概略
籍 | ![]() |
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生年月日 | 1977年4月16日(43歳) | ||
出身地 | ヴィット | ||
身長 | 175cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ、左サイドハーフ、オフェンシブハーフ、センターハーフ)、フォワード(右ウイング、セカンドトップ)。
右利き。
愛称は「フレディ」。
90年代から2000年代にかけて活躍したスウェーデンを代表するアタッカー。
無敗優勝を成し遂げたインビジブルズのアーセナルのメンバーの一人。
下着モデルやトレードマークの赤毛に染めたモヒカンなどプレー外でも人気を集めたスター選手。
獲得タイトル
クラブ
ハルムスタッド
- アルスヴェンスカン:1997
- スウェーデンカップ:1994–95
アーセナル
- プレミアリーグ:2001-02、2003-04
- FAカップ:2001-02、2002-03、2004-05
- FAチャリティーシールド:1999
シアトル・サウンダーズ
- USオープンカップ:2009
個人
- プレミアリーグ年間最優秀選手:2001–02
- 今月のプレミアリーグプレーヤー:2002年4月
- 10年のプレミアリーグ海外チーム:1992–93 – 2001–02
- ESMチームオブザイヤー:2001–02
- グールドボラン:2002、2006
- スウェーデンのミッドフィールダーオブザイヤー:1998、2001、2002、2003、2004、2005
- MLSベストイレブン:2009
- 今月のMLSプレーヤー:2009年10月
- Fotbollsgalan Folkets Lirare(「ファンの年間最優秀選手」):1998
経歴
代表歴 | |||
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1993 | ![]() |
4 | (0) |
1994 | ![]() |
8 | (1) |
1995-1998 | ![]() |
12 | (5) |
1998-2008 | ![]() |
75 | (14) |
クラブ
1989年、12歳の時に地元のクラブであるハルムスタッドBKの下部組織に加入し、1994年10月23日のAIKソルナ戦でトップチームデビューした。
1995年シーズンはリーグ戦31試合に出場して1得点を挙げ、スウェディッシュ・カップを制した。
1997年にはアルスヴェンスカン優勝を果たし、ハルムスタッドBKでは公式戦通算139試合に出場して16得点を記録した。
1998年、プレミアリーグのアーセナルFCに移籍。
移籍金300万ポンドは当時のスウェーデン人選手史上最高額であった。
途中出場したマンチェスター・ユナイテッドFC戦で初得点を決め、デビュー戦を3-0の勝利で飾った。
2001年のFAカップ決勝ではリヴァプールFCと対戦し、イングランド国外の選手として初めて同大会決勝での得点を記録したが、試合には敗れて準優勝に終わった。
2001-02シーズンは最高のコンディションを維持し、プレミアリーグとFAカップの2冠を達成した。
FAカップ決勝ではチェルシーFCと対戦し、史上初めて2年連続で同大会決勝での得点を記録した。
2005-06シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグで決勝に進出し、怪我を押してFCバルセロナとの試合に出場した。
2008年にはアーセナルFCのファンが選ぶベストプレーヤーの11位に選ばれた。
2007年7月23日、4年契約でウェストハム・ユナイテッドFCに移籍した。
2007-08シーズン開幕戦のマンチェスター・シティFC戦でデビューし、その試合ではキャプテンを務めた。
2008年2月9日のバーミンガム・シティFC戦で初得点を記録した。
2008年10月28日、MLSのシアトル・サウンダーズFCと契約した。
2010年7月30日、シカゴ・ファイアーにトレードされ、ロサンゼルス・ギャラクシー戦でデビューした。
リーグ戦15試合に出場し、2010年末のメジャーリーグサッカー閉幕を持ってシカゴ・ファイヤーを離れた。
トライアルを経て、2010年12月30日にスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックFCとシーズン終了までの契約を結ぶ。
2011年8月27日、清水エスパルスと契約したことがFIFA公式サイトなどで報道され、清水の早川巌会長が正式にユングベリの獲得を発表した。
2013年1月までの契約で、推定年俸は6000万円。
2012年2月14日、清水は怪我の治療の為に帰国中のユングベリとの契約を解除すると発表。
一度は現役引退を表明したが2014年10月から新たに始まったインディアン・スーパーリーグのムンバイ・シティFCにマーキングプレーヤーとして加入し3カ月間のみ現役復帰した。
代表
1997年1月24日、フロリダ州オーランドで行われたアメリカ戦でスウェーデン代表デビューした。
1998年5月28日、マルメで行われたデンマークとの親善試合で初得点を挙げた。
チームメイトのDFオロフ・メルベリとは犬猿の仲として有名であり、2002 FIFAワールドカップ前の合宿中には取っ組合いのケンカをした。
2002 FIFAワールドカップでは腰の故障で目立った活躍ができなかったが、2004年のUEFA EURO 2004は準々決勝まで全試合にフル出場した。
2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では、ズラタン・イブラヒモビッチ、ヘンリク・ラーションそしてリュングベリの3人でチームの3分の2のゴール数をたたきこみ、本大会出場に貢献した。
本大会では準々決勝で敗退したが、全試合に出場して1得点を決めている。
スウェーデン代表として最後の試合は2008年6月18日のUEFA EURO 2008グループリーグ・ロシア戦であった。
6月27日、10年に及ぶ代表生活から退くことを発表した。
エピソード
2007年よりカルバン・クラインの下着モデルを務めている。
同性からも人気があるサッカー選手であり、ゲイ雑誌のサッカー選手人気投票で何度も1位を獲得している。
しかし本人は異性愛者で、モデルの女性が恋人である。
ドイツ女性誌ブンテは2006年6月15日、ネット上で実施したセクシー選手アンケートの結果を発表し、スウェーデンMFフレドリク・リュングベリが1位に選ばれた。
精かんな顔つきは意外なところでも共感も呼び? オランダのゲイ雑誌も「ソソられるイレブン」の1人に選出した。
15日のパラグアイ戦では決勝ゴールを決める活躍を見せたが、サッカーファンだけでなく、女性や同性愛者の心もつかんだようだ。
世界中で何百万人が、胸を締め付けられただろう。
パラグアイ戦で決勝点を決めたリュングベリは、両手を広げて力強いガッツポーズを見せた。
屈託のない笑顔とのアンバランスさが、妙に印象的だ。
間もなくチームメートの手荒い祝福に押しつぶされた。
テレビの前で「その他大勢はどいて! 私のリュングベリが…」と、声を荒らげた人も少なくないはずだ。
「彼こそがW杯のセックス・ゴット(神)だ」。
ドイツのファッション誌ブンテはこんな見出しで、アンケート結果を発表した。
リュングベリは2位C・ロナウド(ポルトガル)、3位ベッカム(イングランド)デルピエロ(イタリア)を退け、42%という圧倒的な支持を獲得。
ロンドンでの買い物が趣味という女性誌らしいエピソードも紹介した。
「ビーフとイモの料理を作ってくれ、彼の嫌いな食後の皿洗いをしてくれ、(米女優)アンジェリーナ・ジョリーのようなルックスの女性はチャンスあり」。
とてつもなく高いハードルのように思えるが、恋する女心を刺激した。
だが、リュングベリが射止めたのは女性の心だけではなかったようだ。
オランダのゲイ雑誌ゲイクラントは、「最も美しく、セクシーでソソられるイレブン」の1人にリュングベリを選んだ。
02年の日韓共催大会は、モヒカン風に中央の赤毛を伸ばした「トサカ頭」で視線をさらった。
下着メーカーの広告で披露した肉体美は、男に恋する男のハートもガッチリつかんだ。
アーセナルFC所属時にはクラブカラーを模して赤く染め上げたモヒカンの髪型をしていた時期があり、頻繁に髪型を変えることでも知られていた。
母国スウェーデンでは、ラーションやイブラヒモビッチと並ぶ人気を有する国内屈指のスター選手である。
指導者時代
2016年7月、アーセナルアカデミーのU-15チーム監督に就任した。
2017年2月27日、VfLヴォルフスブルクの監督に就任したアンドリース・ヨンカーのアシスタントコーチを務めることが発表された。
2017年9月、ヨンカーの解任と共にリュングベリもチームを去ることとなった。
2018年6月12日、アーセナルはリュングベリがアーセナルU-23チームの監督としてチームに戻ってくることを発表した。
2019年6月5日、エメリ監督のアシスタントコーチとしてトップチームに昇格した。
2019年11月29日、成績不振によるエメリの監督解任と同時にリュングベリが暫定監督として指揮を執ることが発表された。
同年12月20日、ミケル・アルテタがアーセナルの監督に正式就任し、翌日のエヴァートンFC戦を最後に暫定監督としての役割を終えることが発表された。
同年12月24日、アシスタントコーチとしてチームに留まることが発表された。
2020年8月22日、アシスタントコーチを退任してアーセナルを離れることが発表された。
プレースタイル
俊足のドリブラー。
彼のプレースタイルはスピードを生かしたドリブルだ。
ボレーシュートも非常にうまく、大事なところで点を取れる決定力も兼ね備える。
中盤ならどこでもプレーでき、フォワードを務めることもできる。
スピードのある選手でフィジカルの強さ、運動量、加速力を武器とした攻撃的なスタイルを特徴とし、キャリア全盛期には欧州最高峰のアタッカーとも評された。
リュングベリのプレーは極めてトリッキー。
縦横無尽にピッチを切り裂き神出鬼没な動きと、スピーディーかつ絶妙な飛び出しはチームのパスワークに絶妙なアクセントを加えた。
敏捷性と抜群の飛び出しでわずかな隙をついてチャンスを演出する。
だが、彼がサポーターからリスペクトされた最大の理由は、派手な見た目とは裏腹の全力プレー、粘り強いプレーで仲間たちを勇気づけるひたむきさと不屈の闘志にあった。
その運動量の多さにも高い評価がある。
清水加入時には34歳であったが、走力について監督のゴトビは「清水の中でも一番速いのでは」と評したとされる。