バート・ブライレブン

概略

[MLB]カーブボールの芸術家バート・ブライレブン全ストーリー
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オランダの旗 オランダ
ユトレヒト州ゼイスト
生年月日 1951年4月6日(69歳)
身長
体重
190.5 cm
93.9 kg

 

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

右投げ右打ち。

 

絶妙なカーブの使い手として知られ、「カーブボールの芸術家」とも言われた。

 

オランダ出身の名選手。

 

史上最高級のカーブを駆使し、長きに渡り第一線で投げ続け歴代5位の3701奪三振を記録した名投手。

 

歴代5位の奪三振数を誇りながら、それ以外に目立つ記録やハイライトがないことから、殿堂入りに時間がかかりました。

 

それでも近年のセイバーメトリクスの分析の進歩もあり、その高い奪三振能力が評価され、無事殿堂入りとなりました。

 

タイトル

  • 最多奪三振:1回(1985年)

表彰

  • カムバック賞:1回(1989年)
  • アメリカ野球殿堂:2011年

記録

  • MLBオールスターゲーム出場:2回(1973年、1985年)

 

経歴

Bert Blyleven – Baseball Hall of Fame Biographies
クラブ
  • ミネソタ・ツインズ (1970 – 1976)
  • テキサス・レンジャーズ (1976 – 1977)
  • ピッツバーグ・パイレーツ (1978 – 1980)
  • クリーブランド・インディアンス (1981 – 1985)
  • ミネソタ・ツインズ (1985 – 1988)
  • カリフォルニア・エンゼルス (1989 – 1992)

 

オランダ本土で生まれ、移住したカリフォルニア州南部で育つ。

 

ロサンゼルス・ドジャースのファンで、サンディー・コーファックスの投げる試合をよく観戦していた。

 

1969年のドラフト会議でミネソタ・ツインズから指名され、入団。

 

一年足らずのマイナーキャリアを経て、1970年6月2日にメジャーに昇格し、6月5日に初登板。

 

この年10勝をあげてチームの地区優勝に貢献し、スポーティング・ニュース社の選ぶア・リーグ最優秀新人投手に選出された。

 

翌年以後も16勝、17勝、20勝、17勝、15勝と活躍。この頃が成績的には絶頂期だが、当時はファンやマスコミとの関係もいまひとつで、決して恵まれた時期ではなかったという。

 

1976年6月1日にテキサス・レンジャーズに移籍。この年はツインズ時代とあわせて13勝。

 

1977年9月22日のカリフォルニア・エンゼルス戦ではノーヒッターを達成し、14勝をあげた。

 

シーズン終盤に鼠径部損傷の故障を発症すると、その年の12月8日に、史上初の四球団が絡むトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。

 

1978年には14勝をあげ、1979年には12勝をあげて、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。

 

しかしチームに不安を持ち、1980年途中に移籍を希望し、かなわなければ引退すると発言した。

 

その年12月9日にクリーブランド・インディアンスに移籍。

 

50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮された1981年にも11勝をあげるが、1982年は肘の故障で4試合の登板に終わる。

 

1983年もその影響で苦しいシーズンを送るが、1984年には19勝7敗と、自己2番目に多い勝ち星を記録。

 

1985年シーズン途中に、古巣ツインズに9シーズンぶりに復帰すると、今度は大きな声援に迎えられた。

 

その年は両球団合計で17勝(16敗)をあげ、奪三振206はリーグ1位であった。

 

1982年に完成したツインズの本拠地メトロドームは打者に有利な球場で、球速の衰えたブライレブンには厳しく、1986年8月1日には、当時メジャー史上10人目の通算3000奪三振を達成し、シーズンでも17勝14敗を挙げたものの、50本のホームランを喫した。

 

1987年には15勝12敗の活躍でチームを地区優勝、リーグ優勝に導き、自身2度目のワールドシリーズに出場。

 

第2戦では勝利投手となる。

 

第5戦ではカージナルスが、シリーズでは1907年以来となる5盗塁を許し、ブライレブンは敗戦投手となるが、2勝3敗と追い込まれたチームは本拠地での第6戦、第7戦に連勝して、「Home Sweet Dome」での、そしてミネソタ移転後初のワールドチャンピオンを決めた。

 

1988年は被本塁打こそ21だが、防御率5.43と乱調で、10勝17敗に終わり、この年限りでカリフォルニア・エンゼルスに移籍。

 

初年度の1989年には17勝5敗、防御率2.73と活躍し、カムバック賞を受賞するが、1990年は8勝7敗。

 

回旋筋を痛めた1991年は1シーズン登板がなく、1992年に復帰するが8勝12敗に終わる。

 

あと13勝に迫った通算300勝に意欲を持ち、42歳で1993年のスプリング・トレーニングで古巣ツインズのトライアウトを受けるが契約には至らず、現役引退を発表した。

 

エピソード

 

1978年のパイレーツ時代に、ブレーブスのボブ・ホーナー(後のヤクルト)にメジャー初本塁打を打たれた。

 

また、1986年のツインズ時代には、当時インディアンスだったジェイ・ベルにメジャー初打席で、初球を本塁打された。

 

ダグアウトでチームメイトのスパイクの紐に火をつける「Hot foot」という悪戯を時折行っていた。

 

これによって、「Flying Dutchman」(空飛ぶオランダ人、20世紀初頭の名遊撃手ホーナス・ワグナーのニックネーム)ならぬ「Frying Dutchman」(焼くオランダ人)というあだ名をつけられた。

 

引退後

 

退後はツインズ専属のコメンテーター(解説者)を務めている。

 

2009年には、WBC オランダ代表の投手コーチを務めた。

 

通算287勝250敗、防御率3.31、奪三振3701と、アメリカ野球殿堂入りに相応しいと言える成績を残し、1998年に殿堂入りのための全米記者協会による選考投票を受ける資格(得票率が75%を超えると殿堂入りとなる)を得たが、なかなか殿堂入りを果たせなかった。

 

特に通算奪三振は歴代5位で、3000奪三振は2010年終了時点で15人しか達成者がおらず、ブライレブン以外に野球殿堂入りの資格を得た選手は全て殿堂入りを果たしていた。

 

2010年の記者投票の得票率は74.2%で、わずかな差で殿堂入りを逃した。

 

そして2011年の記者投票で79.7%の得票率を得て、14年目にしてようやく殿堂入りを果たした。

 

殿堂のプレートはツインズを選び、1月27日、古巣ツインズはブライレブンの殿堂入りと功績を讃え、在籍中に着けていた背番号『28』を永久欠番に指定することを発表し、同年7月16日に欠番表彰式が行われた。

 

2013年には前回大会に続いてWBC オランダ代表の投手コーチを務め、ベスト4進出に貢献。

 

2016年12月2日に第4回WBCのオランダ代表コーチを務めることが発表された。

 

プレースタイル

 

カーブの名手で歴代5位の3701奪三振を記録した。

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