概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1944年11月7日(75歳) | ||
出身地 | レッジューノ | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード、左ウイング)。
利き足は左。
愛称は「ジジ (Gigi)」「 雷鳴 (Rombo di Tuono)」。
イタリア史上最高のFWとの呼び声高いサルデーニャの太陽。
同世代の最高のプレーヤーの1人であり、史上最高のストライカーの1人であると考えられている。
カリアリで16年間プレーしセリエA得点王には3度輝いている。
1969/70シーズンにはカリアリでセリエA優勝を経験。
1978年7月に現役引退するまでの間に、セリエAで通算289試合に出場して155ゴールを決めている。
1999年にはワールドサッカー誌の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」の一人に選ばれていた。
代表レベルでは、リーバは1968年の UEFA欧州選手権で優勝し、1970年のFIFAワールドカップでイタリア代表と準優勝しました。
また、1974年のFIFAワールドカップにも参加し1965年から1974年の間に、42の出場で35ゴールを記録したイタリアの史上最高のゴールスコアラーです。
獲得タイトル
クラブ
カリアリ
・Serie A (1): 1969–70
代表
イタリア
・European Championship (1): 1968
個人
・Serie A Top-Scorer: 1966–67, 1968–69, 1969–70
・Ballon d’Or:
1967 – 13th
1968 – 6th
1969 – 2nd
1970 – 3rd
・UEFA European Championship Team of the Tournament: 1968
・World Soccer’s 100 Greatest Footballers of All Time: 1999
・Golden Foot “Football Legends”: 2005
・Inducted into the Italian Football Hall of Fame: 2011
・Inducted into the Walk of Fame of Italian sport: 2015
・Inducted into the Cagliari Hall of Fame
・Cagliari Greatest All-time Starting XI
経歴
所属クラブ
代表歴 | |||
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1965-1974 | ![]() |
42 | (35) |
クラブ
9歳のとき父親が事故死、苦しい経済環境で14歳になったリーバは工場で働きながら、地元のクラブでプレーをする。
しかし16歳で母親も死去、若くして孤独の身となってしまった。
その後、所属したセリエCのレグノナで将来性を認められたリーバは、熱心に誘いをかけてきたセリエBのカリアリへ62年に移籍した。
サルディーニャ島に到着した18歳のリーバは、オンボロ飛行機の窓から砂漠のような景色を見て「ここはアフリカか、と思ったぐらいだ」と不安を覚えたらしい。
とても整っているとは言えないクラブの環境に、「俺はだまされて世界の果てに来てしまった」と一時は自暴自棄になりかけるが、島民との触れ合いで次第に心を和ませていったリーバ。
自分を受け入れてくれた町に愛着を抱くようになった彼は、苦しかった少年時代の経験を糧に、チームでの成長を目指すようになったのである。
ストライカーとしての才能を開花していったリーバ。
そして63-64シーズンにはチームをセリエAに昇格させ、66-67シーズンに21ゴールを決めて初の得点王を獲得する。
67-68シーズンには怪我を負いながらも、不屈の精神でトップスコアラーの地位をキープ、連続得点王を獲得した。
そして69年のバロンドール投票では、惜しくもジャンリ・リベラに及ばなかったが4票差の2位と活躍を評価された。
そして69-70シーズン、「哲学者」の異名を持つマンリオ・スコーピニョ監督の指揮のもと、3年連続で得点王に輝いたリーバはカリアリをセリエA初優勝へ導く。
大都市から離れた地方の小クラブがセリエA優勝を果たすなど、イタリアサッカーの長い歴史でも前代未聞。
この快挙はサルディーニャ島の人々を喜ばせ、勇気づけることになった。
いくつものビッグクラブからの注目にも関わらず、引退するまでカリアリ一筋で過ごし、セリエAでの12シーズンで289試合出場156ゴールを叩きだしています。
代表
イタリア代表としては、1965年6月27日のハンガリー戦(2-1で敗北)で国際舞台にデビュー。
1968年UEFA欧州選手権では決勝のユーゴスラビア戦のみの出場ながら、先制点を挙げて優勝に貢献。
1970年FIFAワールドカップでは決勝でブラジルに4-1で敗れて準優勝。
1974年FIFAワールドカップではグループリーグ敗退に終わった。
エピソード
引退後は、カリアリの役員になり、1990年からはイタリア代表のチームマネージャーを務めています。
プレイスタイル
力強いドリブルと、破壊的なシュートで相手ゴールを無理矢理こじ開けた。
スピード抜群のドリブルと強烈な左足のシュートを武器にした。
ゴールキーパーを震え上がらせる、異次元のパワーと左足の威力。
鍛え抜かれた身体でゴールを襲う迫力の姿は、まさに轟く雷鳴そのままだった。
強引なまでのドリブルで左サイドを破り、左足から放つ強力なシュートでゴールをこじ開けていった。
キャリア当初は左ウインガーだったが、その得点力を生かすためにセンターフォワードを勤めるようになる。
彼の身長、強靭な肉体、ジャンプ力、ヘディングの正確で、空中戦でも威力を発揮。
ボレーの上手さからの壮大なアクロバティックなゴールを記録する傾向がありました。
背の高い体格と強力な身体的特性にもかかわらず、彼は優れたテクニック、創造性、ドリブルスキル、そして非常に繊細なファーストタッチとボールコントロールスキルも備えていました。
彼は顕著な得点技術に加えて、豊富なスタミナを備え、非常に勤勉で、速い選手でした。
彼はまた正確なフリーキックとペナルティキックのスペシャリストでもありました。