概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1966年10月1日(53歳) | ||
出身地 | モンロビア | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 82kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は
「リベリアの怪人」の異名を持つ。
リベリアの伝説的プレイヤー。
バロンドールの規定が改定されて最初の年である1995年にFIFA最優秀選手賞と欧州最優秀選手賞を受賞。
ゴールキーパーを含めたほとんどのポジションをこなす。
高い身体能力とゴール決定力を誇り、ACミラン時代のラツィオ戦では一人スルーパスからゴールを決めたことも有名。
また、96~97シーズンの開幕戦で自陣ペナルティエリア付近から約80メートルを相手ゴール前まで単独でドリブル突破した上でゴールを決めた際、翌日の地元紙は「サン・シーロにUFO出現」の見出しを掲げた。
獲得タイトル
クラブ
- マイティ・バロール
- Liberian Premier League: 1985–86
- Liberian Cup: 1985–86
- インヴィジブル・イレブン
- Liberian Premier League: 1986–87
- モナコ
- Coupe de France: 1991
- パリ・サンジェルマン
- Ligue 1: 1993–94
- Coupe de France: 1992–93, 1994–95
- Coupe de la Ligue: 1995
- ACミラン
- Serie A: 1995–96, 1998–99
- チェルシー
- FA Cup: 1999–2000
代表
リベリア
- CSSA Nations Cup runner-up: 1987
個人
- African Footballer of the Year: 1989, 1994, 1995
- FIFA XI: 1991, 1996 (Reserve), 1997, 1998
- French Division 1 Foreign Player of the Year: 1990–91
- UEFA Champions League Top Scorer: 1994–95
- BBC African Footballer of the Year: 1995
- Onze d’Or: 1995
- Ballon d’Or: 1995
- FIFA World Player of the Year: 1995
- ESM Team of the Year: 1995–96
- Onze d’Argent: 1996
- FIFA Fair Play Award: 1996
- FIFA World Player of the Year – Silver award: 1996
- IFFHS African Player of the Century: 1996
- World Soccer’s 100 Greatest Footballers of All Time: 1999
- FIFA 100: 2004
- Arthur Ashe Courage Award 2004
- Golden Foot Legends Award: 2005
- A.C. Milan Hall of Fame
- IFFHS Legends
経歴
15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のサッカークラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとゴールキーパーとしてサッカーキャリアをスタートした。
すぐに得点をすることへ楽しさを覚え、フォワードへ転向、30試合に出場し31得点を記録。
チームを2部リーグに昇格させた。
その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍。
このクラブではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せ、カメルーンのスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たした。
1シーズンカメルーンで過ごしたウェアはその後フランスのASモナコへ移籍しそのポテンシャルを開花させ、1991年にフランスカップをもたらすと、翌年にはチームを欧州カップ・ウィナーズカップの決勝に導いた。
その後移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと、1995年には再びフランスカップをチームにもたらした。
1995年、アフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA(国際サッカー連盟)選出の世界年間最優秀選手賞も受賞。
最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを総なめにした。
マルコ・ファン・バステンの後釜として加入したACミランでは数多くのゴールをあげた。驚異的な身体能力を誇り、「リベリアの怪人」と呼ばれた。
その後は膝の怪我等も有り、99/00シーズン途中にチェルシーFCに移籍。以降マンチェスター・シティFC、マルセイユ、アル・ジャジーラと渡り歩き2002/2003シーズンをもって現役引退した。
リベリア代表としても活躍したが、FIFAワールドカップの本大会に出場することはできなかった。
特に2002年大会のアフリカ予選では1位と勝ち点1差で惜しくも出場を逃した。
エピソード
ウェアはキリスト教プロテスタントの家で生まれているが、彼は1997年にイスラム教に改宗し、名前も「ウスマン(Ousman)」と言うイスラム名で呼ばれ、10年間イスラム教徒としてイスラム教を学んだ。
しかし、再びプロテスタンティズム精神を求め、彼が当時在住していたフランスで2007年に「自分はもうイスラム教徒ではない」と語り、イスラム教徒をやめ、元のプロテスタントに戻った。
彼はキリスト教徒とイスラム教徒が平和になる事を願っており、彼らは一人だと言う。
2017年10月に彼はナイジェリアでナイジェリアの著名なキリスト教伝道師の預言者T・B・ジョシュアの主催の集会に出席した。
そこにはリベリアのプリンス・ジョンソン上院議員がおり、一緒に並んでジョシュアと握手を交わしている。
なおジョンソン上院議員はリベリア内戦の時、敵対するサミュエル・ドウ大統領を捕らえ殺害したが、その後、ナイジェリアに亡命し、キリスト教に目覚め、牧師となっており、2007年にジョシュアの仲介でジョンソンはドウの残された家族と和解している。
2017年の大統領選でジョンソン上院議員はウェア候補を支持しており、T・B・ジョシュア仲介のナイジェリアでのジョンソン上院議員との出会いが彼の2017年の大統領選への立候補に重要な影響を与えたと言われている。
サッカー選手引退後、現在はリベリアの大統領を勤めている。
3人の息子がおり、末子のティモシー・ウェアもプロサッカー選手であり、アメリカで生まれたことから年代別代表では兄同様にアメリカ代表でプレーしている。
内戦で傷ついた祖国リベリアの為にジョージ・ウェア基金を設立するなどしてリベリアのユニセフ親善大使も務めている(大統領立候補の際、規定により一時的に大使を辞めている)。
2008年1月、日本の福島県社会人リーグ3部西のバリエンテ郡山の総監督に就任したが、来日は就任会見時の1度のみで、シーズン開幕後に訪日することはなかった。
同クラブは不祥事のため2008年シーズンをもって運営会社が解散。
ウェアも事実上退任した。
プレースタイル
驚異的なフィジカルでのドリブル突破や空中戦などダイナミックなプレーで主導権を握り、独特の嗅覚でネットを揺らすのはもちろん、チャンスメーカーとしての資質も高いCFです。
超人的で圧倒的なスピードとフィジカルを持つ選手でした。
ロナウド(ブラジル)と同じくらい強烈なインパクト。
バルサ時代のロナウドはロブソン監督が『戦術はロナウド』と言いましたが、ウエアも『ミランの戦術はウエア』って感じでした。
バッジョとサビチェビッチが霞むほどでした。