概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年9月29日(43歳) | ||
出身地 | キエフ州・ヤッホーイ地区・ドヴィルキウシュチナ村 | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 83kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
ウクライナの英雄です。
ディモナ・キエフやACミラン、ウクライナ代表で大活躍し、旧ソ連の小国であったウクライナをヨーロッパのサッカー強豪国のひとつにまで引っ張りあげたウクライナの英雄的なストライカー。
愛称はシェバ(Sheva)。
ヘブライ語で数字の7を意味するため、本人も背番号は7番(もしくは7の入る数字)にこだわりがある。
トップスピードから矢のようにゴールを奪うスタイルから「ウクライナの矢」とも称される。
2004年にバロンドールを受賞。
UEFAチャンピオンズリーグにおいて歴代10位タイとなる147試合に出場し、歴代5位の67得点を記録した。
そのほか、ミラノダービーでは歴代最多得点となる14得点を挙げている。
獲得タイトル
クラブ
- ディナモキエフ
- ウクライナ・プレミアリーグ:1995, 1996, 1997, 1998, 1999
- ウクライナ・カップ:1996, 1998, 1999
- ウクライナ・スーパーカップ:2011
- CISカップ:1996, 1997, 1998
- ACミラン
- セリエA:2003-04
- コッパ・イタリア:2002-03
- スーペルコッパ・イタリアーナ:2004
- UEFAチャンピオンズリーグ:2003
- UEFAスーパーカップ 2003
- チェルシー
- FAカップ:2007
- フットボールリーグカップ:2007
- FAコミュニティ・シールド:2009
個人
- ウクライナ・プレミアリーグ得点王:1999
- CISカップ得点王:1997
- セリエA得点王:2000, 2004
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王:1999, 2006
- バロンドール:2004
- ウクライナ最優秀選手:1997, 1999, 2000, 2001, 2004, 2005
- セリエA最優秀外国人選手:2000
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀FW:1999
- ゴールデンフット賞:2005
- FIFA 100
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 60位(ワールドサッカー誌選出 1999)
- ウクライナ代表歴代最多得点記録
経歴
クラブ
6歳でウクライナの名門、ディナモ・キエフのサッカースクールに入団。
10歳児頃、チェルノブイリ原子力発電所事故で罹災し一家で避難、幼年期を育った土地を離れて移住。
1992年にディナモ・キエフユースに昇格、1994年にトップチームでデビューを果たす。
最初のクラブであるディナモ・キエフではチームを5年連続リーグタイトルに導き、自身は116試合で60得点した。
シェフチェンコが国際的な注目を集めたきっかけは1997-98シーズンのUEFAチャンピオンズリーグにおける大活躍である。
特にFCバルセロナとアウェーのカンプ・ノウで対戦した試合では、バルセロナの圧倒的優位という下馬評の中、シェフチェンコのハットトリックを含む0-4でディナモ・キエフが圧勝という番狂わせの立役者となった。
シェフチェンコは次シーズンのチャンピオンズリーグでも大活躍し、10得点を挙げて1998-99シーズンのCL得点王を獲得。
ディナモ・キエフをCLベスト4に押し上げる原動力となった。
1999-00シーズンからは推定移籍金2600万ユーロでACミランに移籍をした。
移籍初年度から高い順応性を見せた彼は、鋭い突破力と高い決定力で32試合で24得点を挙げていきなりセリエA得点王を獲得。
ミランにおいてグンナー・ノルダールに次いで2人目、セリエA全体では6人目となる移籍初年度に得点王に輝いた外国人選手となった。
また、シェフチェンコは1999年、2000年と2年連続でヨーロッパ年間最優秀選手の最終候補3名に名を連ねた。
2002-03シーズンは開幕前に負傷したこともあってか期待された活躍は見られなかったものの、ACミラン在籍時に「不振」と言われるような成績を残したのは僅かこのシーズンのみである。
2003-04シーズンには再び24得点を挙げて得点王となるなど完全復活を果たし、ACミランのスクデット獲得に貢献した。
この年、ポルトガルのデコとブラジルのロナウジーニョを抑えてヨーロッパ年間最優秀選手を受賞した。
ウクライナ人でこの名誉を授かったのは、オレグ・ブロヒン(1975年)、イーゴル・ベラノフ(1986年)に次いで3人目である。
2006年2月8日、FCトレヴィーゾ戦で得点を挙げたことにより、ノルダールに次ぐクラブ史上2番目の得点数を記録した選手となった。
最終的に、7年間で296試合に出場して175得点を記録した。
2005-06シーズン終了後、ACミランからの退団とFAプレミアリーグへの移籍を表明。
5月31日、4500万ユーロ(約63億円)の移籍金、年俸900万ユーロ(約13億円)の4年契約でチェルシーFCへ移籍した。
しかし、プレミアリーグのサッカーやチェルシーの戦術に馴染めなかったためか、本来の実力を発揮したとは言えないパフォーマンスであった。
ディディエ・ドログバは、巨額な移籍金に見合った働きをするために利己的なプレーをしていると批判した。
2008年1月にニコラ・アネルカが加入してからは更に出場の機会がなくなっていき、リザーブチームの試合に出場することもあった。
その後もなかなかチームに馴染めず出場機会が限られていたため何度も古巣ミラン復帰の噂がされていたが、2008年夏、得点力不足や前線のメンバーの負傷が相次ぐなど前線に問題をかかえていた古巣ミランがレンタル移籍での獲得を希望する。
交渉は難航するが8月23日、レンタル移籍で両クラブ間が合意に達し、2シーズンぶりの復帰となった。
背番号は、すでにパトが背番号7を背負っていたため、自身が1976年生まれであること、かつ彼の好む「7」という数字が入っていることから「76」となった。
しかし一旦狂った歯車は中々好転せず、慣れ親しんだミランでも往時の輝きは取り戻せないままレンタル期間は終了。
2009-2010シーズンの開幕はチェルシーで迎えることとなった。
2009年8月29日、10年ぶりに古巣ディナモ・キエフへ復帰することが発表された。
2年契約で背番号は7。
2009-10シーズンからキャプテンに就任したアルテム・ミレフスキーのサポート役として、シェフチェンコは副キャプテンに就任。
11月4日のチャンピオンズリーグ・インテル戦では華麗なボレーシュートを決めてみせた。
代表
ウクライナ代表としては111試合に出場して48得点を記録。
同国の最多得点記録を保持している。
2006年のワールドカップにおいては、ヨーロッパ予選で6得点を挙げる活躍を見せ、ウクライナ史上初となる本大会出場へと導いた。
本大会グループリーグでもチュニジア代表戦での決勝点となるPKを決めるなどし、初出場ながらベスト8まで駒を進めた。
ウクライナがポーランドと共催するUEFA EURO 2012を最後に現役から引退することを大会前に発表。
サッカー界から退いた後は、ゴルファーへ転向を果たす計画であり、ゴルフが112年ぶりに正式競技に復活した2016年のリオデジャネイロ五輪への出場を目指す構えだという。
そうして臨んだEURO2012ではグループリーグ初戦のスウェーデン戦では、後半7分にスウェーデンのエースであるイブラヒモビッチに先制点を許すも、3分後にヤルモレンコのクロスをヘッドで合わせて同点とし、その7分後にはコーナキックをまたしても頭で合わせて、勝ち越し点を挙げた。
こうして2得点を挙げ、ウクライナのEURO初勝利に貢献した。
しかし、フランス、イングランドには敗れ、グループリーグ敗退に終わり、大会終了後の2012年7月27日に現役引退した。
エピソード
幼少時代、キエフ郊外のクレシュチェチュクに住んでおりチェルノブイリ原発事故に遭遇している。
事故後は黒海に面した港町に疎開している。
彼の全盛期はウイイレの全盛時代とも重なった。
オールラウンダーであった彼の能力は“凶悪”で、ユーザーから重宝された。
2014年、ブラジル紙は『サッカーゲームでお世話になった選手10選」にシェフチェンコを選出したが、そこにはこう綴られていた。
「シェフチェンコは恐怖だった。 こんなにも多くの(ゴールを陥れる)武器を持った選手はほとんどいない。 蹴ったらゴール。ヘディングしたらゴール。走ったら半分はゴール」
サッカー界で有数のゴルフ好きだというシェフチェンコ。
元々は「サッカーのプレッシャーから逃れるために始めた」んだそうだが、2016年のリオ五輪出場を目指すほどプロ並みの腕前として知られている。
ゴルフとサッカーは全く違うとしつつ、「ゴルフでは集中し、バランスをとらなきゃならない。そこが好きなんだ。そのメンタルバランスがね。ゴルフは大好きさ」とも述べている。
プレースタイル
スピード、テクニック、体力、得点感覚という、フォワードとして必要な才能を全て兼ね備えたことから世界最高と謳われ、特にそのスピードから「ウクライナの矢」と呼ばれた。
鋭い突破力と左右両足、頭で多くの得点を量産する。