概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1966年5月24日(54歳) | ||
出身地 | マルセイユ | ||
身長 | 188cm |
ポジションはフォワード(セカンドトップ)。
利き足は右。
マンチェスター・ユナイテッドのレジェンド。
「キング」ことエリック・カントナ。
唯我独尊の王様。
マンチェスター・ユナイテッドでは、FAカップとの2度のダブル(2冠)を含め、4度のリーグ優勝を経験した。
カントナは低迷していたマンチェスター・ユナイテッドの復活に貢献した中心選手であると考えられており、自身もクラブとイングランドのサッカーの看板選手たる地位に立っていることを楽しんでいた。
2001年には、マンチェスター・ユナイテッドの20世紀最高のサッカー選手(Manchester United’s player of the century)に選ばれ、「キング・エリック」のニックネームで親しまれている。
獲得タイトル
クラブ
オセール
- Coppa delle Alpi: 1986–87
マルセイユ
- Division 1: 1988–89, 1990–91
モンペリエ
- Coupe de France: 1989–90
リーズ・ユナイテッド
- Football League First Division: 1991–92
- FA Charity Shield: 1992
マンチェスター・ユナイテッド
- Premier League: 1992–93, 1993–94, 1995–96, 1996–97
- FA Charity Shield: 1993, 1994, 1996
- FA Cup: 1993–94, 1995–96
代表
フランス U21
- UEFA European Under-21 Championship: 1988
個人
- Division 1 Rookie of the Year: 1987
- Ballon d’Or – Third Place: 1993
- Premier League top assist provider: 1992–93, 1996–97
- BBC Sport Goal of the Month: February 1994, December 1996
- PFA Premier League Team of the Year: 1993–94
- PFA Players’ Player of the Year: 1993–94
- FWA Footballer of the Year: 1995–96
- Premier League Player of the Month: March 1996
- Sir Matt Busby Player of the Year: 1993–94, 1995–96
- Onze d’Or: 1996
- ESM Team of the Year: 1995–96
- Premier League 10 Seasons Awards (1992–93 to 2001–02)
- Overseas and Overall Team of the Decade
- Overseas Player of the Decade
- Inducted into the inaugural English Football Hall of Fame: 2002
- UEFA Golden Jubilee Poll: No. 42
- FIFA 100 Greatest Living Footballers: 2004
- PFA Team of the Century (1907–2007):
- Team of the Century 1997–2007
- Overall Team of the Century
- Football League 100 Legends
- Golden Foot Legends Award: 2012
- French Player of the Century: No.10
- UEFA President’s Award: 2019
経歴
クラブ
カントナが初めてプロのサッカー選手として試合に出場したのは2年間ユースに在籍したオセールであり、デビュー戦は1983年11月5日に行われ、4-0で勝利したナンシー戦であった。
1984年は兵役に従事したので、サッカー選手としてのキャリアは一旦停止することになった。
兵役を終えると2部のマルティーグへローンで加入することになった。
オセールに復帰すると1986年にはプロ契約を結び、ディヴィジョン・アンで良い活躍を見せるとフランス代表に招集され、初キャップを記録した。
しかし、1987年にはチームメイトのブルーノ・マティーニを殴ったとして罰金処分を受け、キャリアを通していくつか起こる規律上の問題を早速起こしてしまった。
翌年にはナントに所属していたミシェル・デル・ザカリアンに危険なタックルを浴びせ、3試合の出場停止処分を受けたが、オセールがチームに所属する選手の代表招集に応じないようにすることを示唆すると、処分は2試合に軽減された。
カントナは1988年に開催されたUEFA U-21欧州選手権に出場しタイトルを獲得すると、当時のフランス・サッカー界最高額の移籍金で、子どものころから応援していたクラブであるマルセイユへ移籍した。
カントナは今日までのキャリアの中でしばしば顔を出す癇癪を起こし、1989年1月に行われたトルペド・モスクワとの親善試合で交代を告げられると、スタンドにボールを蹴り込み、ユニフォームを脱ぎ捨てた。
それに対してクラブは1ヶ月の出場停止処分を科した。
この出来事はテレビのインタビューで監督を批判し、1年間の国際試合への出場停止を科されるほんの数ヶ月前のことであった。
マルセイユに馴染めず、カントナは6ヶ月のローンでボルドーに加入し、その後はモンペリエにローンで1年間加わった。
モンペリエではジャン=クロード・ムールトと衝突し、彼のスパイクを顔面に投げつけるという事件を起こした。
所属する6人の選手はカントナを放出するように求めたが、チームメイトのローラン・ブランやカルロス・バルデラマのサポートにより10日間の謹慎処分で済み、カントナはチームのクープ・ドゥ・フランス優勝に貢献した。
カントナのモンペリエでの活躍は、マルセイユが彼を呼び戻すという決断をするに至らしめた。
マルセイユに復帰すると、ジェラール・ジリの下で活躍し、後任に就いたフランツ・ベッケンバウアーの下でも良い活躍を見せた。
しかし、会長のベルナール・タピは結果に満足出来ず、ベッケンバウアーに代えて、カントナが目を合わせようとしなかったというレイモン・ゲタルスを監督の座に据えた。
ゲタルスとの諍いは絶えなかったが、ディヴィジョン・アン優勝に貢献し、翌シーズンにニームへ移籍することになった。
1991年12月、ニームでの試合中に判定に納得できず、ボールをレフェリーに投げつけるという事件を起こしてしまった。
カントナはフランスサッカー協会の聴聞会に招集され、1ヶ月の出場停止処分を言い渡された。
それに対しカントナは委員一人ひとりのもとに歩み寄り「馬鹿(idiot)」と罵ったため、処分は3ヶ月に延長された。
カントナにとっては我慢の限界であり、1991年12月にサッカー界から引退すると発表した。
その当時、フランス代表監督であったミシェル・プラティニはカントナの熱狂的なファンであり、その才能を賞賛し、現役復帰するように説得を試みた。
ジェラール・ウリエと彼の精神分析医のアドバイスは、キャリアを再開させるためにイングランドへ行くというものだった。
「彼(私の主治医の精神分析医)は、マルセイユとは契約せずに私にイングランドへ行くべきだと言ったんだ」
1991年11月6日に行われたUEFAカップ2回戦のセカンドレグのリヴァプール対オセール戦の試合終了後にリヴァプールの監督を務めていたグレアム・スーネスはミシェル・プラティニと面会し、カントナがリヴァプールでプレーしたがっているという話を聞かされた。
しかし、スーネスは有難い申し出であるとは思ったが、チームのドレッシングルームの和を乱したくはないと考えて、その話は断った。
1992年1月にはトレヴァー・フランシスが監督を務め、昇格初年度のシーズンを3位で終えようとしているシェフィールド・ウェンズデイの1週間のトライアルを受けた。
トライアルの延長の話を受けたがカントナはそれを断り、ヨークシャーのライバルであるリーズ・ユナイテッドへ加入することになった。
リーズではプレミアリーグへ変わる前の最後のイングランドのトップリーグでの優勝を経験することになった。
そのシーズンは15試合に出場し、3ゴール挙げるに留まったが、チームの得点源であるリー・チャップマンの多くのゴールをアシストするなど、チームのタイトル獲得に貢献した。
4-3でリヴァプールに勝利した1992年のチャリティーシールドではハットトリックを達成し、5-0で勝利したトッテナム・ホットスパー戦でもハットトリックを決めた。
スパーズ戦でのハットトリックは、プレミアリーグ第1号のハットトリックであった。
ウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーシールドでハットトリックを決めたために、カントナは多くの注目を浴びるようになった。
1992年11月26日、カントナはリーズからマンチェスター・ユナイテッドへ150万ポンドで移籍することになった。
リーズの監督を務めていたハワード・ウィルキンソンがユナイテッドの会長であったマーティン・エドワーズにデニス・アーウィンが獲得可能か電話で問い合わせたが、エドワーズとアレックス・ファーガソンは話し合いの末に放出しないという意見で合意した。
ファーガソンは自身のチームにFWが必要であると考えており、デイヴィッド・ハースト、マット・ル・ティシエ、ブライアン・ディーンらの獲得に尽力していたが、ファーガソンはウィルキンソンにカントナを放出可能がどうかを会長に尋ねるように頼み、数日で交渉はまとまった。
カントナのマンチェスター・ユナイテッドにおけるデビュー戦は、エウゼビオの生誕50年を記念しリスボンで行われたベンフィカとの親善試合であった。
公式戦デビューとなったのは、1992年12月12日にオールド・トラッフォードで行われたマンチェスター・シティ戦であり、ユナイテッドは2-1で勝利したが、後半から出場したカントナは活躍することは出来なかった。
カントナと契約する前のユナイテッドは低調なシーズンを送り、タイトルレースでは大型補強を行ったアストン・ヴィラとブラックバーン・ローヴァーズや驚きの躍進をしていたノリッジ・シティ、QPRといったクラブの後塵を拝しており、深刻な得点力不足から、昨シーズンの同時期の半分の勝ち点に留まっていた。
ブライアン・マクレアー、マーク・ヒューズは不振に陥り、夏に契約を結んだディオン・ダブリンは骨折により6ヶ月間の離脱を余儀なくされていた。
しかし、カントナはチームにすぐに順応し、自身がゴールを挙げるだけではなく、数多くの得点チャンスを作りだした。
ユナイテッドでの初ゴールは、1992年12月19日にスタンフォード・ブリッジで行われ、1-1で引き分けたチェルシー戦であった。
2ゴール目はボクシング・デー(国民の祝日であり、通常は26日)にヒルズボロで行われたシェフィールド・ウェンズデイ戦であり、ハーフタイムを迎えるまでは0-3でリードされていたが、試合は3-3で終了した。
カントナが初めて本領を発揮したのは1993年1月9日に行われたトッテナム・ホットスパー戦であり、2ゴールを記録し、4-1でチームは勝利を飾った。
しかし、問題を起こす気質は改善されておらず、その試合から数週間後にエランド・ロードで行われたリーズ・ユナイテッド戦でファンに唾を吐き、FAから1,000ポンドの罰金処分を受けた。
カントナが加入したユナイテッドは快進撃を続け、2位に10ポイント差を付けてプレミアリーグの初代チャンピオンとなり、1967年以来となるヨーロッパチャンピオンとなることも現実的な目標となった。
この優勝により、カントナは異なるクラブで2シーズン連続でトップリーグのタイトルを獲得した初の選手となっている(のちにエンゴロ・カンテも達成)。
同年のバロンドール投票では第3位となった。
プレミアリーグを連覇し、FAカップの決勝ではカントナのPKによる2ゴールもあり、4-0でチェルシーに勝利した。
フットボールリーグカップでも決勝進出を果たしたが、アストン・ヴィラに1-3で敗れ、準優勝に終わった。PFA年間最優秀選手賞を受賞したが、チャンピオンズリーグのガラタサライ戦ではレフェリーに抗議をし退場処分となり、チームも敗退し、リーグ戦ではスウィンドン・タウン戦、アーセナル戦と2試合連続でレッドカードを提示され、FAカップ準決勝のオールダム・アスレティック戦を含め5試合の出場停止処分を受けた(FAカップ準決勝は1-1の引き分け終わり、再試合にはカントナも出場し、4-1の勝利に貢献した)。
1993-94シーズンはプレミアリーグに固定背番号制が導入された最初のシーズンであり、カントナは7番を与えられ、ユナイテッドでのキャリアを終えるまでその番号を背負った。
翌シーズンもカントナは好パフォーマンスを披露し、ユナイテッドは3連覇を達成するものと見られていたが、1995年1月25日に世界中で見出しを飾り、議論を呼ぶ事件を起こしてしまった。
カントナはクリスタル・パレスのDFであったリチャード・ショウにユニフォームを引っ張られたことに対し腹を立て、報復のキックをしてしまい退場処分を受けた。
カントナは通路へ向かって歩いていたが、クリスタル・パレスのファンであったマシュー・シモンズに『カンフー』式のキックをし、数発のパンチを浴びせるという行動に出てしまった。
カントナがシモンズに飛び蹴りを食らわせている有名な写真はアッシュのシングル『カンフー』のジャケットに使用され、この写真は大きな宣伝効果を生み、シングルは同年のチャートの57位にランクインをした。
1995-96シーズンはユナイテッドは数人の中心選手を放出し、ユースから昇格した選手たちを代わりに据えたが、開幕戦でアストン・ヴィラに1-3で敗れ、スタートでつまずいてしまった。
開幕戦での敗北から立ち直り、リーグで2位に付けて迎えた1995年10月1日のリヴァプール戦はカントナの復帰戦として多くの注目を集めていたが、他のクラブのファン、特に強いライバル関係にあるチームのサポーターや選手からは多くの挑発を受けることが予想されたので、カントナがイングランドのサッカーに再び適応することは出来ないのではないかと考える者もいた。
復帰戦では開始2分でニッキー・バットのゴールをアシストし、ライアン・ギグスが倒されて得たPKから自身もゴールを決めた。
しかし、8ヶ月もの間実戦から離れていた影響は大きく、クリスマスを迎えるまでは良いパフォーマンスを発揮できず、チームも首位を走るニューカッスル・ユナイテッドから10ポイントのリードを奪われていた。
しかし、1月中旬にアップトン・パークで行われたウェストハム・ユナイテッドにカントナのゴールで勝利をしてから、リーグ戦で10連勝を記録した。
ユナイテッドはカントナのゴールで1-0で勝つ試合が多く、3月9日のQPRとの試合に引き分け、得失点差で首位に立った。
首位に立ってからは一度も順位を落とさず、リーグ戦最終日にリヴァーサイド・スタジアムで行われたミドルズブラ戦に3-0で勝利し、長く続いた優勝争いに終止符を打ち、4シーズンで3度目の優勝を飾った。
FAカップ決勝のリヴァプール戦ではスティーヴ・ブルースが欠場したため、キャプテンを務め、試合もカントナのゴールにより1-0で勝利し、ブリテン諸島以外の出身の選手として初めてFAカップを掲げた選手となり、チームも2度ダブルを達成した初のクラブとなった。
試合後のインタビューでカントナは、「上がりもすれば下がりもする。それが人生だ」と答えた。
1996-97シーズンはスティーヴ・ブルースのバーミンガム・シティへの移籍に伴い、1996-97シーズンはキャプテンを務めた。
カントナはその後に大きな成功を成し遂げるチームの中心となるライアン・ギグスや、将来を嘱望されていたデイヴィッド・ベッカム、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、ガリー・ネヴィルといった選手に大きな影響を与え、1996-97シーズンもリーグ戦を首位で終え、5年間で4度目となるリーグ優勝を果たした(マルセイユとリーズを含めると7年間で6度の優勝を経験している)。
チャンピオンズリーグは準決勝でボルシア・ドルトムントに敗退したために決して満足の出来るシーズンではなかったが、カントナは突然「シーズン終了後に現役を引退する」と表明し、多くのユナイテッドファンを落胆させた。
このとき彼は30歳であった。
最後のゴールは4月12日のブラックバーン戦の決勝点であった(3月22日エヴァートンFC戦、4月5日ダービー戦でもゴールを決め、3試合連続ゴール。)。
1997年5月11日に行われたウェストハム・ユナイテッド戦が、カントナの公式戦における最後の出場となった。
最後のプレーを見せたのは、前年に引退したデイヴィッド・バスト(引退の原因となった怪我はユナイテッド戦で負ったもの)の記念試合、ハイフィールド・ロードで行われたコヴェントリー・シティ戦で、カントナは2ゴールを挙げ、2-2の引き分けであった。
カントナはリーグ戦では64ゴールを挙げ、11の国内タイトルを獲得し、チャンピオンズリーグでは5ゴール、全コンペティションを合わせると5年に満たないキャリアで通算80ゴールを記録した。
代表
代表では1987年8月に行われた西ドイツ代表戦でA代表デビュー。
当時の代表監督はアンリ・ミシェルであった。
1988年9月に代表から外されたカントナはその試合後に行われたインタビューでミシェルを批判し、無期限ですべての国際試合から追放されることになった。
しかし、その後すぐにミシェルは1990 FIFAワールドカップの予選で敗退したことにより、代表監督を解任された。
代表の監督にはミシェル・プラティニが就任したが、プラティニが監督に就いてから最初に行った仕事の一つは、自身のお気に入りであるカントナを代表に呼び戻すことであった。
プラティニはカントナが高いレベルの試合に出場している限りは代表に呼ばれるべきであると述べ、イングランドへの移籍を画策した。
フランスは予選を通過し、スウェーデンで開催されたEURO92に出場したが、カントナとジャン=ピエール・パパンのコンビは結果を出せず、本大会では1勝も挙げられなかった。
大会終了後にプラティニは辞任し、ジェラール・ウリエが新たに監督に就任した。
ウリエの指揮下でフランス代表は、引き分けでも予選を通過できた最終戦のブルガリア代表戦を1-2で落とし、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップの出場を逃した (パリの悲劇) 。
ダヴィド・ジノラがボールをキープせずにクロスを上げたことからエミル・コスタディノフの決勝ゴールが生まれ、試合後にはカントナはジノラに激怒したと伝えられている。
ウリエは監督を辞任し、エメ・ジャケが新監督の座に就いた。
ジャケはEURO96に向けて代表チームの立て直しに着手し、カントナをキャプテンに指名した。
カントナはセルハースト・パークでの事件が起こる前の1995年1月までキャプテンを務めたが、結果としてこの出来事はカントナが代表でプレーする機会を失わせることになった。
出場停止が明けた時にはチームのプレーメーカーにはジネディーヌ・ジダンが台頭してきており、ジャケはジダンを中心として新しい選手を起用しようとしており、カントナ、パパン、ジノラはEURO96のメンバーから外れ、その後二度と代表でプレーする機会は与えられなかった。
カントナはプレミアリーグで活躍していたためその判断は批判を浴びたが、ジャケは「彼抜きでここまで上手くやってきた選手の信頼を裏切りたくはなかった」と述べた。
ジャケはその後1998 FIFAワールドカップで優勝という結果を残し、自身の判断が間違っていなかったことを証明した。
今日まで、カントナは代表チームに寄せられる賞賛やフランスサッカー協会の上層部に対して不快感を示しており、EURO2004と2006 FIFAワールドカップではフランスではなく、イングランド代表を応援した。
エピソード
練習にも精魂を傾けるフットボールへの真摯な取り組みはチームメイトに多大な影響を与えた。
しかし唯我独尊の態度で孤高の存在であったカントナは、他人の意見や規範による柵を徹底して嫌い、厳格な態度で規律を重んじるアレックス・ファーガソンの流儀に括られることもなかった。
デビッド・ベッカムは「エリックは特別だった」と発言している。
カントナはかの有名なカンフーキックの事件でも知られる。
サッカー史に残る“事件”が起きたのは、1995年1月25日、クリスタル・パレスとのプレミアリーグだった。
試合途中で退場となったカントナは、スタンドから汚い言葉を浴びせた観客に飛び蹴りを見舞ったのだ。
当時、チームメートとしてピッチに立っていたガリー・パリスターは、英『talkSPORT』で「サッカーの歴史において非常にショッキングな瞬間だった」と振り返っている。
「おそらくあんなことができたのはエリックだけだ。クレイジーだったよ。私は彼のこと、彼の性格を知っていた。間違ったことをされたらカッとなるんだ。その点では驚きではなかった。スタッフが引き離し、もみくちゃになり、選手たちがみんな駆け寄った。でも、私は行かなかった。ただショックだったんだ。現実じゃないみたいだった」
選手が観客に飛び蹴りを見舞ったのだから、指揮官が激怒すると考えるのは不思議ではない。
パリスターは、「試合後のロッカールームでは『エリックはお叱りを受けるぞ』という声もあった。それまで彼はやられたことがなかったから、我々は面白くなると思ったよ」と話し、こう続けている。
「監督が入ってきた時、エリックはすでに着替えて隅に座っていた。試合は1-1に終わり、監督は何人かの選手に怒った。そして次にエリックのほうを向いた。我々はみんな思ったよ。『きたぞ』ってね。
だが、ただ彼のことを見て言ったセリフは、『エリック、ああいうことはしちゃいけないぞ』だけだった。エリックに対するお叱りはそれがすべてだった。本当におかしかったよ」
『TalkSPORT』は、フランス人であることを揶揄されたことに激怒したカントナが「サッカー界から人種差別を文字通り蹴り出そうとしたことを広く称賛された」と伝えた。
カントナがのちに「良い瞬間はたくさんあったが、気に入っているのはフーリガンを蹴った時だ」と話したことも紹介している。
武勇伝には事欠かない。
オセールとプロ契約を結ぶと、さっそくチームメートのブルーノ・マルティニの顔面をパンチして罰金を科されている。
88年にはナントのミシェル・ザカリアンに危険なタックルをして出場停止3カ月間、危険な「タックル」というより正真正銘の跳び蹴りだった。
フランス史上最高額の移籍金でマルセイユに移籍してからも問題行動は変わらず、交代に怒ってボールを客席に蹴り込みユニフォームを投げ捨てて、クラブから出場停止1カ月。
フランス代表でもアンリ・ミシェル監督をテレビカメラの前で侮辱して国際試合出場停止1年間。
手を焼いたマルセイユからの貸し出し先のモンペリエではチームメートにスパイクを投げつけて活動禁止10日間。
ニームに移籍すると主審の判定に不服でボールを投げつけて出場停止1カ月、その聴聞会で委員に「バカ」と言って2カ月に加算された。
さらに代表では当時監督であったアンリ・ミシェルに暴言を吐いたことにより、代表を追放される。
89年、フランス代表監督にプラティニが就任すると、カントナは代表に復帰。
当時フランス国内では擁護してくれる人物がいないほどの問題人物ではあったが、プラティニは才能を非常に高く評価し、気難しい性格を理解していた。
代表ではパパンと攻撃陣を形成し、圧倒的なパフォーマンスを見せる。
引退後は俳優として主に映画に出演しており、1998年にはケイト・ブランシェット主演の映画『エリザベス』に出演し、2009年には『エリックを探して』に本人役で出演するなどの活躍をしている。
2010年には妻であるラシダ・ブラクニが指揮を執る舞台『Face au paradis』で舞台俳優デビューを飾った。
プレースタイル
188センチの長身だが俊敏でボールコントロールは柔らかい。
猫のようにしなやかで、虎のパワーを持つアタッカーだった。
空中戦に強くボレーも抜群にうまい。
お気に入りはファーサイド。
全体練習とは別に個人練習を欠かさなかった。
強靭な肉体とテクニックを兼ね備え、創造性溢れるプレーで見る者を魅了する。
アシストからフィニッシュまで攻撃に関しては完璧な能力を持っており、1人で試合を決めてしまう能力の持ち主。
しかし超強烈なパーソナリティの持ち主で、様々なトラブルを起こし続けてきた。
サッカー界でも数少ないカリスマ性を持った選手と言える。
プレースタイルは豪快かつ繊細、絶妙のトラップから豪快なシュートを放つ。
また、ヘディングからも多くのゴールを挙げている。
そして、特筆すべきは非常に柔らかいタッチから出されるパスである。
チップキックを得意としており、その意表を突いたパスは相手DFを混乱に陥れた。