概略
国籍 | ![]() |
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出身地 | ![]() 東京府東京市本所区 (現:東京都墨田区) |
生年月日 | 1940年5月20日(80歳) |
身長 体重 |
177 cm 79 kg |
ポジションは一塁手(ファースト)、右翼手(ライト)。
右投右打。
愛称は「世界の王」「ワンちゃん」。
史上3人目の三冠王達成者。
世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、読売ジャイアンツのV9に貢献した。
また、シーズン四球(158個)、シーズン敬遠(45回)、シーズン出塁率(.532)、シーズンOPS(1.293)、通算得点(1967点)、通算塁打(5862塁打)、通算打点(2170打点)、通算四球(2390個)、通算敬遠(427回)、通算出塁率(.446)、通算長打率(.634)、通算OPS(1.080)の日本記録保持者。
「一本足打法(世界のフラミンゴ)」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打ち立てるなど、ON砲として並び称された長嶋茂雄とともに、巨人の「V9」時代の顔として国民的人気を誇った。
王の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本は日本プロ野球記録であり、ハンク・アーロンが保持していた当時のメジャーリーグ通算本塁打記録の755本塁打を抜いた事で知られるほか、数々の日本プロ野球記録を保持する。
現在はソフトバンク球団取締役会長終身GM、日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問、読売巨人軍OB会顧問(2014年まで会長)、日本プロ野球名球会顧問、世界少年野球大会を主催する世界少年野球推進財団理事長、外務省より委嘱の野球特別大使、「ふるさと清掃運動会」実行委員長、九州国立博物館評議員などを務める。
中華民国二等景星勲章授与。
東京都名誉都民、墨田区名誉区民、目黒区名誉区民、福岡市名誉市民、宮崎市名誉市民。
国民栄誉賞受賞者第一号であり、2010年には文化功労者として顕彰された。
タイトル
- 首位打者:5回(1968年 – 1970年、1973年 – 1974年)※5回は歴代4位タイ、セ・リーグ歴代2位、3年連続はセ・リーグタイ記録
- 本塁打王:15回(1962年 – 1974年、1976年 – 1977年)※15回、13年連続はいずれも歴代最多
- 打点王:13回(1962年、1964年 – 1967年、1971年 – 1978年)※13回、8年連続はいずれも歴代最多
- 最多出塁数:12回(1967年 – 1978年)※1967年から表彰。12回、12年連続はいずれも歴代最多。出塁率は1962年 – 1979年まで18年連続でトップ。
- 最多安打(当時連盟表彰なし):3回(1969年、1970年、1973年)※1994年より表彰
表彰
- 最優秀選手:9回(1964年 – 1965年、1967年、1969年 – 1970年、1973年 – 1974年、1976年 – 1977年)※9回は歴代最多
- ベストナイン:18年連続18回(1962年 – 1979年)※回数はセ・リーグ最多、連続回数は歴代最多
- ダイヤモンドグラブ賞:9年連続9回(1972年 – 1980年)※1972年から表彰
- オールスターゲームMVP:3回(1963年 第2戦、1977年 第3戦、1979年 第1戦)
- 正力松太郎賞:4回(1977年、1999年、2003年、2006年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1963年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回(1972年)
- 日本シリーズ技能賞:6回(1965年、1966年、1968年、1970年、1971年、1973年)
- 月間MVP:1回(1976年5月)
- 野球殿堂競技者表彰(1994年)
- 国民栄誉賞(1977年)
- 日本プロスポーツ大賞
- 大賞:3回(1974年、1976年、1977年)
- 特別賞:1回(2008年)
- 功労賞:1回(2008年)
- 報知プロスポーツ大賞
- 大賞(野球部門 セ・リーグ):2回(1976年、1977年)
- 特別功労賞:1回(2000年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1991年)
- 毎日スポーツ人賞
- グランプリ(1999年)
- 感動賞(2006年)
- 文化賞(2008年)
- ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー(1999年)
- 早稲田大学推薦校友(2000年)
- 中華民国三等景星勲章(2001年)
- 朝日スポーツ賞(2006年)
- 福岡県 栄誉賞(2006年)
- 福岡市スポーツ栄誉賞(2006年)
- 福岡県 県民栄誉賞(2008年)
- 名誉都民(2019年)
- 中華民国二等景星勲章(2009年)
- 文化功労者(2010年)
- 早稲田大学スポーツ功労者(2011年)
- 台湾野球殿堂 競技部門(2015年)
- ゆうもあ大賞(2018年)
経歴
- 早稲田大学系属早稲田実業学校高等部
- 読売ジャイアンツ (1959 – 1980)
1962年のシーズン開幕戦(4月7日、対阪神)で川上は前年の日本シリーズに続き、公式戦で初めて22歳の王を4番で起用した。
長嶋が出塁して王の長打で得点することを川上は期待していたが、開幕してから3ヶ月経った時点では本塁打9本という成績で、6月後半は極度の不振に陥っていた。
この年本塁打38本・打点85で初めて本塁打王と打点王を獲得。
以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で本塁打822本を記録した。
翌年1963年、シーズンの最初から一本足打法で打ちまくり、長嶋とのコンビが「ON砲」と呼ばれ始め、この巨人の二枚看板の大活躍でこのシーズンは2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズの優勝を果たした。
王はこの年初めて打率3割・本塁打40本を記録し、2年連続で本塁打王を獲得した。
1964年、この年、リーグ優勝は阪神で巨人は3位に終わった。
しかし、王はシーズン本塁打の新記録達成でリーグMVPに選ばれた。
翌1965年はシーズン中の怪我の影響で本塁打は42本に減少したが、4年連続の本塁打王、109打点で2年連続3度目の打点王を獲得。
打率はシーズン中盤まではトップを走っていたがまたもや江藤に逆転を許し2位だったが、2年連続のリーグMVPに選ばれた。
そして巨人は2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズ優勝を飾ったが、この年から1973年まで九連覇を実現する。
1966年、1967年はともに97試合で40号に到達するハイペースの本塁打量産を見せたが(1985年にランディ・バースがタイ記録を作ったが、現在も40号到達最速記録)、いずれもシーズン終盤にペースが落ち、記録更新には届かなかった。
しかも長嶋が1966年のシーズンは絶好調で打率で首位を走り、リーグMVPに選ばれた。
一方の王はこのシーズン中盤で落ちてしまった。
1967年は打率トップで終盤まできたが、中日の中暁生にまたもや逆転を許してしまった。
ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。
以後、1970年まで3年連続首位打者を獲得した。
いずれも本塁打王との二冠だったが、打点王は3年連続で長嶋に阻まれ、三冠王には届かなかった。
しかし1969年、1970年は再び2年連続でMVPに選ばれた。
この時点でMVP獲得5回となり、4回の長嶋を上回った。
しかし1971年シーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。
打席に立つのが「怖かった」と振り返る程の不振で、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。
タイトルは10年連続の本塁打王を守り、打点王も奪還したが、6度目の首位打者となった長嶋にMVPは譲った。
一方、スランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。
しかし32歳の王は頑なに一本足打法を貫いてスランプを脱出し、9月20日には923グラム88センチの圧縮バットでついに公式戦7試合連続本塁打の記録を達成した。
この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を切ったものの、48本塁打と再び大台を突破し、当時の自己最多となる120打点を記録、復活を遂げた。
1973年、打率.355・51本塁打・114打点で史上3人目、自身初の三冠王を獲得。
翌1974年も打率.332・49本塁打・107打点で史上初の2年連続三冠王に輝いた。
王の通算本塁打が600本を越えた頃から、王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。
折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。
そのような中での1975年、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、さらには長嶋の引退でさらに王に他球団のマークが集中したことで、打率.285、33本塁打、96打点に終わり、打点王こそ守ったもののこの1冠のみに終わり、13年守り続けた本塁打王の座を阪神の田淵幸一に明け渡すこととなった。
この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。
引退した長嶋の後継として期待されたデーブ・ジョンソンが大不振で、他の主力選手もそろって不振に陥り、巨人は球団創設以来初の最下位となった。
しかし、記録への挑戦をモチベーションとして、さらに張本勲の加入による「OH砲」の形成とジョンソンの復調で攻撃の負担が軽減され、翌1976年は再び打棒が爆発。
64試合で30号に到達、オールスターゲームまでに32本塁打というハイペースで本塁打を量産した。
巨人は前年最下位から優勝を果たし、王は14回目の本塁打王を獲得した。
同年、アーロンが引退。
王の目標はアーロンの記録である755本に定まった。
1977年、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。
記録への挑戦が続いた1976年・1977年の2年はそれぞれ49本・50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、123打点、124打点(王の個人ベスト)で2年連続打点王と二冠、4度目の2年連続シーズンMVPに選ばれた。
4度の2年連続MVP、9度のMVP選出は現在もプロ野球記録である。
1978年、8月30日の大洋23回戦で6回裏に34号本塁打を打ち、プロ野球史上初の通算800号を達成。
9月22日の対中日24回戦で8回表に38号本塁打を打ち、プロ野球史上初の2000打点を記録。
8年連続となる打点王を確保するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡した。
1979年は、打率.285・33本塁打・81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。
16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980・89四球となり、衰えは隠せなかった。
エピソード
人柄・性格
真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。
葬儀に参列した金村義明の談として、『まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいた。
が、不在中に王からかかってきた電話に出た三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りした』というエピソードを披露している。
現役時代から道具を丁寧に扱うことで知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた。
律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。
キャンプ地や優勝旅行先に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。
1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。
これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。
なお、王は翌1961年以降、巨人の監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。
ただし、若い頃は門限破りの常連で銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。
王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。
ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。
また、若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。
ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜き続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。
ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。
ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。
澤宮優の著書『打撃投手』によると王は打撃投手にも非常に親切で、長年王専属の打撃投手を務めていた、同い年の峰国安が打撃投手を辞めて退団(大洋ホエールズコーチ就任)することになり、1974年に来日したハンク・アーロンとのホームラン競争での王への投球が引退の場となった。
ホームラン競争の後、峰が引退の記念に王のサインを頼んだところ王は「それなら一緒にアーロンのサインももらったらどうだ」と言い、アーロンの控え室に行き彼も快く応じて、王とアーロンのサインを寄せ書きで3枚もらったという。
この他にも、王は「俺は禁酒するから、車に入っているウィスキー、君が飲んでくれないか」と酒の入ったケースを渡したり、「これは正月の餅代といったらあれだけど僕の気持ちだ。今まで僕のために投げてくれてありがとう」と札束の入った封筒を渡したり、礼を尽くしたという。
王がプロ3年目に知り合った心臓病の野球少年に「僕もホームランをかっ飛ばす選手になるから、君も早く元気に野球をやれるように頑張れ」と励まし続けた。
しかし、その少年は薬石効なく13歳の若さでこの世を去ってしまう。
この少年の両親が東京都品川区の海徳寺に、息子を悼んでバットを持った地蔵を建立し、王も現役時代、シーズンが終わると毎年のようにこの地蔵にお参りしていた。
そうしたことからこの地蔵をいつしか「ホームラン地蔵」と呼ぶようになったという。
運動量が多いため一般人より食べる量が遥かに多いと言われるプロ野球選手の中でも、並外れた大食漢としてたいへん有名である。
選手時代はおやつ代わりにラーメンやカツ丼を平らげ、夜食に餃子を何人前も食べたりしていたという。
昼食が済むとすぐに夕食のことが気になるほど、食べることへの執着は凄いものであった。
監督時代は若手選手たちが飯を食べる様子を見て「なんだ、今の若いのは全然食べないんだな」と小食化を嘆いていたという。
同じく大食漢として知られる川上哲治が唯一敵わなかった相手が王で、食べ比べた際に「これはかなわん」と降参したという。
酒も非常に強く、数多く王が挑んだ飲み比べで負けた相手は大鵬ただ一人だったという。
胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。
国籍について
中華民国籍である。
かつて中国大陸の政権与党は中国国民党であり、国号を中華民国としていた。
当時、王を含めた中国内外に住む中国人(華僑・華人)はみな中華民国国籍であった。
中国国民党は第二次世界大戦後に中国共産党との覇権争いに敗れて中国大陸を脱出し、台湾・台北に事実上首都を遷すが、1971年には国連を脱退し、日本を含めた国際社会の多くの国々から国家承認を取り消された。
王は自らの知名度を政治的に利用されることを嫌い、その後においても世界中より正式な国家として承認された中華人民共和国や、自身が生まれ育った日本国の国籍に、利便性のために帰化することをよしとしなかったため、王は現在でも日本や中華人民共和国ではなく中華民国籍である。
王を「台湾人」と誤って表現されることがあるが、これは国籍上中華民国籍であることに加えて「台湾」と「中華民国」が混同されがちであることが誤解の理由である。
実際に王家の祖籍は中華人民共和国実効支配下の浙江省であり、台湾島とのゆかりは全くない。
ただし、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝の際、海外メディアから「あなたは日本人ですか?」と質問された王は、「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている。
アメリカでの評価
王の存在は、アメリカでも早くから評価されていた。1970年に行われた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では1試合2本塁打など活躍、親善試合でありながらMLBの投手が敬遠するという光景も見られた。
1976年には、アメリカの代表的スポーツ雑誌である「スポーツ・イラストレイテッド」に、日本プロ野球選手として初めての表紙を飾った。
その一方で日本では「世界の本塁打王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese homerun king Sadaharu Oh として紹介される。
日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。
2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる、「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。
プレースタイル
「一本足打法(世界のフラミンゴ)」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打ち立てた。
本塁打
- 通算本塁打: 868(世界記録)
- 通算満塁本塁打: 15(セ・リーグ記録、歴代2位)※2015年に埼玉西武ライオンズの中村剛也に抜かれるまで日本記録だった
- 通算サヨナラ本塁打: 8(セ・リーグタイ記録)
- 通算400本塁打到達スピード1位: 1422試合
- 通算450本塁打到達スピード1位: 1559試合
- 通算500本塁打到達スピード1位: 1723試合
- 通算550本塁打到達スピード1位: 1864試合
- 通算600本塁打到達スピード1位: 1983試合
- 通算650本塁打到達スピード1位: 2134試合
- シーズン50本塁打以上: 3回(1964年、1973年、1977年、日本記録)
- シーズン40本塁打以上: 8年連続含む13回(1963年 – 1970年、1972年 – 1974年、1976年 – 1977年、日本記録)
- シーズン30本塁打以上: 19年連続19回(1962年 – 1980年、日本記録、20本塁打以上でも日本記録)
- シーズン10本塁打以上: 21年連続21回(1960年 – 1980年、日本タイ記録)
- シーズン30本塁打到達スピード1位タイ: 64試合(1976年)
- シーズン40本塁打到達スピード1位タイ: 97試合(1966年、1967年)
- 7試合連続本塁打(1972年9月11日 – 9月20日、日本タイ記録)
- 4打席連続本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
- 1試合4本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
- 1試合3本塁打以上: 5回(セ・リーグ記録)
- 1試合2本塁打以上: 95回(日本記録)
- 年齢別シーズン最多本塁打数(22、23、24、26、27、34、36、37、38歳)
公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。
なお、雨天で試合途中にノーゲームで無効となった本塁打等、いわゆる「幻の本塁打」は1本もない。
1964年9月23日の対大洋戦(後楽園球場)で放った最後の55号本塁打は強い雨の中で打ったものだったが、東京オリンピックのために日程消化を急いでいた事情も手伝ってなんとか5回まで強行し試合成立させた結果、55号は幻になることを免れた。
なお、1966年の日米野球・対ドジャース戦では走者を追い越し、本塁打が取り消しとなっている。
本拠地であった後楽園球場で413本の本塁打を放っている。
この本数は球場別通算本塁打数の中で歴代1位であり、未だに破られていない。
打った本塁打は全て柵超え本塁打であり、ランニング本塁打は1本も打った事がない。
打率
- 通算安打: 2786(セ・リーグ記録)
- 通算最多出塁率: .446
- 通算最多出塁数: 5290個
- シーズン最多出塁数: 294個(1974年)
- シーズン最高出塁率: .532(1974年)
- シーズン打率3割以上: 13回(1963年 – 1970年、1973年 – 1974年、1976年 – 1978年、張本勲の16回に次ぐ史上2位、セ・リーグ記録)
- 8年連続シーズン打率3割(張本勲の9年連続に次ぐ史上2位、セ・リーグ記録)
- シーズン100安打以上: 21年連続21回(1960年 – 1980年、日本記録)
- 打率ベストテン入り: 16年連続含む17回(1960年、1962年 – 1977年、日本記録)
- 全イニング出場首位打者(1969年、史上初、他にイチロー(1995年)、松井秀喜(2001年)、西岡剛(2010年)、長谷川勇也(2013年)、秋山翔吾(2017年)が達成)
アベレージヒッターとしての評価も高く、打率3割以上を13回達成したのは日本歴代2位の記録であり首位打者5回獲得はセ・リーグ2位の記録でもある。
プロ通算打率は.301。
実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしく、引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。
また、ホームランの功績は言うまでもないが、打撃によっては4割も可能という定評は現役時代からあった。
また、四球数も非常に多かったことから出塁率も非常に高く、通算出塁率.446及び1974年に記録したシーズン出塁率.532は現在も破られていない。
2リーグ制以降でこの記録に最も近づいた記録は落合博満が1986年に記録した.487であり、実に.045の大差をもつけている。
また、2リーグ制以降のシーズン出塁率では1位 – 5位までを王が独占しており、ベスト10でも7個ランクインしている。
長打力・得点能力
- 通算得点: 1967(日本記録)
- 通算打点: 2170(日本記録)
- 通算塁打: 5862(日本記録)
- 通算犠飛: 100(セ・リーグ記録)
- 通算長打率: .634(4000打数以上で歴代1位)
- 通算RCWIN: 142.22(日本記録)
- シーズン最高OPS: 1.293(1974年)
- シーズン最高RC27:14.9825(1974年)
- シーズン最高RCWIN:10.68(1973年)
- シーズン最高XRWIN:9.70(1973年)
- シーズン100打点以上: 7年連続含む14回(1963年 – 1969年、1971年 – 1974年、1976年 – 1978年)
- 14回は日本記録。7年連続は、2010年にアレックス・ラミレスに抜かれるまでの31年間、日本記録だった。
メジャーリーグで広く普及している総合打撃指標であるOPS(出塁率+長打率)では1.080 (.446 + .634) という数字を残している。
OPSが10割を超える選手は数少ない。
日本プロ野球界で2000打数以上の選手でOPSが10割を超える打者は王、ランディ・バース (1.078)、ロベルト・ペタジーニ (1.051) の3人のみである。
4000打数以上の選手の中では王のみである(2位は松井秀喜の0.996)。
またシーズン記録でも日本プロ野球史上で10度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。
OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。
傑出度を示すRCWINのシーズン記録でも1位から9位までを王が独占している(10位は1986年のバース)。
打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。
四死球
- 通算四球: 2390(日本記録)
- 通算故意四球: 427(日本記録)
- シーズン故意四球: 45(1974年、日本記録)
- 通算死球: 114(歴代11位、左打者では稲葉篤紀に抜かれるまで歴代1位だった。現在は阿部慎之助、稲葉、松中信彦についで歴代4位)
- シーズン最多四球: 158個(1974年、日本記録)
- シーズン最多四死球: 166個(1974年、日本記録)
- 連続試合四球: 18(1970年、日本記録タイ)
- シーズン100四球以上: 16年連続16回(1964 – 1978年、日本記録)
通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけて堂々の1位。
王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(現在はバリー・ボンズが更新)。
シーズン四球数は歴代1位から4位(130個、2018年の丸佳浩とタイ)まで独占、歴代6位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び単独7位から12位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。
これらを含め、シーズン四球数歴代10傑のうち8、20傑のうち延べ13を王が独占している。
また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(連続打席四球歴代5位)。
なお、シーズン四球記録を達成した1974年は現在より13試合少ない130試合制での記録あり、現行の143試合制に換算すると174個となる。
さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。
この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。
イニング別では1回が一番多い。
シーズン敬遠数も歴代1位から3位までを独占している。
なお、満塁で敬遠されたことはない。
四死球が非常に多かったため、通算打席数11866はセ・リーグ記録だが、通算打数9260は衣笠祥雄(通算9404打数)に次いでセ・リーグ2位となっている。
守備
- シーズン守備機会: 1607(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン刺殺: 1521(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン守備機会連続無失策: 991(1980年4月25日 – 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録)
王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。
特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。
一塁手としての9年連続受賞は現在も歴代1位。
一塁手としての9回の受賞も1999年に駒田徳広に抜かれるまで1位だった。
現在は駒田に次いで歴代2位(2018年度シーズン終了時点)。
長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。
特にバント処理に関しては他球団からも警戒されており、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。
一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。
ただし現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数165も歴代1位である。
一塁手として通算2799試合・27743守備機会・25893刺殺・1685補殺・2317併殺を残しており、通算守備記録においても他の一塁手を圧倒している(すべて一塁手プロ野球歴代1位)。
ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の対大洋ホエールズ戦と、アーロンの記録を塗り替えた9月3日の対ヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。
公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。