フィリッポ・インザーギ

概略

国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 1973年8月9日(46歳)
出身地 ピアチェンツァ
身長 181cm
体重 74kg

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

愛称は「ピッポ」、「スーペル・ピッポ」。

 

UEFAクラブ主催大会の得点記録を保持している驚異の点取り屋。

 

典型的なワンタッチゴーラーで、常にオフサイドラインギリギリの飛び出しを狙う独特のプレースタイルを持つ。

 

2006年ドイツW杯で優勝したイタリア代表の一員。

 

獲得タイトル

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1991-1995 イタリアの旗 ピアチェンツァ 39 (15)
1992-1993 イタリアの旗 レッフェ (loan) 21 (13)
1993-1994 → イタリアの旗 エラス・ヴェローナ (loan) 36 (13)
1995-1996 イタリアの旗 パルマ 15 (2)
1996-1997 イタリアの旗 アタランタ 33 (24)
1997-2001 イタリアの旗 ユヴェントス 122 (58)
2001-2012 イタリアの旗 ACミラン 202 (73)
通算 466 (197)
代表歴
1993-1996 イタリアの旗 イタリア U-21 14 (3)
1997-2007 イタリアの旗 イタリア 57 (25)

 

クラブ

 

当時セリエBに所属していた ピアチェンツァの下部組織で本格的に競技生活をスタートさせ、1991年にトップチームへ昇格を果たす。

 

翌年に当時セリエC1に所属していたレッフェにレンタル移籍し、21試合に出場し13得点を記録。

 

その翌年に今度は当時セリエBに所属していたエラス・ヴェローナに渡り、36試合に出場し13得点を記録した。

 

この活躍で1994年に開催されたU-21の欧州選手権のイタリア代表にも選出され、後の代表でも共に戦うクリスティアン・ヴィエリやアレッサンドロ・デル・ピエロと出場している。

 

2クラブへのレンタル移籍を経て、1994-95シーズンにピアチェンツァに戻り、37試合に出場し15得点を記録。

 

クラブはセリエBを優勝しセリエAに昇格した。

 

この活躍によりパルマに引き抜かれ、ピアチェンツァを後にした。

 

当時のパルマはセリエAで優勝争いを繰り広げる強豪であり、攻撃陣にはコロンビアのファウスティーノ・アスプリージャ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、そしてジャンフランコ・ゾラがおり、1995-96シーズンは完全に控えに回り、途中出場で15試合に出場して2得点を記録するのみであった。

 

またシーズン終盤には足首の骨を骨折して、ベンチにも座れない日々が続いた。

 

1995-96シーズン終了後にはパルマから放出され、奇しくもセリエAデビューを飾った際の対戦相手、アタランタに移籍した。

 

活躍の場を与えられたインザーギは、シーズン序盤から得点を着実に重ねチームを牽引、リーグ最多の24得点を挙げ、セリエAの得点王となった。

 

アタランタBCでの活躍により、予てから入団を熱望していたユヴェントスに(推定)移籍金200億リラ、(推定)年俸20億リラ、5年契約で入団。当時のユヴェントスのエースはアレッサンドロ・デル・ピエロ、そしてクリスティアン・ヴィエリとアレン・ボクシッチがいたが、後者の2人がインザーギと入れ代わりで退団し、当然デル・ピエロとインザーギの2トップが形成された。

 

迎えた1997-98シーズン、開幕当初はチーム自体が波に乗れず、インザーギとデル・ピエロのコンビ(後に「デル・ピッポ」と評される)は、前シーズンまで所属したヴィエリ、ボクシッチの2人に比べてCFとしての重厚感の乏しさを指摘される一幕もあったが、インザーギは18得点を記録し(デル・ピエロは21得点)、またジネディーヌ・ジダンの活躍もあり、結果的にユヴェントスはリーグ2連覇を達成した。

 

1998-99シーズン、W杯出場選手の疲労からチームは低調が続き、インザーギ自身も前シーズンの終わり頃から抱えていた内転筋の炎症に悩まされ、またデル・ピエロが長期離脱を余儀なくされ、更に年明けに当時ローマの指揮を執っていたズデネク・ゼーマンによるユヴェントスの選手を中心としたドーピング疑惑の告発により、インザーギ自身も参考人としてトリノ検事局で証言するなど、ごたごたシーズンの中でチームは6位の成績に終わった。

 

ユヴェントスがトレゼゲを獲得、そして彼がフィットしていくにつれ出場機会が減っていったため、2001年にACミランへ移籍金約27億円で移籍した。

 

2002-03シーズンはセリエAにおいてチームトップの17得点を挙げた。

 

またチャンピオンズリーグでは準々決勝アヤックス戦2ndレグにおいて、自らの先制ゴールをはじめとした全得点に絡む活躍を見せ、チームの6度目のビッグイヤー獲得に貢献した。

 

その後2シーズンは怪我に苦しみ、2004-05シーズンに至っては無得点に終わるなど、満足な活躍を見せられなかった。

 

2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節パレルモ戦にて、ブランクを感じさせないダイビングヘッドを決めてみせた。

 

やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入したアルベルト・ジラルディーノからレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。

 

この復活劇は当時のイタリア代表監督マルチェロ・リッピの目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。

 

またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16のバイエルン・ミュンヘン戦2ndレグ、準々決勝のリヨン戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。

 

しかし、準決勝直前に風邪をひきFCバルセロナ戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。

 

ちなみに、2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。

 

2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦レッドスター・ベオグラード戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。

 

しかし、チャンピオンズリーグ決勝リヴァプール戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。

 

チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せており、この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している

 

負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジを止められなかったと敗戦は認めた。

 

なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。

 

ちなみにファビオ・カンナヴァーロは最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ」と呟いたという。

 

2007年11月6日時点で予備予選を含むCLでは45ゴール、欧州カップでは97試合62ゴールを記録している。

 

欧州カップでは現役首位、過去を含めてもゲルト・ミュラーと並ぶ最多得点者であったが、2007年12月4日、チャンピオンズリーグ、グループステージ第6節(対セルティック戦)の後半25分にゴールを決め、ゲルト・ミュラーの持つ欧州カップ戦における最多得点記録を抜いた。

 

そしてFIFAクラブワールドカップ2007決勝ボカ・ジュニアーズ戦でも2得点で優勝に貢献。

 

CL、UEFAスーパーカップ、CWCと3つの決勝戦で5得点と大舞台での勝負強さを発揮して、2007年を実りのある年とした。

 

2007-08シーズンは怪我もあり欠場も多かったが、シーズン終盤には5試合連続ゴールを含む9ゴールを挙げた。

2009年3月15日、アウェーのシエーナ戦で2ゴールを決め、キャリア300ゴールを達成。

 

シルヴィオ・ピオラ(364)、ジュゼッペ・メアッツァ(338)、ロベルト・バッジョ(318)に次ぐイタリア人においては4番目の同記録達成者となった。

 

試合前日に背番号300INZAGHIというユニフォームを用意しており、それを使うこととなった。

 

2010年11月3日、ホームでのCLレアル・マドリード戦で2ゴールを決めたが、ゲルト・ミュラーとラウル・ゴンサレスが挙げた欧州カップ通算69得点を追い越す70得点目という歴代最多得点記録となった(現時点ではラウールがさらに追い抜いている)。

 

またミランにおいてはマルコ・ファン・バステンの記録124得点を追い抜く通算125得点の記録を打ち立てる得点となった。

 

キャリア300ゴール達成時のように、背番号70INZAGHIというユニフォームを用意してその喜びを示した。

 

対戦前にも彼を警戒するコメントを発していた敵将ジョゼ・モウリーニョからも祝福を受けた。

 

上記のゴールでキャリア315得点に達しロベルト・バッジョの記録が射程圏内に入った矢先の11日、パレルモ戦で負傷退場、そして左ひざの前十字靭帯及び外半月板の損傷により全治6-9ヶ月と診断された。

 

2012年、2011-12シーズンをもって10年以上在籍してきたミランを退団することを発表。

 

さらには現役引退を匂わす発言もした。

 

そしてミランでのラストイヤーの最終戦となるセリエA第38節のノヴァーラ戦に後半途中から出場。

 

同じく長年ミランを象徴する存在であり、同年限りでの退団が決まっていたアレッサンドロ・ネスタやクラレンス・セードルフらも出場する中、持ち前のDFラインの裏を取る動きから浮き球を胸トラップし、右足でジャンピングボレーを決め有終の美を飾った。

 

これが現役ラストゴールであり、この得点をアシストした浮き球パスを出したのはセードルフであった。

 

その後、7月24日に現役を引退することを正式表明。

 

代表

 

イタリア代表としては1997年6月8日にフランス・リヨンで行われたブラジルとの親善試合で代表デビューを飾り、1998 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2000、2002 FIFAワールドカップ、2006 FIFAワールドカップなどで代表に選出され、国際Aマッチ57試合に出場し25得点を記録した。

 

2004年の欧州選手権直前に負傷し、代表からは遠ざかっていたが、クラブで好調を維持した事もあり、2006年ワールドカップドイツ大会のイタリア代表に再び名を連ねる事となった。

 

そして、決勝トーナメント進出のかかったチェコ戦で後半42分にハーフライン手前でスルーパスを受け見事に抜け出すと、完全フリーの状態でペナルティエリアまで独走。

 

最後はキーパーのペトル・チェフをドリブルでかわし左足で流し込んでゴールを決め、W杯3回目の出場にしてついに初ゴールを決めた。

 

その後イタリア代表は、トーナメントを勝ち進み24年ぶりのワールドカップ優勝を決めた。

 

エピソード

フリーの時にボールがこないと「なんでくれないの!」というような大袈裟なパフォーマンスをする。

 

また、ゴールを決めた後の発狂したかのような形相と倒れ方は、そのまま死んでしまいそうな程の激しさを持つ。

 

練習中でのエピソードで面白いものがあるので紹介したい。

 

チームで紅白戦をしているときのことだ。

 

チームが守備をしているにもかかわらず、インザーギだけ前方の不自然なポジション取りをしていたため、コーチがインザーギに「ポジションを修正しろ!」とゲキを飛ばす。

 

すると、なんとその30秒後に得点を決めてしまった。というもの。

 

それ以来、コーチはインザーギに守備時のポジショニングについてうるさくいうのをやめたらしい。

 

インザーギはプレイボーイとしても知られ、よくイタリアのタブロイド紙を賑わせている。

 

ただし夜遊び好きとはいえ自己管理節制とも両立させており、長く活躍を続けているのもそのおかげだと話している。

 

実弟のシモーネ・インザーギもサッカー選手である。

 

インザーギは数字やランキングに非常にこだわる性格で、上記300ゴール時点での内訳でどのカテゴリーで何点取ったかを暗記しており、インタビューですらすらと答えてみせている。

 

そこで200ゴール目を決めた瞬間から300ゴールを目指していた、またロベルト・バッジョ越えも狙っているとも話している。

 

とてもスリムな体型であり、そのことを同僚であるジェンナーロ・ガットゥーゾに著書で、「いつもパスタにパルメザンチーズをかけただけのパスタ・ビアンカとブレザオラ(塩漬けの牛肉の薄切り)を食べている。ダイエットにいいんだろう」と言われていた。

 

子供の頃はリネカーが憧れの選手であった。

 

セリエAでは9番を好んで付けているが、その頃はリネカーの10番を付けてたくさんのゴールを決めていたと話している。

 

プレースタイル

特別なフィジカルや目を見張る技術は持ち合わせていないが、「他のFWの選手と自分の違いは得点感覚」と自負するようにポジショニングセンスや飛び出しの巧さ、高い反応速度でピンポイントでボールに合わせゴールを奪う天性のゴールハンターである。

 

フィニッシュ以外は殆どプレーに携わらず、ラストパスにだけ抜群の反応を見せてワントラップでシュートを決めるその姿は、「ワンタッチの天才」と称されることもある。

 

相手ディフェンスのスペースを見付けて入り込む才能は現代サッカーを代表するストライカーとしては異端、異能とすら言われる。

 

プレーの特徴としては、DFラインのオフサイドトラップを破り、絶妙なタイミングでゴール前に飛び出して、ゴールキーパーとの1対1を冷静に決めるという得点パターンを持つ。

 

インザーギは自身のスタイルについて、一瞬の動きでゴールを奪うストライカーという点でパオロ・ロッシに似ていると分析しており、マーカーの視野から消える動きをすること、パサーとの呼吸を合わせることが重要だと述べている。

 

また、こぼれ球に反応して泥臭く押し込むゴールも多く、こうした特長を持つFWを指す”Alla Inzaghi”(インザーギ流、インザーギ風)という言葉もある。

 

美味しいところを掻っ攫うイメージが強いが、そのゴールは何本もの動き出しや、相手DFとの駆け引き小競り合いなどの「仕込み」あってのもので、「彼1人見ているだけでも面白い」という意見もあるほど。

 

実際名手揃いのACミランにおける試合中は常に周囲の動きを注視し、彼のスタイルを最大限に生かせるスペースを探っているようにも見える。

 

ファビオ・カンナヴァーロは自身が作成した優秀なフォワードベスト3にインザーギを挙げ、理由については「抜群に鼻(得点感覚)が利くからさ。ACミランというビッグクラブで長年にわたって得点を量産することは並大抵のことではない…。脱帽だよ」と語っている。

 

オリヴァー・カーンは「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのはロナウドで間違いないが、最も嫌だったとなるとインザーギだな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている。

 

マンチェスター・ユナイテッドFC元監督のアレックス・ファーガソンは、オフサイドラインを上手く突破するインザーギについて「オフサイドポジションで生まれた男」とコメントしている。

 

またヨハン・クライフは「彼はサッカーをまったくしていない。ただ常に的を射た場所にいるだけだ」、ゲルト・ミュラーは「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」とのコメントを残している。

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