カル・リプケン Jr

概略

Cal Ripken Montage
[MLB]2632試合連続出場鉄人カル・リプケン全ストーリー
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 メリーランド州ハーバー・デ・グレイス
生年月日 1960年8月24日(60歳)
身長
体重
193 cm
102.1 kg

ポジションは遊撃手(ショート)、三塁手(サード)。

 

右投げ右打ち。

 

愛称は「鉄人」。

 

1980年代から1990年代にかけて活躍した守備力に長けたショート。

 

歴代1位となる2632試合連続出場を記録した。

 

現役時代の全てをボルチモア・オリオールズで過ごした現代では数少ないフランチャイズ・プレイヤー。

 

表彰

 

  • シーズンMVP:2回(1983年、1991年)
  • 新人王:1982年
  • シルバースラッガー賞:8回(1983年 – 1986年、1989年、1991年、1993年、1994年)
  • ゴールドグラブ賞:2回(1991年、1992年)
  • ルー・ゲーリッグ賞:1992年
  • ロベルト・クレメンテ賞:1992年
  • アメリカ野球殿堂入り:2007年
  • コミッショナー特別表彰:2001年

 

記録

 

  • オールスターゲームMVP:2回(1991年、2001年)
  • 連続試合出場:2632(MLB歴代1位、1982年5月30日 – 1998年9月20日)
  • 連続試合フルイニング出場:903(MLB歴代1位、1982年6月5日 – 1987年9月14日)※NPBでは金本知憲が1492試合を記録している。
  • 通算犠飛:127(MLB歴代2位)
  • オールスターゲーム選出:19回(1983年 – 2001年)※1984年から1996年・2001年は遊撃手として、1997年から1999年は三塁手として選出
  • サイクル安打:1回(1984年5月6日)

 

経歴

MLB カル・リプケン Jr  2632試合連続出場
クラブ
  • ボルチモア・オリオールズ (1981 – 2001)

1978年のドラフトでボルチモア・オリオールズから2巡目に指名を受け入団。

 

1981年8月10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビューを果たした。

 

1982年シーズン当初は三塁手として出場していたが、7月1日にアール・ウィーバー監督が遊撃手にコンバート。

 

打率.264・28本塁打・93打点を記録し、アメリカンリーグ新人王を受賞した。

 

メジャー屈指の攻撃型遊撃手として1982年5月30日から1998年9月20日までの15年間に2632試合連続出場の大記録を成し遂げる。

 

この間に1982年6月5日から1987年9月14日まで8243イニング連続出場903試合連続フルイニング出場のMLB記録も作っている。

 

1983年は前年を上回る打率.318・27本塁打・102打点を記録。

 

211安打・47二塁打・121得点はリーグ1位となり、史上初めて新人王の翌年にア・リーグMVPに選出された

 

チームはワールドシリーズ進出を果たし、自身は打率.167と低迷したがチームは13年ぶりのワールドチャンピオンとなった。

 

1984年はリーグ新記録となる583補殺を記録し、5月6日にはサイクル安打を達成。

 

また、同年の日米野球のメンバーの一人として参加している。

 

1985年4月10日に左足首を捻り医師から2週間の休養が必要と宣告されたが次の日は試合がなく、12日から出場を続け連続試合の記録は途切れなかった。

 

1987年に父のカル・リプケン・シニアがオリオールズの監督に就任し、弟のビリー・リプケンがメジャー昇格を果たし二遊間を形成。

 

史上初めて親子3人が同一チームとなった。

1990年4月14日から7月27日かけて当時のMLB新記録となる95試合連続無失策を達成。

 

1991年には遊撃手として当時のリーグ新記録となる368塁打を記録し(1996年にアレックス・ロドリゲスが記録更新)、遊撃手としてア・リーグ史上初めて3割・30本塁打・100打点を達成。

 

また、この年のオールスターゲームではMVPとなり、前日に行われたホームランダービーでも優勝している。

 

自身2度目のMVPも受賞した。

 

1994年8月12日から1995年4月2日にかけての232日間に及ぶ長期ストライキの際には、オーナー側が代替選手で1995年シーズン開幕を強行させようとしたが、「もし、試合が行われたら記録が2009で途切れてしまう」と、ボルチモア市議会はオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズで代替選手によって試合が行われたらMLB機構に1試合1,000ドルの罰金を科す法案を成立させた。

 

そして、4月27日にシーズン公式戦は再開され、9月6日、ルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)の2130連続試合出場を56年ぶりに塗り替える、2131連続試合出場を達成した。

 

さらには翌1996年6月12日にはカンザスシティ・ロイヤルズ戦にて衣笠祥雄(広島)が持つ2215連続試合出場を越え、2216連続試合出場を達成した。

 

この試合には衣笠も2試合連続で来場しており、記録更新に立ち会った。

 

そして2006年4月9日には当時阪神タイガースに所属していた金本知憲が連続フルイニング出場を更新した時には映像で祝福をした。

 

1996年にデーブ・ジョンソン監督は若手有望株だったマニー・アレクサンダーを遊撃手に据えようと考え、リプケンを三塁手へ再コンバートしようとした。

 

結局、この案は約1週間しか続かなかったが、この間リプケンはアレクサンダーと1ヶ月以上も話をしなかったという。

 

アレクサンダーは翌1997年にニューヨーク・メッツへトレードされた。アレクサンダーはリプケンを恨み続け、背番号8を提示されたがリプケンと同じ番号であるという理由から拒否した。

 

1997年からは三塁手として出場を続けた。

 

1998年の本拠地最終戦となった9月20日、自ら欠場を申し出て連続試合の記録は2632で終わった。

 

1999年3月25日に父のシニアが亡くなり精神的に大きなショックを受け開幕を迎えた。

 

開幕から不調で打率.179の成績で4月19日に腰痛のため自身初の故障者リスト入りとなった。

 

故障から復帰して以降は調子を上げ、6月13日のアトランタ・ブレーブス戦で球団記録の1試合6安打を記録。

 

7月には年俸630万ドルで2000年の契約を延長した。

 

8月3日に再び腰痛でリスト入りとなり、2度の故障者リスト入りで出場試合数は86に留まり規定打席に達していないが、打率.340は自己最高となった。

 

2000年4月16日のミネソタ・ツインズ戦で3000本安打を達成。

 

2001年6月、この年限りでの現役引退を発表。最後のオールスターゲームにはファン投票で19回目の選出を果たし、アメリカンリーグの選出記録を更新した。

 

試合前に遊撃手のアレックス・ロドリゲスがリプケンとポジションを交代し、リプケンはオジー・スミスの持っていた遊撃手としての出場試合数14を更新した。

 

試合では本塁打を放ち、オールスターゲーム史上最年長でMVPを獲得した。

 

引退直前の9月9日、リプケンの背番号『8』はオリオールズの永久欠番に指定された。

 

引退試合はヤンキー・スタジアムの予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件のため同年10月6日に本拠地で公式戦最後戦で迎えた。

 

ファンへの挨拶では「今は第1章を終えたばかり。これから第2章が始まる」と述べた。

 

エピソード

 

Cal Ripken, Jr. 1991 MVP Season Highlights | Orioles' 2131 25th Anniversary Celebration

 

引退後

ボルチモア・オリオールズの永久欠番に2001年指定。

その後は故郷・メリーランド州アバディーンに球場を建設し、オリオールズ傘下のマイナーチームであるアバディーン・アイアンバーズを誘致。

 

現在はアイアンバーズの共同オーナーの1人として名を連ねる。

 

そして、妻ケリーと「ケリー&カル・リプケン基金」を設立して、チャリティ・イベントや募金活動、自身が破った前記録保持者の衣笠と共に少年野球の発展などに力を注ぎ、たびたびその指導のために日本にも来日している。

 

多くの組織に積極的に寄付も行っているが、その中には筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の研究への援助も含まれている。

 

引退した2001年にUSAトゥデイが満票でアメリカ野球殿堂入りすることができるかと特集が組まれ、殿堂入り有資格者となる2007年、満票ではなかったが537票(98.5%)もの高得票を集め初年度での殿堂入りを果たした。

 

得票率98.5%は歴代3位、野手としては当時史上最高の得票率である。

 

2018年4月23日に前記録保持者の衣笠が死去した折には、リプケンも「偉大な友人だった」と哀悼の意を表した。

 

プレースタイル

 

Cal Ripken, Jr. Rookie Year Highlights, 1982 Baltimore Orioles!

 

連続試合出場記録ばかりがクローズアップされるリプケンだが、通算3184安打・431本塁打・1695打点とバッティングでも優れた成績を残しており、カール・ヤストレムスキー以来のアメリカンリーグのみで3000本安打と400本塁打の記録を達成した。

 

ゴールドグラブ賞を2回受賞しており、大柄な体を生かしたミスのない職人肌のプレーはメジャー屈指であった。

 

通算守備率.979は、遊撃手のMLB歴代4位(天然芝を本拠地とする選手としては歴代1位)であり、1990年には、95試合連続無失策、シーズン守備率.996という当時の遊撃手のMLB新記録を樹立した。

 

こうした守備面での貢献が評価されたことで、打撃不振に陥った時にもリプケンが変わらず起用され続けたのである。

 

リプケン登場以前は遊撃手といえば、小柄な選手で打撃に少々難があったとしても守備力が優先されるのが当たり前のポジションだった。

 

しかし、リプケンの登場によって、後のデレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、ノマー・ガルシアパーラの1990年代三大遊撃手にもつながる、打撃にも優れた大型遊撃手時代が幕を開けることとなった。

 

一方で様々な賞を獲得しながらも、打撃のタイトルは一度も獲得をしたことはなかった。

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