ボブ・フェラー

概略

[MLB]世界最速ボブ・フェラー全ストーリー
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アイオワ州ヴァンメーター
生年月日 1918年11月3日
没年月日 2010年12月15日(92歳没)
身長
体重
6′ 0″ =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg

 

ポジションは投手(ピッチャー)。

 

右投げ右打ち。

 

ニックネームは「Heater from Van Meter」、「Rapid Robert」。

 

日本では「火の球投手」と呼ばれた。

 

フェラーは第二次世界大戦の兵役によるほぼ4シーズンの中断を挟んで通算266勝を挙げている。

 

獲得タイトル・表彰・記録

  • 投手三冠:1回(1940年)
  • 最多勝利:6回(1939年 – 1941年、1946年 – 1947年、1951年)(歴代2位タイ)
  • 最優秀防御率:1回(1940年)
  • 最多奪三振:7回(1938年 – 1941年、1946年 – 1948年])
  • オールスター出場:8回(1938年 – 1941年、1946年 – 1948年、1950年)
  • アメリカ野球殿堂入り(1962年)
  • 「スポーティング・ニュース」社の選ぶ「100人の偉大な野球選手」で第36位。
  • メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)

 

経歴

クラブ
  • クリーブランド・インディアンス (1936 – 1956)

 

息子のために農地の片隅にダイヤモンドを作り、発電機と電灯で簡素な「照明設備」を作るなど、まるで映画「フィールド・オブ・ドリームス」の主人公のような野球好きな父にピッチングを教わり、17歳でクリーブランド・インディアンスと契約した。

 

しかし当時のMLBは高校生との契約を禁じていたこともあり、球団はフェラーを一旦マイナーチームに所属させて隠そうとしたがすぐにインディアンスの作戦は発覚し、他球団の抗議もあって当時のケネソー・ランディスコミッショナーが登場し、インディアンスが罰金を支払うことで契約が認められた。

 

フェラーはその後、18シーズンに渡ってインディアンス一筋にプレーし通算266勝、2581奪三振をマークした。

 

アメリカンリーグの最多奪三振に輝くこと7回、ノーヒッター(無安打試合)達成3回のほか、1安打試合も12回達成している(MLB最多記録)。

 

1936年8月23日のセントルイス・ブラウンズ戦でわずか17歳でメジャーデビューを果たし、9月13日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では1試合17奪三振を記録。

 

1試合で年齢と同数(またはそれ以上)の三振を奪ったのは、この時のフェラーとケリー・ウッド(20歳で20奪三振)のみである。

 

オフに21歳となる1938年までに31勝をあげ、21歳の誕生日までにメジャーで(通算)20勝をあげた最初の投手となった。

 

1938年には初の二桁となる17勝をあげ、240奪三振で初の最多奪三振のタイトルに輝いた。

 

1939年には24勝9敗防御率2.85、246奪三振で最多勝・最多奪三振の二冠王に輝く。

 

1940年の開幕戦(対シカゴ・ホワイトソックス)ではMLB史上初(現時点で唯一)の開幕戦ノーヒットノーランを達成し、この年も27勝11敗防御率2.61、261奪三振で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手三冠を獲得した。

 

1941年も25勝13敗防御率3.15、260奪三振で3年連続最多勝利と4年連続最多奪三振をあげた。

 

だが、フェラーは日本軍による真珠湾攻撃の翌日、1941年12月8日(現地での日付)に海軍に志願入隊することとなった。

 

以後、フェラーは終戦までの4年間、戦艦アラバマで対空砲部隊のチーフとして従軍し、勲章も獲得した 。

 

多くの野球歴史家はフェラーについて、「フェラーはこのブランクがなければ350勝、3000奪三振を記録していただろう」と推測している。

 

1945年終盤になってインディアンスに復帰、フェラーの復帰後初登板となったニューヨーク・ヤンキース戦でも12奪三振の完投勝利を収めた。

 

この年は5勝3敗に終わったが、兵役中にスライダーを習得し、翌1946年には26勝15敗防御率2.18、奪三振348で最多勝利、最多奪三振のタイトルを獲得した。

 

36完投、10完封をあげ、4月30日のヤンキース戦では自身2度目のノーヒットノーランを達成している。

 

1948年には19勝15敗防御率3.56、255奪三振で最多奪三振を獲得。

 

チームのワールドシリーズ制覇に貢献した(以後、半世紀以上にわたってインディアンスはワールドチャンピオンから遠ざかっている。)。

 

1951年には自身6度目の最多勝利を獲得し、同年7月1日のデトロイト・タイガース戦では自身3度目のノーヒッター(1失点)を達成した。

 

フェラーはその後も活躍を続け、1950年代にはボブ・レモン(殿堂入り)、アーリー・ウィン(殿堂入り)、マイク・ガルシアと共に「ザ・ビッグ・フォー」と呼ばれた先発ローテーションを形成し、1954年には13勝を挙げてチームをワールドシリーズ出場に導いた。

 

これ以後、フェラーは精彩を欠きシーズン未勝利に終わった1956年限りで現役を引退した。

 

エピソード

Bob Feller Demonstrates Pitching

フェラーの現役時代にジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューについては否定的だった。

 

フェラーはロビンソンのメジャーデビューを宣伝目的であると考えており、「彼は力不足だ。良い打者になるには筋肉があまりにつきすぎている。もしも彼が白人であったら果たしてスカウトは彼を拾っただろうか」と述べている。

 

引退後

フェラーは1962年に有資格初年度で野球殿堂入りを果たした。

 

また、フェラーの背番号である『19』は引退した1956年12月にインディアンス初の永久欠番に指定された。

 

1977年に来日し、読売ジャイアンツの宮崎キャンプで臨時コーチを務めたこともあった。

 

2010年12月15日、白血病によりクリーブランドの病院で没した。

 

92歳没。

 

フェラーの逝去当時、クリーブランド・インディアンスの永久欠番選手が全て物故者となり、2017年にフランク・ロビンソンが欠番指定されるまで存命者が不在となった。

 

プレースタイル

 

フェラーは「火の玉投手」とあだ名されたことから分かるように、剛速球を投げていたことで知られていた。

 

MLBコミッショナー事務局がフェラーの速球を撮影して球速を割り出したところ、104マイルと計測されたという。

 

ちなみにフェラーはこのときスーツ姿、マウンドでなく平地で投げていた。

 

更に1946年のグリフィス・スタジアムで、アメリカ軍が協力しての当時最新の球速測定機を使った実験では、初速117.2マイル、終速98.6マイル、平均で時速107.9マイルを記録したという。

 

フェラーも自らの速球の速さには自信を持っていたようである。

 

1997年のワールドシリーズでロブ・ネンが104マイルを計時した時、フェラーは「それは私のチェンジアップの数字だよ」とコメントした。

 

一方サチェル・ペイジについて、「サチェルの投げるボールがファストボールなら、私の投げるボールはチェンジアップだよ」とたびたび語っている。

 

三振を多く獲った反面、四球も多く、また左足を大きく上げるフォームに起因して許した盗塁も多かった。

 

前述の17三振を奪った試合では、同時に9四球、1死球、暴投1を記録した上、盗塁9を許している。

 

「ただし、ボークはしなかった」と苦笑まじりにフェラーは弁明したという。

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