概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1969年1月12日(51歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 182cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
「バルカンの黄金銃」の異名を持つ。
1990年代を代表するクラシカルなゲームメーカー。
ユーゴスラビアとクロアチアの代表選手。
1998年フランス・ワールドカップで3位を収めたクロアチア・チームの中心選手の一人だった。
レアル・マドリードやバルセロナなどスペインのビッグクラブにも在籍した。
獲得タイトル
クラブ
レッドスター・ベオグラード
- ユーゴスラビア・リーグ:1987-1988、1989-1990、1990-1991
- ユーゴスラビアカップ:1989–90
- UEFAチャンピオンズリーグ:1990–91
レアル・マドリード
- コパ・デル・レイ:1992–93
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1993
- コパ・イベロアメリカーナ:1994
ディナモザグレブ
- クロアチア・リーグ:1997-1998、1998-1999、1999-2000
- クロアチアサッカーカップ:1997–98
オリンピアリュブリャナ
- スロベニア・フットボールカップ:2002–03
代表
ユーゴスラビアU20
- FIFAワールドユース選手権:1987
ユーゴスラビアU21
- UEFA European Under-21 Championship準優勝:1990
クロアチア
- FIFAワールドカップ3位:1998
個人
- FIFAワールドユース選手権・ゴールデンボール賞:1987
- FIFAワールドカップ・ベストヤングプレーヤー:1990
- ユーゴスラビア年間最優秀選手:1990年
- ヴェチェルニリスト年間最優秀サッカー選手:1990、1997
- ブラヴォー賞:1991
- 1991 FIFAワールドプレーヤーオブザイヤー:4位
- 1991バロンドール:5位
- クロアチア年間最優秀選手:1997年
- フラニョブチャル州スポーツ賞(2):1997、1998
- PFAファーストディビジョン・チーム・オブ・ザ・イヤー:2001–02
- ポーツマスFCオールタイムXI
- Only non-British player to be voted into all-time best Portsmouth eleven
- 6th Zvezdina zvezda
- NKディナモザグレブ・オールタイムXI
経歴
代表歴 | |||
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1989-1991 | ![]() |
15 | (4) |
1993-2002 | ![]() |
49 | (10) |
クラブ
ユーゴスラビアからの出稼ぎ労働者の家庭の子供として当時の西ドイツで生まれ、1979年に帰国。
その後ディナモ・ザグレブのアカデミーへ入団しミロスラヴ・ブラジェビッチの指導を受けた。
1986-87シーズンにプロデビューを飾る。
87年のワールドユースでMVPに輝いたのをきっかけに、ユーゴスラビアの名門レッド・スターに引き抜かれる。
ここで当時レッド・スターの10番を背負っていたストイコビッチと共にプレーし成長していく。
90/91シーズンにはマルセイユに旅立ったストイコビッチのあとを継ぎ、ゲームメーカーとして活躍する。
この時のレッド・スターにはプロシネツキの他にサビチェビッチ、パンチェフ、ユーゴビッチ、ミハイロビッチ、ベロデディチなどが在籍しており、まさにタレントの宝庫と言えるチームであった。
レッドスターではリーグ優勝3回(1988年、1990年、1991年)、カップ優勝1回(1990年)。
1990-91シーズン、このシーズン、レッド・スターはヨーロッパチャンピオンカップを制する(決勝の相手はストイコビッチが所属していたマルセイユ)。
この活躍が認められ、91/92シーズンにはレアル・マドリードに移籍する。
当時のユーゴスラビアでは25歳以下の選手の国外移籍が認められていなかったため、最終的に欧州サッカー連盟(UEFA)の裁定に持ち込まれた末の移籍だった。
移籍1シーズン目は出場機会に恵まれず、2シーズン目はレギュラーとして活躍するが、当時、黄金時代を築いていたFCバルセロナには歯が立たなかった。
低迷していたチーム復権の希望を背負ったが、故障が続き、ファンの期待に応えることが出来なかった。
93/94シーズンには徐々に輝きを失って行く、そしてシーズン終了後にはオビエドに放出されてしまう。
しかし、放出されたオビエドでは見事な活躍を見せる。
レアル・マドリードを3-2で破るなど、30試合で5ゴールを挙げ、調子を取り戻した。
そしてこの活躍に目を付けたのが、新ドリームチームを作ろうとしていたFCバルセロナのクライフである。
95/96シーズンにFCバルセロナに移籍し活躍が期待されたが、結果を残すことはできなかった。(95/96シーズンにクライフは一気にメンバーを入れ替えて、チーム作りをするが失敗し、退任する)
96/97シーズン途中には出場機会を求めて、サラゴサに移籍する。
ここでまたもや見事に復活して大活躍を見せることに成功する。(中堅クラスのチームが向いてるのかな)
しかしスペインでの生活に嫌気が差したのか、翌シーズン母国クロアチアのクロアチア・ザグレブに移籍する。(ここではカズとプレーしている)
ここで3シーズンプレーした後、国内の別のチームに移り、その後ベルギー、イングランド、スロベニアのチームを転々とする。
03/04シーズンには再びクロアチア戻りNKザグレブでプレーし、このシーズンを最後に現役を引退する。
代表
ユーゴスラビアU-20代表として挑んだ1987年の1987 FIFAワールドユース選手権では、ダボル・シュケルやズボニミール・ボバンらと共に優勝に貢献、準々決勝のブラジル戦では決勝点を決めるなどの活躍を見せた。
累積警告により決勝戦の西ドイツ戦は欠場となったが、大会MVPに輝くなど早くから才能を発揮していた。
ユーゴスラビア代表としては1989年にデビュー。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では1次リーグ第3戦のUAE戦で1得点を記録する活躍などで同国のベスト8進出に貢献した。
選手としてキャリアの絶頂期にあったが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴いクロアチア国籍を選択したため、UEFA EURO ’92やワールドカップ・アメリカ大会などの主要国際大会からは遠ざかることになった。
ユーゴスラビア代表での最終成績は15試合4得点。
クロアチア代表としては1993年にデビュー。
シュケルやボバンらと共に独立後初めて出場した1996年のUEFA EURO ’96ではベスト8進出。
1998年のワールドカップ・フランス大会では1次リーグジャマイカ戦と3位決定戦のオランダ戦で得点を決める(ジャマイカ戦は異なる2ヶ国の代表として得点した初のケースとなった)活躍などで3位入賞に貢献、クラブでは度重なる怪我で活躍出来なかったが、この大会での活躍で再度名声を取り戻した。
2002年のワールドカップ・日韓大会にも出場するなど、クロアチア代表として国際Aマッチ49試合に出場し10得点を記録した。
エピソード
けっこう変わり者だったらしい。
ひと昔前のサッカーに合う選手だと思います。
ヘビースモーカーとしても有名です。
またザグレブでは2007年から喫茶店も経営している。
1987年ワールドユースではMVPに輝き、スペインのレアル・マドリード、FCバルセロナ両ビッグクラブで10番を背負った。
得意とする足裏でボールを引く動作からのシュートが、銃のトリガーを引く様子と重なり、“バルカンの黄金銃”と呼ばれる。
指導者として
2006年からはクロアチア代表のアシスタントコーチに就任し、代表時代の同僚であるスラヴェン・ビリッチ監督を補佐。
2010年12月、古巣のレッドスター・ベオグラードの監督に就任したが、2012年8月に辞任。
2012年10月にトルコ・スュペル・リグのカイセリスポルの監督に就任した。
2014年12月、アゼルバイジャン代表監督に就任。
2018年1月4日、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督に就任。
プレースタイル
“東欧のブラジル”と呼ばれ、テクニシャン揃いであった旧ユーゴスラビア代表にあっても、№1のテクニシャン・ゲームメイカー。
足裏でのボール扱いを得意とし、キープ力の高さは群を抜く。
キック精度も高く、柔らかなループシュートやFKを得意とする。
鋭いドリブルと正確なパス、そして柔軟なテクニックを誇るクラシカルなゲームメーカー。
好不調の波が大きく、試合から消えてしまうことが多かった。
さらにヘビースモーカーであったため、スタミナ面に問題があった。
ゲームメーカーとしての才能は素晴らしいんだけど、スタミナが無い、そして調子が悪いとすぐに試合から消えてしまいます。
スタミナが無いのはヘビースモーカーなので自業自得ですが・・・・