概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1961年3月21日(59歳) | ||
出身地 | エアランゲン | ||
身長 | 173cm | ||
体重 | 70kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、デフェンシブハーフ、オフェンシブハーフ)、ディフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
「鉄人」の異名を持つ。
ドイツ代表として歴代最多の150試合出場、5度のワールドカップ出場、ワールドカップ最多出場記録(25試合)を達成する等、20年間に渡り第一線で現役を続けた。
1980年代から1990年代のドイツを代表する選手である。
1990年の1990 FIFAワールドカップにおいて主将としてドイツを3度目の優勝に導き、同年に欧州年間最優秀選手、1991年にはFIFA最優秀選手賞を受賞するなどの評価を得た。
また引退後の2004年にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』(FIFA100)にも選ばれている。
若い頃はその強靭な肉体と豊富な運動量を生かした守備的MFであったが、20代中盤頃からは、守備能力だけでなくミドルレンジからの強烈なシュートやパスセンスを武器に攻撃的MFを担当。
選手キャリアの後半にはリベロとしてプレーし、最後尾からチームを統率した。
ピッチ上では強烈なリーダーシップを発揮する一方で気性の激しい人物としても知られ、若い頃からチームメイトや監督とのトラブルが絶えなかった。
獲得タイトル
代表
・ヨーロッパ選手権 ユーロ1980優勝
・1982年 スペイン大会準優勝
・1986年 メキシコ大会準優勝
・1990年 イタリア大会優勝、主将を務める。
・ドイツ代表として150試合出場(ドイツ代表最多記録)
・W杯通算25試合出場(世界最多記録)
クラブ
・ドイツ・ブンデスリーガ優勝 6回 (1985、1986、1987、1994、1997、1999)
・ドイツカップ優勝 3回 (1986、1998、2000)
・UEFAチャンピオンズリーグ準優勝 2回 (1987、1999)
・UEFAカップ優勝 2回 (1991、1996)
・スクデット獲得 1回 (1989)
個人タイトル
・UEFA欧州選手権1988 ベストイレブン
・世界最優秀スポーツ選手(1990)
・欧州年間最優秀選手賞(1990)
・FIFA最優秀選手賞(1990、1991)
・ドイツ年間最優秀選手賞(1990、1999)
・「ドイツ代表名誉キャプテン」(歴代4人目)
・20世紀世界最優秀選手 15位(国際サッカー歴史統計連盟 1999)
・20世紀の偉大なサッカー選手100人 31位(ワールドサッカー誌選出 1999)
経歴
クラブ
マテウスは1961年3月21日にエアランゲンで生まれた。
地元のFCヘルツォーゲンアウラハでサッカーを学ぶ一方で、ギムナジウムで教育を受け、インテリアデコレーターの見習いを務めていた。
1979年、18歳の時にブンデスリーガ1部のボルシアMGと契約し選手キャリアをスタートさせるが、若い頃は気性の激しい性格からチームメイトや審判とトラブルを起こすことも多く、素行に問題のある選手と考えられていたという。
ボルシアMG時代はタイトルとは縁がなく、1983-84シーズンのDFBポカールでは準優勝に貢献したが、決勝のバイエルン・ミュンヘン戦でPKを失敗しタイトル獲得を逃している。
1984年にバイエルン・ミュンヘンへ120万ドルの金額で移籍。
バイエルンではブレーメやアウゲンターラーらと共にブンデスリーガ優勝3回(1985年、1986年、1987年)、DFBポカール優勝1回、UEFAチャンピオンズカップ準優勝1回に貢献した。1987-88シーズン、4月19日のシャルケ戦でキャリア唯一のハットトリック(PKで2ゴール)を達成した。
1988年にブレーメと共にイタリアのインテル・ミラノへ440万ドルの金額で移籍。
この金額はカール=ハインツ・ルンメニゲ、フェラーに次ぐ西ドイツ選手の高額での移籍であった。
インテルではトラパットーニ監督の下でセンターハーフとしての才能に開花。
守備だけでなくパスセンスや得点能力にも磨きをかけ(1989-90、90-91シーズンにリーグで11得点、16得点)、1988年8月21日のコッパ・イタリアのグループリーグ、バーリ戦で移籍後初ゴール、10月16日のピサ戦でセリエA初ゴール。
プレーの幅、安定感を伸ばし、強烈なキャプテンシーでクラブを8年ぶりのスクデット獲得に導いた。
1990-91シーズンにはUEFAカップ決勝ASローマ戦の第1戦でゴールを決めるなど、優勝の原動力になった。
1992年にインテルを退団し古巣のバイエルン・ミュンヘンへ復帰。
シーズン序盤は怪我の治療のため出遅れたが、第13節のバイエル・レバークーゼン戦においてペナルティエリア外からコーナーキックのボールをダイレクトボレーでゴールを決めた。
その後にリベロへコンバート。
スピードや運動量は衰えたものの、最終ラインからの正確なフィードでマテウス・スタイルとも呼べるプレーを確立した。
1995年1月にアキレス腱断裂に見舞われ長期離脱するなど怪我に苦しんだ時期もあったが、バイエルンの顔として、ブンデスリーガ優勝3回(1994年、1997年、1999年)、UEFAカップ優勝1回などに貢献した。
1999年11月20日のフライブルク戦でゴールを決め、バイエルンでの通算100ゴールを達成した。
ブンデスリーガでは464試合121ゴール、ポカールでは59試合19ゴールの成績を残した。
現役時代は数々のタイトルを手にしてきたが、UEFAチャンピオンズリーグのタイトルだけには縁が無く、1986-87シーズンにはFCポルト、1998-99シーズンにはマンチェスター・ユナイテッドの前に決勝で涙を飲んだ。
2000年からはアメリカ合衆国のニューヨーク・ニュージャージー・メトロスターズへ移籍し、翌2001年に現役を引退した。
代表
ドイツ代表としては、1980年4月26日のオランダ戦で代表デビューを飾ると同年6月のUEFA欧州選手権1980、1982年の1982 FIFAワールドカップ代表に選出された。
デビュー当初は交代出場が多くスタメン出場は成らなかったが、スペイン大会後の1984年に開催されたUEFA欧州選手権1984ではレギュラーの座を掴み、これ以降は代表の中心選手として定着した。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦のモロッコ戦にて延長戦終了間際に与えられたフリーキックから弾道の低いロングシュートを決め1-0の勝利に導く活躍などで2大会連続の決勝進出に貢献。
決勝のアルゼンチン戦では、相手エースのディエゴ・マラドーナのマンマークを担当、この試合においてマラドーナを封じる事には成功したが、試合そのものには敗れ去り、2大会連続準優勝に終わった。
ワールドカップ終了後にルンメニゲやフェリックス・マガトといったベテラン選手が代表から退くなど世代交代の時期を迎えると、ベッケンバウアー監督の下で主将としてエースとして代表チームを牽引するようになった。
1988年のUEFA欧州選手権1988では、地元開催ということもあって準決勝進出を果たすが、この大会を制するオランダに1-2で敗退。
なお、それまでマテウスは背番号8を付けることが多かったが、この大会後に所属クラブのインテルと同様に背番号10を付けるようになった。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では、1次リーグ初戦のユーゴスラビア戦で強烈なミドルシュートで2得点を挙げ、守備面においても相手エースのストイコヴィッチを封じ込め、4-1と大勝。
UAE戦でもミドルシュートで得点を奪い、決勝トーナメント1回戦では優勝候補の一角のオランダを2-1で退け、初戦の2得点を含む4得点をあげる活躍で決勝進出に貢献。
決勝戦のアルゼンチン戦では負傷していた影響でPKをブレーメに譲り、ブレーメがこれを成功させ1-0で勝利し前回大会の雪辱を果たし、1974年大会以来となる3度目の優勝を果たした。
ドイツ代表での活躍もあり、1990年には欧州年間最優秀選手とドイツ年間最優秀選手賞、ワールドサッカー誌選定世界最優秀選手賞を受賞、1991年にはFIFA最優秀選手賞を受賞するなど絶頂期にあったが、1992年4月に前十字靭帯を負傷しUEFA欧州選手権1992は不参加となった。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会に出場。
前回の優勝メンバーに東ドイツ出身の選手やシュテファン・エッフェンベルクらが加わり戦力は整ってはいたが、直前の親善試合の結果は芳しくなかった。
マテウス自身は1992年に負傷した膝の状態が思わしくなく、動きに精彩を欠いていた。
優勝候補の一角と目されたものの、準々決勝でダークホースのブルガリアに1-2で敗れた。
ドイツ代表の主将として長きに渡って代表を支えていたマテウスであったが、アメリカ大会後はユルゲン・クリンスマンとの確執(後述)などもあってベルティ・フォクツ監督の構想外となり代表への招集は見送られ、1996年のUEFA欧州選手権1996は不参加となった。
1998年のワールドカップ・フランス大会ではリベロのマティアス・ザマーが負傷したこともあり代表に復帰を果すとベスト8進出に貢献。
2000年のUEFA欧州選手権2000でもプレーをするなど、ドイツ代表としては歴代最多となる国際Aマッチ150試合出場、5度のワールドカップ出場、ワールドカップ最多出場記録(25試合)を達成する金字塔を打ち立てた。
エピソード
ユルゲン・クリンスマンとは犬猿の仲とされている。
1996年の欧州選手権直前にマテウスは「クリンスマンが自分を代表チームから追放しようと画策している」と主張し自ら大会出場を辞退。
その後も所属クラブのバイエルンでもチームメイトだったクリンスマンへの口撃は続いたが、これに対しクリンスマンは「我々は異なる人間だが、彼のことを悪くは思わない。むしろ尊敬している」と平静を保っていた。
やがてマテウスは暴露本を出版したことで、バイエルンからの追放の危機を迎えたが、副会長のベッケンバウアーの仲介により主将の地位を剥奪されるだけに終わり、この一件以降はマテウスの口撃は沈静化していったという。
ピエール・リトバルスキーは、自伝の中で90年W杯の時のチームメイトとの写真を使用した際に金銭を要求されたと記述している。
私生活では5度の結婚歴があり3人の子供がいる。
1人目の妻のシルヴィアとは1982年に結婚、リーサとヴィオラという二人の娘を授かったが1992年に離婚。
1994年、スイス出身のモデル、テレビ司会者のロリータ・モレナと結婚し息子のロリスを授かったが1999年に離婚。
2003年11月27日、セルビア人のマリアナ・コスティッチと結婚したが2007年末に離婚。
2008年12月、21歳のウクライナ人モデルのクリスティナ・リリアナと結婚。
挙式はラスベガスで行われた。しかし、2011年に離婚が確定。
2014年11月、28歳年下の女性と結婚した。
1992年当時、Jリーグのガンバ大阪入団の噂が報じられたことがある。
これはマテウスが松下電器の関連会社のCMに出演していた縁によるもので、G大阪側から積極的なオファーを受けていたとされている。
なおマテウスの当時のマネージャーは「1994年にはG大阪のキャプテンになっているだろう」と発言しているが、実現することはなかった。
プレースタイル
卓越したリーダーシップで劣勢でも味方を鼓舞する「ゲルマン魂」の代名詞的存在。
屈強な体、尽きることの無いスタミナ、正確なパス、強烈なシュート、そして闘争心。
凄まじいキャプテンシーでチームを牽引した選手。
運動量に得点力、展開力を備え、中盤の底やリベロとして守備を引き締めながらゲームを作ります。
1990年頃まではその強靭な肉体と正確なパスを送る能力を生かしセンターハーフとして、文字通り中盤の王様として君臨していたが、インテル・ミラノ時代の故障を経て、1993~1994年頃リベロにコンバート。
スピードや運動量は衰えたものの、最終ラインからの正確なフィードでマテウス・スタイルとも呼べるプレーを確立。
勝利への強い意志と卓越したスキル、冷静な姿勢で名を馳せ、キャリアを通じて数え切れないほどのトロフィーを獲得。