概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1970年5月15日(50歳) | ||
出身地 | ホールン | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は左。
1990年代から2000年代前半にかけて活躍したオランダを代表するセンターバック。
アヤックスやバルセロナで活躍した。
獲得タイトル
クラブ
アヤックス
- Eredivisie (5): 1989–90, 1993–94, 1994–95, 1995–96, 1997–98
- KNVB Cup (2): 1992–93, 1997–98
- Johan Cruijff Shield (3): 1993, 1994, 1995
- UEFA Champions League: 1994–95
- UEFA Cup: 1991–92
- UEFA Super Cup: 1995
- Intercontinental Cup: 1995
バルセロナ
- La Liga: 1998–99
アル・ラーヤン
- Emir of Qatar Cup: 2005
代表
オランダ代表
- FIFA World Cup fourth place: 1998
個人
- ESM Team of the Year: 1995–96
- FIFA World Cup All-Star Team: 1998
- UEFA Euro Team of the Tournament: 2000
- Golden Foot: 2016, as football legend
経歴
クラブ
AFCアヤックスの下部組織出身であり、センターバックに転向する前は左サイドバックであった。
1988年に兄弟のロナルドとともにトップチーム昇格を果たし、1991-92シーズンにはUEFAカップ優勝、1994-95シーズンには史上初めて兄弟でUEFAチャンピオンズリーグでの優勝を成し遂げた。
ライカールトが在籍時は左サイドで主にプレー、ライカールト引退後の1995年からはその守備的戦術度の理解の高さから、守備的MF、あるいはリベロとしてプレー。
正確な左足の直接FKや、ミドルパスを武器に、AFCアヤックスの中心選手の一人として活躍し、AFCアヤックスにとって利益の見込めるオファーが兄弟の片方に来た場合、もし一方が残留するのならば一方は移籍できるという口約束をクラブと兄弟の間で結んでいたが、この一方ではUEFAチャンピオンズリーグで再び優勝するべく彼らふたりをチームに留めておくという固い約束を株主と交わしており、デ・ブール兄弟との口約束は取り消されたのであった。
このため、1998-99シーズンにはいったんは6年間の契約延長で合意していたが、契約を無効とする法的措置に成功した。
1999年1月、移籍金2200万ポンドでFCバルセロナへ移籍し、1998-99シーズンのリーグ優勝を経験した。
2001年夏にはキャプテンに就任したが、ドーピング検査で禁止薬物(筋肉増強剤ナンドロロン)が検出され、長期の出場停止処分を受けた。
同時期にはエドガー・ダーヴィッツもドーピング陽性反応が出て出場停止処分を受けている。
2003年夏にトルコ・シュペルリガのガラタサライSKに移籍し、2004年1月にスコティッシュ・プレミアリーグのレンジャーズFCに移籍した。
UEFA EURO 2004終了後に弟のロナルドとともにレンジャーズFCを退団し、カタールのアル・ラーヤンSCに移籍した。
2006年4月、現役引退を発表した。
代表
オランダ代表としては2度のFIFAワールドカップ (1994, 1998) と4度のUEFA欧州選手権 (1992, 1996, 2000, 2004) に出場した。
1990年9月6日、イタリア戦でオランダ代表デビューした。
1998 FIFAワールドカップ準々決勝のアルゼンチン戦ではアディショナルタイムにデニス・ベルカンプめがけて60ヤードのロングパスを通し、決勝点を演出した。
母国オランダとベルギーで共催されたUEFA EURO 2000では準決勝に進出したが、準決勝のイタリア戦では試合中のみならずPK戦でもキックをミスし、敗退の一因となった。
2003年3月29日、UEFA EURO 2004予選のチェコ戦 (1-1) でオランダ代表としては初となる通算100試合出場を達成した。
UEFA EURO 2004本大会にも出場したが、準々決勝のスウェーデン戦で負傷し、1-2で敗れた準決勝のポルトガル戦には出場できなかった。
大会終了後、DFヤープ・スタムとともに代表から引退した。
通算112試合に出場し、エドウィン・ファン・デル・サールに塗り替えられるまでは最多出場記録を保持していた。
エピソード
弟ロナルドはアタッカーとして、共にバルセロナに所属した経験も持ち、共に代表でもプレーした。
彼らはUEFA公式インスタグラムの中でフォロワーとのQ&Aを行い、以下のように答えていたという。
(アイドルは誰でしたか?)
フランク
「私にとってはルート・クロルだったね。彼は私と似た選手だった。アヤックスでプレーしていたよ」
ロナルド
「それは一人しかいないね。それほど年上というわけではないが、マルコ・ファン・バステンだった」
(これまでに戦った最も難しい相手は?)
フランク
「それはいつも自分だと言っているよ。完全に集中すれば、必ず相手を抑えこむことが出来た」
ロナルド
「フランコ・バレージだね。それほど大柄ではないが、とても賢かった」
フランクは現役引退後、2007年に古巣アヤックスのユースチームの監督に就任した。
UEFA EURO 2008終了後にオランダ代表監督にベルト・ファン・マルワイクが就任すると、フィリップ・コクーとともにオランダ代表のアシスタントコーチに就任し、2010 FIFAワールドカップで準優勝の結果を残した。
2010年まで代表のアシスタントコーチとアヤックスのユースチームの監督を兼任していたが、2010年12月にアヤックスのマルティン・ヨル監督が辞任したため、12月6日、ウィンターブレークまでの契約で臨時監督に就任した。
UEFAチャンピオンズリーグのACミラン戦(アウェー2-0)が初采配試合となったが、デミー・デ・ゼーウとトビー・アルデルヴァイレルトの得点で見事に勝利した。
2011年1月3日に正式にトップチームの監督に就任し、1月の移籍期間にFWルイス・スアレスやFWウルビー・エマヌエルソンなどの主力の放出を余儀なくさせられたが、クリスティアン・エリクセンやシーム・デ・ヨングなどの若手を抜擢してチーム状態を改善した。
リーグ戦では就任時の4位からじりじりと順位を挙げ、2位で最終節を迎えると、首位FCトゥウェンテとの直接対決となった最終節に3-1で勝利し、「こんなに素晴らしい誕生日プレゼントは期待していなかったよ」と語って41歳の誕生日に成し遂げた7シーズンぶりのリーグ優勝を祝った。
2016年8月9日、退任したロベルト・マンチーニの後任として、インテルナツィオナーレ・ミラノの監督に就任。
9月18日に行われたユヴェントスFCとのイタリアダービーでは4年ぶりの勝利をインテルにもたらしたが、その後はリーグ戦で3連敗を喫するなど低迷し、11月1日に解任された。
2017年6月26日、クリスタル・パレスFCの監督に3年契約で就任したが、9月11日に解任された。
リーグ開幕から僅か4試合後の出来事であり、長いプレミアリーグの歴史上でも最短の解任記録である。
またこの4試合は無得点に終わったため、リーグ戦無得点で解任された史上初めての監督となってしまった。
このリーグ戦の間に開催されたフットボールリーグカップ2回戦で2部のイプスウィッチ・タウン相手に2-1で下したのが唯一の勝利である。
2018年12月、ヘラルド・マルティーノの後任として、メジャーリーグサッカーのアトランタ・ユナイテッドFCの監督に就任した。
プレースタイル
守備技術に関してはワールドクラスの域は達している。
だがスピードのなさは弱点の一つだ。
しかし、その弱点を補えるほどの守備戦術の理解の高さを持ち合わせており、安定した守備からディフェンスラインを統率する。
カバーリングの上手さは特筆すべき点だ。
また守備的戦術度の理解の高さから、守備的MF、あるいはリベロとしてプレーもできる。
足元の技術が高く、正確な左足のキックを武器としており、左足の直接FKや、ミドルパスを武器に攻撃でも貢献できる。
後方からのロングフィードとFKはDFとは思えないレベルだった。
精度の高い左足のキックを武器に最終ラインからのゲームの組み立てに力を発揮した。
特にハーフライン付近から直接前線に飛ばすロングフィードは絶品で、攻撃陣の好機を度々演出した。