概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1968年8月22日(52歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 181cm | ||
体重 | 76kg |
Aleksandr Mostovoi
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
“ツァーリ(皇帝)”と呼ばれる程の存在感を放った攻撃的MF。
1990年代から2000年代にかけて活躍したロシアの皇帝。
特にセルタ・デ・ビーゴ時代の活躍で知られ、「真のプレーメーカー」と呼ばれた。
獲得タイトル
クラブ
- FCスパルタク・モスクワ
- ソビエト連邦サッカーリーグ 優勝 : 1987, 1989
- SLベンフィカ
- プリメイラ・リーガ 優勝 : 1993-94
- タッサ・デ・ポルトガル 優勝 : 1991-92
- セルタ・デ・ビーゴ
- UEFAインタートトカップ 優勝 : 2000
- コパ・デル・レイ 準優勝 : 2000-01
代表
- U-21ソビエト代表
- UEFA U-21欧州選手権 優勝 : 1990
- 35歳以上ロシア代表
- レジェンズ・カップ (Legends Cup) 優勝 : 2009
経歴
クラブ
1987年、ソビエト・セカンドリーグのFC Presnya Moscowからソビエト連邦屈指のビッグクラブであるFCスパルタク・モスクワに移籍した。
シャリモフ、ロビノフ、チェレンコフ、ダサエフらとともにいきなりリーグ制覇を果たし、注目を浴びる。
その後、スパルタク・モスクワで91シーズンまでプレーし国内のスター選手となった。
1987年と1989年にはソビエト連邦サッカーリーグ優勝を果たした。
1992年にはロシア人のVasili Kulkovやセルゲイ・ユランとともにポルトガル・プリメイラ・リーガのSLベンフィカに加入した。
契約の数ヶ月前には結婚によりポルトガル国籍を取得していたが、SLベンフィカではわずかな出場機会しか与えられなかった。
ルイ・コスタが同じポジションに居たため、活躍することはできなかったのだ。
1993年夏、フランス・リーグ・アンのSMカーンに移籍した。
1994年夏に移籍したRCストラスブールではダニエル・ジャンデュプー監督と再会し、輝かしい才能を見せつけた。
2006年にクラブが行った投票でモストボイは「プレーヤー・オブ・ザ・センチュリー」に選ばれている。
1996年、移籍金325万ペセタでスペイン・リーガ・エスパニョーラのセルタ・デ・ビーゴに移籍し、レアル・ベティス戦 (2-0) でデビューした。
創造的なプレーぶりや重要な得点を決めたことなどからビーゴのファンにカルト的な人気を博し、El Zar de Balaídos(バライドスの皇帝)の愛称で親しまれた。
1997-98シーズン、セルタは他にもレヴィヴォ、サンチェス、カデテ、マジーニョ、ミチェル・サルガド、イトという決してスターとは呼べないが、確かな実力を持つ選手が多く在籍していた。
そして、これらのタレントのがモストボイを中心にかみ合い、セルタは本領を発揮し始める。
モストボイに率いられた攻撃陣は抜群の破壊力を発揮し、多くの選手が多くのゴールを挙げた。
結果シーズン6位という素晴らしい結果でシーズンを終える。
98/99シーズンにはセルタはペネフ、マケレレという素晴らしいタレントを獲得し、さらに監督にはビクトール・フェルナンデスを招聘した。
フェルナンデス監督は、モストボイを中心に置いた超攻撃的サッカーをかかげシーズンに挑む。
シーズン開幕から、その攻撃的サッカーを機能し、スペインだけでなくヨーロッパ中から注目を浴び、ヨハン・クライフもそのサッカーを絶賛した。
もちろん結果をど返しした超攻撃的サッカーだけに、取りこぼしもありタイトルは獲得できなかった。
その後も、モストボイは躍進セルタの象徴として君臨。
セルタはリーグでも有数のチームに成長し、モストボイもリーグ屈指のタレントとなる。
ここ数年安定して5位から7位につけ、2000年には同じロシア人のヴァレリ・カルピンなどとともにUEFAインタートトカップで優勝した。
また、2002-03シーズンには、クロアチアの英雄ボバンが加入するが、司令塔の座を実力で守る。
開幕からチームは絶好調で、リーガ4位となり、クラブ念願のUEFAチャンピオンズリーグ出場権をもたらした。
しかし、2003-04シーズンは、チャンピオンズリーグこそグループリーグを突破しベスト16に進出するものの、リーガとチャンピオンズリーグの両立に苦しむ。
モストボイも例外ではなく、多くの試合をこなす中で調子を崩し、チームはシーズン途中で完全に崩壊状態となる。
結果18位でセグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。
2004年夏にセルタ・デ・ビーゴを退団してから8ヶ月間は所属クラブがなかったが、2005年3月上旬、2004-05シーズン終了までの契約でセグンダ・ディビシオンのデポルティーボ・アラベスと契約を結んだ。
カディスCF戦で78分に途中出場してデビューし、チーム唯一の得点を挙げたが、1-3で敗れた。
背中に慢性的な痛みを抱えていたため、わずか30日間の在籍・1試合の出場で現役引退を表明した。
代表
モストボイはソビエト連邦代表、独立国家共同体 (CIS) 代表、ロシア代表でプレーしたことがある。
ロシア代表としては1994 FIFAワールドカップ、UEFA EURO ’96、2002 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2004に出場しているが、チームの中心として期待された2002 FIFAワールドカップでは負傷の影響で1試合もプレー機会がなかった。
ロシア代表として、まず多くの主力選手が出場を辞退した1994年のW杯に参加。
1試合のみであるが出場している。
その後、頭角を現し主力となり、ロシア代表の中核を担うようになる。
1996年の欧州選手権ではロシア代表はダークホースに挙げられていたが、グループリーグでイタリア、ドイツ、チェコと同組になり、魔のグループの餌食となった。
準優勝したチェコとの対戦ではモストボイのゴールで引き分けとなっている。
その後、ロシア代表は低迷を続け大舞台から姿を消す。
2002年のW杯欧州予選ではトップ下ではなく、センターハーフとしてプレーし、見事にチームをまとめ上げ、ロシア代表を久々の大舞台に導く。
しかし、大会前に怪我をしてしまい、司令塔を失ったロシアはグループリーグで日本にも負け大会を去った。
ロシア代表はこの大会でもダークホースとして挙げられていたが、モストボイの穴は大きすぎたようである。
2004年の欧州選手権にも出場。
グループリーグ初戦のスペイン戦に敗れた後に、監督批判したということで、代表から追放されてしまった。
もちろん、この大会のロシア代表もモストボイを中心としていたため、司令塔を失ったチームは成す術なく大会を去った。
しかし、後にモストボイは監督批判はしていないということが判明。
発言は「監督の練習量が多いので、ベテランの自分はトップコンディションで試合になかなか挑む事は難しい」という趣旨の発言だったようで、特に監督を嫌っていたということもなかったようである。
その発言がマスコミにより歪曲されたというのが真実のようだ。
マスコミの報道では「ゲオルギー・ヤルツェフ監督は無能だ。何も解っていない」と歪曲されており、采配を批判して指揮官の怒りを買い、大会中にチームを追放されたのだ。
エピソード
かなり短気で審判には常に文句を言っていましたし、1人でいるときもブツブツ言っていました。
ジャッジに対して言いたいことを我慢せず、そのために警告を受ける場合も多い。
ワールドカップ予選の対スロベニア戦では審判がロシアに対するペナルティキックを宣告し、結局これが敗北につながったのだが、後にモストボイは「もう少しで審判を殴っちまうところだった」と告白している。
また3月の対エストニア親善試合で負けた後にも、チームメイトが「エストニアはいいチームだった」と認める中、一人だけ「エストニアなんて大したことねえよ。あいつら、パスのやり方もろくに知らない。2度のカウンターに2度の(ロシア側の)ミス、それだけの話さ」などとうそぶいていた(このためマスコミの一部からは批判を受けている)。
モストボイの母親であるリュドミラ・ヴァシリエヴナさんから一言。
「サーシャ(アレクサンドルの愛称)はとてもおとなしい子で、引っ込み思案なくらいでしたねえ。動物が大好きで、いつもかわいがっていました。あの子が悪さをしたり、荒れたりしたのは見たことがありません。今だって、昔と同じいい子ですよ。試合で警告を受けたり退場になったりするのが信じられません。普段は感情的になったりすることなんか、一度もありませんから。もちろん、サーシャは自己主張をすることができる子ですけどね」
多くの天才司令塔が不遇の選手人生を送っていた時代、長岐に渡りトップレベルで活躍したという珍しい存在です。
もちろん、モストボイの才能が素晴らしいというのもありますが、セルタという中堅クラブでプレーを続けたことが成功に繋がった理由だと思います。
もし、もしビッグクラブに移籍していれば、ハジ、プロシネツキ、デ・ラ・ペーニャ、リケルメのような流浪のサッカー人生を送ることとなっていたでしょう。
引退後
2005年にサッカー選手としてのキャリアを終えた後は、ビーチサッカーのロシア代表チームの選手として活躍した。
2005年の欧州選手権予選大会の開幕戦で、ビーチサッカーロシア代表がベルギーに5-2で勝利しましモストボイがハットトリックを記録。
2005年にホームで開催された欧州カップでは、日本代表として銀メダルを獲得した。
その後はテレビやラジオのコメンタリーに専門家として出演したり、インターネットの様々なポータルサイトで意見を述べたりしている。
プレースタイル
抜群のテクニックと想像力を持ち、ショートパス中心にゲームを組み立てると同時に多くのゴールを演出した。
しかし古いタイプの司令塔とは違い、周りも活かしながら、自らも活きることができ、彼が入った中盤は流れるような展開を見せるのが特徴。
また、ドリブルは他の選手にはマネできないような独特なもので、かなり変則的であり、一見たどたどしいように見えてしまうが、抜群の突破力を誇る。
トップ下だけではなく、サイドハーフやウイング、ストライカーのポジションもこなし決定力は高く、意外にもボランチとしての能力も高い。
天才選手によくいる気まぐれなタイプで、問題を起こすことが多いが、それもまたこの選手の魅力と言える。
こういうタイプの選手にしては珍しく、ゴール前のこぼれ玉に詰めるのが巧い選手でした。
彼は距離の長さにかかわらず精密なパスを行う力を持ち、前線に対して有効にボールを供給している。
ドリブルも巧みで、一人で複数の相手を抜き去ることもできる。
相手ペナルティエリア内で3、4人のディフェンダーに囲まれながらこれをかわし、ゴールに持ち込んだ映像を見たことがあるが、まさに神がかり的なテクニックだった。
また彼のフリーキックは、敵にとっては「ナイフのように鋭い切れ味」を持つものと恐れられ、代表でもチトフやイズマイロフと並んでフリーキックを任されることが多い。
こうした技術面のみならず、モストボイは戦局をよく見極め、ゲームを「読む」力も持っている。
プレイメイカーとしてはまさに打ってつけの存在と言えるだろう。