高の選手だと言っていたが訂正しなきゃダメだ。口にサンダルを入れておかなければならなかった。その方が彼の為だ。
さあ実際の発言をみてみましょう。
これがロマーリオの伝説の名言の証言VTRです。
代表合宿のホテルから脱走
94年ワールドカップの南米予選でブラジルはかなり苦戦を強いられていました。
そしてこれを勝てば本大会出場決定という大一番の試合があり、相手は強敵ウルグアイでした。
ロマーリオが試合前に、”俺を試合に出せば必ず2点とる”と公言し見事にそれを実行したことはサッカーファンの間では有名な話ですが実はこの大一番の試合前日に代表のホテルから抜け出していたことを告白。
ホテルを抜けてどこへ行っていたかというと、別のホテルへ行っていたそうです。
しかしロマーリオがホテルを脱走したことはこれが初めてではなく、例えばコパアメリカの時のボリビア戦の時や、なんと94年W杯の大会中も何度か抜け出したことがあるそうです。
ちなみにブラジルサッカー協会は、このように選手達がホテルから抜け出さないように宿舎に女性を呼ぶことを許可していたとか。
スタジアムや飛行機の中どこでもセックス
なんとスタジアムのロッカールームでセックスしたことがあるとGlobo紙のインタビューで答えています。
こともあろうか、ブラジルサッカーの聖地とされるマラカナンスタジアムです。
ヴァスコダガマでプロになったばかりの頃の話、対コリンチャンス戦の時だったそうです。
試合後ドーピングの尿検査のため居残りしていたロマーリオ。
部屋のすぐ外では当時の恋人が待っていて、そこには彼女と警備員しかいなかったそうです。
それでロッカールームの中に呼び込んでやっちゃったそうです。※ ユニフォームとスパイクは脱いでいた。ちゃんとシャワーは浴びていました。
続いて飛行機の話です。
これはロマーリオが代表入りたてで選手として搭乗していた時の話だそうです。
遠征でスイスへ行った時のことどうやらスチュワーデスさんとやってしまったようです。
父親が誘拐されて犯人に対して逆脅迫
94年ワールドカップの開幕直前にロマーリオの最愛の父親エデヴァイール・ファリア氏がブラジルで誘拐されるという事件が発生しました。
22時頃近所のバーで食事していると頃を武装集団に囲まれたそうです。
誘拐犯はロマーリオ側に身代金700万ドル、当時のレートで約7億円を要求した。
この要求に対しロマーリオは”犯人に告ぐ、今すぐ父親を解放しろ、さもなければ俺はワールドカップに出ない”となんとメディアを通して発信しました。
逆ギレならぬ逆脅迫です!
この発言を受けブラジル全土が、ロマーリオがワールドカップ出なかったらマジやばいっしょとなり、僅か6日でスピード解決となりました。
この出来事の詳細についてはこちらの記事にかいております↓

エジムンドと伝説のラップ作品を発表
ロマーリオとエジムンドと言えば犬猿の仲として有名ですが、二人がまだ仲良しだった頃、Bad Boysという伝説のラップ作品を残しています。
プレースタイル
ブラジル人らしい高度なテクニックを有し、プレーの緩急の付け方が絶妙で、相手選手との駆け引きにも長けていたロマーリオには、あらゆるかたちでゴールを奪う術が備わっていた。
両足はもちろん、167センチの身長でも、位置取りとタイミングの妙で屈強なDFに競り勝った。
ペナルティーエリア内の天才、異能とでも申しましょうか、ペナルティーエリア内で発揮する驚異的なボールコントロール、天才的閃きと冷静さを併せ持ち、敵DFラインの裏を取るインベイション、ポジショニングと嗅覚に優れており主に右足、ヘディングでゴールした決定力抜群のストライカーでした。
その右足のシュートはインステップ・サイドは勿論、アウトサイド、時にはトゥーキックでゴールしました。
ダイレクトシュートも精度は高いです。
94W杯オランダ戦では、ベベットの左クロスを右アウトサイドハーフボレーで右隅にゴールしました。
ボールコントロールですが、個人的に印象的なのが94W杯カメルーン戦の敵DFに抜け出した際のトラップ(その後ゴール)、準決勝スウェーデン戦前半ペナルティーエリア内でボールを軽くすくい上げて一瞬にして敵DFを抜き去ったこと、97年プレW杯イタリア戦でツータッチでカンナヴァーロやペルッツィを次々と抜き去って決めたゴールです。
絶妙なファーストタッチを誇ります。
ブラジル時代には、ロナウヂーニョで有名なエラシコを空中でやりました。
そのどれもが敵の予想を超えるアイディア、閃きがありました。
93-94クラシコでは鮮やかなターンからゴールを奪いました。
それを見たバルダーノ(元マドリーSD)は「アニメの世界の住人」と評したほどです。
94W杯アメリカ戦のベベットの決勝ゴールは、マークがついたロマーリオが機転を効かしてラストパスを送りました。
ラストパスは巧いです。
でも実はペナルティーエリア外からもスピード溢れるドリブルを仕掛けます。
余談ですが、現代サッカーでは考えられないでしょうが、170cm足らずでありながらファーストトップとして大活躍したことです。
しかもストイチコフのような個性が強い選手や、ロナウドのような世界最高の選手、ベベットやエジムンドのような犬猿の仲の選手でも試合となれば結果を出したことも素晴らしいです。
ロナウドとのコンビはRo.Roコンビとして反則的破壊力でした。
バルセロナ移籍後「30得点する」といって本当に実現する有言実行(そのうち半数はハットトリック)は話題を呼びました。
時代を象徴するスーパースターでした。