長嶋茂雄

概略

【プロ野球選手物語】ミスタープロ野球Ⅱ 長嶋茂雄
長嶋茂雄の伝説
昭和の群像 熱球伝説 長嶋茂雄 1
昭和の群像 熱球伝説 長嶋茂雄 2
昭和の群像 熱球伝説 長嶋茂雄 3
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)
生年月日 1936年2月20日(85歳)
身長
体重
178 cm
76 kg

 

ポジションは三塁手(サード)。

 

右投げ右打ち。

 

愛称は「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他。

 

巨人軍4番出場試合数最多記録保持者。

 

国民栄誉賞受賞者。

 

長きにわたり巨人の4番打者として活躍し、その闘志あふれるプレイと無類の勝負強さで多くの国民を熱狂させた。

 

同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、2人のバッティングは巨人のV9に貢献した。

 

日本のプロ野球において400本塁打・2,000安打の同時達成は大卒では史上初である。

 

NPB最多記録となる最多安打を10回獲得、セ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得。

 

セ・リーグ初の三塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

 

大舞台やチャンスに比類なき勝負強さを有していた。

 

タイトル

  • 首位打者:6回 (1959年 – 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。
  • 本塁打王:2回 (1958年、1961年)
  • 打点王:5回 (1958年、1963年、1968年 – 1970年)
  • 最多出塁数:3回(1959年 – 1961年)
  • 最多安打:10回 (1958年 – 1963年、1966年、1968年 – 1969年、1971年)※6年連続・通算10回は共に日本記録。当時連盟表彰なし。

表彰

  • 最優秀選手:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)※歴代2位タイ。
  • 新人王(1958年)
  • ベストナイン:17回(1958年 – 1974年)※入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
  • ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1972年、1973年)※設立は1972年、1972年は三塁手部門でのセ・リーグ史上初の受賞
  • 野球殿堂競技者表彰(1988年)
  • 日本シリーズMVP:4回 (1963年、1965年、1969年、1970年)※歴代1位。
  • 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1966年、1972年)
  • 日本シリーズ打撃賞:2回 (1969年、1970年)
  • 日本プロスポーツ大賞(1971年)
  • 正力松太郎賞(1994年)※監督として表彰
  • ベストドレッサー賞特別賞(1976年)
  • ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1983年)
  • 東京スポーツ映画大賞監督賞(1992年)
  • ナンバーMVP賞(1994年)
  • 毎日スポーツ人賞
    • ファン賞(1994年)
    • グランプリ(2001年)
  • 都民文化栄誉賞(1994年)
  • 新語・流行語大賞 年間大賞(1996年、「メークドラマ」)
  • 世界の名士録(1996年)
  • 報知プロスポーツ大賞特別功労賞:2回(2000年、2001年)
  • 朝日スポーツ賞(2001年)
  • 文化功労者(2005年)
  • ビートたけしのエンターテインメント賞50周年特別賞(2009年)
  • ビッグスポーツ賞特別功労賞(2013年)
  • 千葉県県民栄誉賞(2013年)
  • 佐倉市市民栄誉賞(2013年)
  • 国民栄誉賞(2013年)
  • 名誉都民(2014年)

記録

レギュラーシーズン

  • シーズン打率3割以上:11回(1958年 – 1961年、1963年 – 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ
  • シーズン150安打以上:11回(1958年 – 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録
  • 打率ベストテン入り:13回(1958年 – 1966年、1968年 – 1971年)※歴代4位、右打者歴代1位
  • シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグタイ記録
  • シーズン20本塁打到達スピード:42試合(1968年)※歴代4位、2001年にアレックス・カブレラ(38試合)に更新されるまでは歴代1位
  • 6年連続シーズン150安打以上(1958年 – 1963年)※歴代4位タイ、2003年に松井稼頭央に更新されるまでは歴代1位
  • 17年連続シーズン100安打以上(1958年 – 1974年)※歴代4位タイ、右打者歴代1位タイ。入団1年目からの記録としてはセ・リーグ記録(歴代では張本勲に次いで2位)
  • 2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 – 1961年)※日本タイ記録
  • 6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 – 9月15日、1961年8月16日 – 8月22日)※日本記録
  • 4試合連続三塁打(1960年5月8日 – 5月14日)※日本記録
  • シーズン守備機会連続無失策:214(1969年7月17日 – 10月9日)※三塁手当時の日本記録
  • 5年連続開幕戦本塁打(1970年 – 1974年)※日本記録
  • 通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 – 1974年) ※日本記録
  • 通算サヨナラ安打:14本 ※歴代4位タイ、セ・リーグ右打者記録
  • 通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年2本、1973年)※歴代6位タイ、セ・リーグ右打者記録
  • 通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録
  • 通算2000本安打到達スピード:1708試合(1971年5月25日)※歴代3位、右打者歴代2位

日本シリーズ

  • 通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 – 1972年)※歴代5位
  • 通算打率:.343(265打数91安打)※100打数以上では歴代2位、160打数以上では歴代1位
  • 通算打数:265 ※歴代1位
  • 通算得点:49 ※歴代2位
  • 通算安打:91 ※歴代1位
  • 通算二塁打:14 ※歴代1位
  • 通算三塁打:2 ※歴代5位タイ
  • 通算本塁打:25 ※歴代2位
  • 通算塁打:184 ※歴代1位
  • 通算長打:41 ※歴代1位
  • 通算打点:66 ※歴代1位
  • 通算四球:27 ※歴代5位
  • シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 – 1970年)※シリーズ記録
  • シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ
  • 連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録

オールスターゲーム

  • 出場:16回(1958年 – 1963年、1965年 – 1974年) ※1964年にもファン投票で選出されるも負傷により出場を辞退
  • プロ入りから引退まで現役17年連続ファン投票1位
  • 通算打率:.313(150打数47安打) ※100打数以上では歴代5位、130打数以上では歴代1位
  • 通算安打:47 ※歴代2位タイ
  • 通算二塁打:10 ※歴代2位
  • 通算四球:17 ※歴代2位
  • 通算盗塁:8 ※歴代3位

皇室観戦試合

  • 通算打率:.514(35打数18安打)※歴代1位
  • 通算本塁打:7 ※歴代1位

総合

  • 公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一

 

経歴

長嶋茂雄 超偉人伝説① 落合博満出演
長嶋茂雄 超偉人伝説② 落合博満出演
クラブ

 

  • 読売ジャイアンツ (1958 – 1974)

 

高校時代から社会人野球に進むと思われていた。

 

だがさまざまな球団が長嶋との接触を図っていたが、本命は南海ホークスとされていた。

 

そんな中、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。

 

背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」に決まった。

 

当初、川上哲治から「15」を勧められたが辞退している。

 

川上が勧めた理由は、「14」は沢村栄治、「16」は川上であるから、長嶋が「15」を付ければ「14」「15」「16」と3つ連続で永久欠番になるだろうと言う思いからだった。

 

長嶋が辞退した理由は「恐れ多い」とも「一桁がよかった」からだとも言われている。

 

契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万円。

 

後に大沢が語ったところによると、先に南海に入団していた大学の先輩でもある大沢と二人きりで話をし「どうしても巨人に行きたいんです」と大沢に頭を下げたという。

 

大沢は「この事がなかったら、今の長嶋茂雄は無かっただろう」と語っている。

 

しかし、この件もあってその後も大沢には頭が上がらなかったという。

 

長嶋の獲得に尽力していた、当時南海の監督であった鶴岡一人には、オープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪した。

 

この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

 

ルーキーの1958年は、オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。

 

4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。

 

国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。

 

また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

 

オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂、この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。

 

しかし、その後は長嶋も金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。

 

長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

 

デビュー2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放ち、8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

 

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された(記録はピッチャーゴロ)。

 

もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人としても巨人の選手としても、唯一のトリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)の記録を達成していた。

 

長嶋は翌9月20日の対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。

 

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。

 

打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。

 

しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

 

また、単打(83)、二塁打(34)もリーグ最多であったが、三塁打は田宮謙次郎に1本及ばず8本に終わり、「単打・二塁打・三塁打・本塁打のすべてでリーグ最多」という大記録を逃した(その後も達成者はなし)。

 

新人記録では、1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)以来2人目の全イニング出場(セ・リーグでは史上初。

 

その後も1961年の徳武定之(国鉄スワローズ)、2017年の源田壮亮(埼玉西武ライオンズ)のみ)。

 

また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。

 

そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録(※2019年に阪神タイガースの近本光司に破られるまで)、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。

 

1959年、6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合(対阪神戦)では、4対4で迎えた9回裏、先頭打者の長嶋が阪神の二番手、村山実からサヨナラ本塁打を放つ。

 

この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされ、また、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。

 

なお、同試合では当時ルーキーであった王貞治も本塁打を打っており、106回あったONアベック本塁打の第1号になった。

 

2年目となった同年シーズンは、シーズン途中まで、パリーグの葛城とともに3冠ペースだったが、終盤に本塁打と打点が伸びなかった。

 

2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。

 

本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。

 

1960年、打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。

 

1961年、打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者、初のセ・リーグMVPを獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。

 

打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。

 

1962年、打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。

 

同年から、長嶋と王貞治(本塁打王と打点王のタイトルを獲得)が巨人の中軸打者(多くは3番王・4番長嶋、両者のコンディションの違いにより打順入れ替えがあった)として永らく活躍するようになり、(ニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリス)になぞらえてON砲との呼称が定着した。

 

1963年、打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。

 

本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。

 

2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、2度目のセ・リーグMVPを受賞。

 

1964年、リーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。

 

1965年、王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。

 

同年から巨人のV9が始まる。

 

1966年、打率.344で5度目の首位打者を獲得。

 

26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。

 

3度目のセ・リーグMVPを受賞。

 

秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲って欲しい。2年間でいい」と正力松太郎社主に打診したが、「長嶋がいなくなると、日本の野球は10年おくれる」と断ったため、メジャー移籍は実現しなかった。

 

1967年、入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。

 

特に5月27日の中日戦では9回の巨人が3点を追う場面でONアベック砲を期待されていたところを監督の川上に代打を告げられて交代させられるなどの不遇もあった。

 

1968年、9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。

 

巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。

 

王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。

 

この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。

 

そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。

 

王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。

 

乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。

 

さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。

 

1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。

 

39本塁打は2019年に坂本勇人に抜かれるまで、巨人の生え抜き日本人右打者の1シーズン最多記録であった。

 

4度目のセ・リーグMVPを受賞。

 

1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。球界最高の年俸4560万円で契約更改した

 

1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

 

1971年、1月20日巨人軍13代目のキャプテンに就任。

 

5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2,000本安打を達成。

 

1,708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。

 

また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。

 

同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。

 

35歳での首位打者獲得は、当時川上哲治と並ぶNPB最年長記録だった(誕生日の関係で厳密には長嶋の方が上回る。1979年に大洋のフェリックス・ミヤーンが更新)。

 

34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。

 

なお、この年以降巨人の右打者の首位打者獲得は2009年にアレックス・ラミレスが、日本人右打者に限定すれば2011年に長野久義が獲得するまで非常に長い年数が経っていた。

 

シーズンオフの12月27日に翌シーズンよりコーチを兼任することが発表された。

 

5度目のセ・リーグMVPを受賞。

 

1972年、選手兼任コーチとして迎えたシーズン、リーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。

 

1973年、打率.269、20本塁打、76打点と成績が下降した。

 

南海ホークスとの日本シリーズは、右手薬指を骨折し欠場を余儀なくされた。

 

同年シーズン終了後、監督の川上より「生涯打率3割を切らないうちに引退したほうが良い」と引退を勧告されたが、それを拒否して翌年も現役を続けた。

 

1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。

 

翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝は脇に追いやられた。

 

引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。

 

また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った。

 

エピソード

昭和の群像 爆笑スポーツ伝 長嶋茂雄事件簿「忘れちゃった編」われらがチョーさん、やってくれました!
昭和の群像 爆笑スポーツ 長嶋茂雄事件簿 5 たけし・さんま大いに語る爆笑トーク。

引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という有名な言葉を残した。

 

この言葉は、しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されている。

 

人物像

 

長嶋は、ミスタータイガース(長嶋の憧れの野球選手である藤村富美男、及び長嶋のライバルである村山実の称号)に倣って、「ミスタージャイアンツ」という愛称が現役時代から広く使われている。

 

現役引退後には、すでに巨人だけでなくプロ野球を象徴する存在であるとの意図から、巨人ファン以外の野球ファンからもその功績を讃えられて、「ミスタープロ野球」、あるいは単に「ミスター」とも呼ばれるのが一般的になっている。

 

また、チームメイト等からは、長嶋の長を音読みした「チョーさん」の愛称で親しまれている。

 

この他、「ハリケーン」「燃える男」「皇室男」、高校時代は自身の出身地の郡名と、出身地近くの佐倉地区の名所の一つである印旛沼にちなんで「インバ」などの愛称もある。

 

自身の性格について長嶋は「セッカチですが、物事を放り出すことはありません。投げ出さずに一歩ずつコツコツ物事を続けるのは、習い性になっています。毎日少しでも物事を積み上げ、最後まであきらめない」と述べている。

 

座右の銘は「快打洗心」。

 

飛田穂洲の「一球入魂、快打洗心」から拝借したもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったが、監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていた。

 

立教大学監督の砂押邦信から教えられたMLB流の「個性の重視」「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方に影響を受け、野球人生を通じて周りの人を喜ばせ、自分をどう表現するかを常に考え続けた。

 

MLBのスーパースターであったジョー・ディマジオのファンであり、ディマジオのプレイスタイル、プロ意識から大いに影響を受けた。

 

好きな歴史上の人物は二宮尊徳(金次郎)で、長嶋家の庭には二宮金次郎の石像がある。

 

長嶋は「豪雨被害のニュースを新聞で読み、テレビで見て、溜息交じりで庭に目をやると金次郎が目に入る。その姿に奮い立つのです」と語っている。

 

1961年10月3日付朝日新聞の「わたしが記者なら」というインタビュー記事に以下のような一節があり、物議を醸した。

 

なんてったってボクら、保守党の方ですからね。社会党の天下になったら野球、野球っていってられるかどうか、分かりませんからねェ。(本気でそう思いこんでいるような調子)でも、これだけさかんになってれば、全然ダメになるってこともないですよ、ね?

 

常人には計り知れない独特の感覚を持ち、それにまつわる逸話が数多く持っている。

 

それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる。

 

他人の名前の記憶が不安定(仲の良い人でも忘れることがある一方、一度会っただけの人は覚えていたりする)だったり、諺の誤用や二重表現などをよくしたりと初聞では何を言ってるのかわからない事が多々ある。

 

ただし、会話自体よりボディ・ランゲージでコミュニケーションを取るタイプの人間でもある。

 

そのため、誰が見てもわかってしまう、意味のないブロックサイン(有名なものにバントのブロックサインを出した際、最後にバントの構えをしていた)を出してしまうことが時折あった。

 

1979年には対中日戦でナゴヤ球場に遠征した際、自身が出したサインがその日中部日本放送で解説を務めていた板東英二に尽く見破られ放送中に指摘されたこともあった。

 

また、その独特の感覚は選手時代や日常生活のみならず、引退後においても遺憾なく発揮し、第一次監督退任後の評論家時代にスランプに陥り電話越しにアドバイスを求めた掛布雅之に対し、また第二次監督退任後にはニューヨーク・ヤンキースに移籍していた松井秀喜に対しては、国際電話越しにその場でバットで素振りさせ、素振りの音を電話越しに聞いて打撃指導をしたことが有り、両者とも引退後に印象に残ったエピソードにこの電話越しの指導を挙げている。

 

長男・長嶋一茂はプロ野球選手からタレント、次女・長島三奈はスポーツキャスター、次男・長島正興は自動車レーサーから環境活動家。

 

一茂によると、家族6人そろって旅行も食事もしたことはなく、それが長嶋家にとっては普通だったという。

 

趣味・嗜好

 

多趣味であり、立教大学4年の時には淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。

 

そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。

 

特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。

 

なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた。

 

その他の趣味には読書(現役時代は歴史小説や戦記小説、監督時代は管理学の本や確率論の本など)、絵画鑑賞(モディリアーニを好む)、将棋など。将棋に関しては中原誠から名誉三段の免状を授与されているほか、1995年にはフジテレビの特別番組の企画で羽生善治と対談した際に、羽生から名誉五段の免状を授与された。

 

1997年春、当時NHKアナウンサーの有働由美子と会話した際、「『NHKニュースおはよう日本』(当時有働がメインキャスターを務めていた)をよく見ている」と話した。

 

渋谷に2003年まであった東急文化会館3階(現在は渋谷ヒカリエがある)には、長嶋茂雄が贔屓にする理容店・文化理髪室があった。当施設閉館後、文化理髪室は大田区北千束に移転。

 

店名は変わらず、長嶋も変わらず来店している。

 

演歌や歌謡曲が好きだった。

 

浪人時代に「長嶋茂雄を励ます会」が開催され長嶋のイメージから合唱団が童謡を中心に歌った。

 

ところが、長嶋はマイクを掴むと「ねぇ、『王将』歌えないの?」と言い出し、合唱団が困惑して「出来ない」とこたえると更に「じゃあ『悲しい酒』は?」とリクエストした。

 

村山実とのライバル関係

 

1959年6月25日の天覧試合でサヨナラホームランを放った長嶋であるが、このときのサヨナラホームランを打たれたのが当時阪神の大卒新人であり、後に2代目ミスタータイガースと呼ばれることになる村山実であった。

 

この天覧試合以降ふたりのライバル関係が始まったとされ、たびたびテレビなどのマスメディアでは「昭和の名勝負」などといわれることがある。

 

1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。

 

一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った。

 

村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。

 

長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。

 

2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。

 

長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。

 

村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。

 

2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。

 

村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。

 

サイン破りからサイン無しへ

 

いつ頃扱いが変わったのかは明らかにされていないが、1964年8月6日に起きた広岡達朗の試合途中帰宅事件(広岡の打席で長嶋がホームスチールを行い、それをサインプレーと勘違いした広岡が監督批判をした上に試合中にもかかわらずそのまま帰宅した事件)時以前には既に扱いが変わっていた。

 

広岡は後に自著『監督論』で、当時あのプレーはサインプレーだったと思い込んでいたこと、以前にも長嶋がホームスチールをしていて頭にきていたことなどを語り、長嶋の特別扱いの件にも触れている。

 

長嶋茂雄球場

 

1985年10月から日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれていたトライアスロンの国際大会のスターターを担当していた。

 

その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬公園野球場を、1991年に「長嶋茂雄球場」に改称して長嶋の業績を称えることになった。

 

更に、国民栄誉賞の受賞を記念して、佐倉市が市営岩名野球場を「長嶋茂雄記念岩名球場」とすることを発表し、2013年7月、新球場名の銘板お披露目式と、市民栄誉賞の表彰式が同地にて盛大に行われた。

 

2017年6月4日、リニューアルオープンした「長嶋茂雄記念岩名球場」で行われた2軍の巨人・ロッテ戦始球式に背番号3で登場。

 

長嶋ゲート

 

1980年に巨人軍監督を辞任したが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。

 

また閉場の際、選手時代に巨人軍の三塁手として活躍したことから同球場の三塁ベースも寄贈されている。

 

東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で3番ゲートは「長嶋ゲート」として復活した。

 

長嶋語録

 

会話中に「いわゆるひとつの・・・」というフレーズが入ることが多い。

 

日本語と英語が不自然に混じった、あるいは英語にしなくてもいい部分まで英語にしてしまう「ミスターイングリッシュ」も有名(例:「失敗は成功のマザー」、鯖のことを「さかなへんにブルー」)。

 

一説によれば、結婚後に家庭内で英語で会話していたからこのような話し方になったという

 

感覚を重視するが故に「パアーッと」「ダアーッと」「パーン」「パッ、サッ、タッ」「ブワァー」「ヒュッ」「スパーン」「ブン」「シュン」「ガッといく」などの擬音を多用するため、理解できない選手も少なくなくないが、引退してから長嶋の指導の意味が理解出来たと話す選手もいる。

 

これらの長嶋の独特なキャラクターはものまねの対象になりやすく、多くのお笑い芸人が長嶋のものまねをレパートリーに加えている。

 

特にプリティ長嶋は、長嶋に似ていたことがきっかけで芸能界入りした。

 

名球会でオーストラリアに行き、日系企業の赤井電機の野球チームを指導した。

 

ユニフォームにチーム名が「AKAI」と書かれているが、長嶋は1選手に「きみAKAI君かぁ。君も赤井君かぁ?赤井君多いな」と言い、周囲から「あのAKAIというチームなんですけど」と教えられ、恥ずかしかった長嶋は「ん?高木(守道)代われ」と逃げ出した。

 

名言

 

「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」

「監督の言うことを聞いちゃだめじゃないか」

「目に入る範囲がストライクゾーン」

 

プレースタイル

 

打撃

長嶋茂雄 ホームラン動画集

金田正一・村山実・権藤博・足立光宏・江夏豊・板東英二・稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。

 

権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった」と評しており、「王は打てるボールを確実に打つ。ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまで何とか打つというタイプではなかった」と王と対比しながら語っている。

 

江夏は「打席ごとに何故打たれたのか、何故打ち取れたのかが全く分からない」と長嶋について語っており、野村は長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。

 

極端とも言えるアウトステップが特徴だった。

 

長嶋の踏み出しでのアウトステップは、スイングの悪癖の例として解説者に批判されたこともあり、相手チームの守備陣から「顔の方向とまったく関係なく打球が飛ぶから守りにくい」と評されたこともあったという。

 

一方で腰と肩は開かずヘッドを高い位置に保ち、球を引き付けて左膝もギリギリまで踏ん張っていたため、アウトステップしながらも球を強くたたくことができた。

 

これについて川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。

 

長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。

 

この点は金田正一も触れており、「シゲシゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。凄い迫力だった」と語っている。

 

広島東洋カープの「王シフト」を生みだすきっかけとなった東洋工業のコンピューターは、当然長嶋についても同様のデータを分析したが、長嶋については特徴的な傾向が全く見られなかったため、「長嶋シフト」を作ることはできなかったという。

 

岡崎満義は、「王シフトを作らせ、それをものともせずホームランを打ち続けた王は本当に偉大。しかし同時に長嶋シフトを作らせなかった長嶋も凄い」と評している。

 

他球団野手には「顔の方向とまったく関係なく打球が飛ぶから守りにくい」と言われていた。

 

長嶋の空振りは脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んで行ったと言われる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。

 

三振した際の画を考え、わざと小さめで楕円形のヘルメットをアメリカから取り寄せ、ヘルメットの飛んでいく角度など空振りの練習をしていたこともあったという。

 

そのような豪快な空振りやデビュー時の4打席4三振などから三振のイメージが強いが、実際には三振は少ない方だった。

 

三振数の打数に対する割合.090は、通算400本塁打以上を放った15人の中では張本勲・土井正博に次いで低い。

 

また、400本塁打以上を記録した打者の中で三振率が1割を切っているのはこの3人だけである。

 

首位打者を獲得したシーズンはいずれも安打数でもリーグトップだった。

 

シーズン最多安打10回はプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。

 

また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回は全て1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。

 

6回の首位打者のうち2回(1959年・1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。

 

長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに1974年の現役引退後には打者に有利なラビットボールが普及し、翌1975年以降はセ・リーグの打高化が一気に進んだ。

 

そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクス(RC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。

 

打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことが分かる。

 

また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。

 

打率・本塁打・打点の部門において、「二冠王、残りの1部門がリーグ2位」のシーズンを1958年・1961年・1963年の通算3回残したが、これは王の5回と中西太の4回に次いで歴代3位の記録である。

 

通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回などは右打者歴代1位であり、通算2471安打は金本知憲に抜かれるまで長らく大卒選手の歴代最多記録であった。

 

セ・リーグ一筋で活躍し、通算において、二塁打・三塁打・長打・打点・犠飛数全ての右打者のセ・リーグ記録を保持している。

 

また、通算安打を実働年数で割った平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本・榎本喜八128本・福本豊127本・王貞治126本・大杉勝男117本・野村克也111本・衣笠祥雄110本・門田博光106本など他の一流打者の平均本数と比べても突出しており、現役時代は右打者ながらハイペースで安打を積み重ねた。

 

通算打率.305は7,000打数以上の選手中では歴代4位、8,000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。

 

大一番での勝負強さが印象付けられている。

 

日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。

 

日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。

 

2本塁打を放った天覧試合については、チームメートの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している。

 

1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。

 

捕手による「ささやき戦術」が全く効かなかったことも伝えられている。

 

野村克也は動揺を誘おうとしてバッティングフォームがおかしいと指摘したところ、長嶋は素振りをした後で次球をホームランしてしまい、ホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ唖然としたエピソードを紹介している。

 

また、辻恭彦には「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ! 野球をやれ野球を!」と怒鳴り、放屁で攻撃したことがある。

 

バッターボックスでの集中力の強さのあまり、打席に入った後の空振りでその辻の頭にバットが当たってしまい失神、それに気づくも「何やってんだ!」と思わず一喝したというエピソードも残されている。

 

大学時代、監督の砂押と共にジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、フランク・ロビンソンらの連続写真を研究し打撃フォーム、バットの構え方、スタンス、腰の回転などを徹底的に身に付けた。

 

また、バットは現役生活17年間のほとんどで、ルイビルスラッガーなどのアメリカ製を使用していた(三井物産経由の入手)。

 

苦手のコース・球種のない長嶋は、敬遠を受けることが多かった。

 

初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。

 

1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。

 

1960年の国鉄との開幕戦では、5回2死一塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。

 

村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。

 

同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。

 

また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。

 

そんな長嶋が比較的苦手にしていたボールとして内角のシュートがあげられる。

 

昭和40年代、プロ野球界ではサイン覗き(いわゆる「スパイ行為」)が広まっていた(元々は西鉄ライオンズの三原脩監督がサイン覗きをやらせたのがはじまりと言われる)。

 

野村克也が巨人から南海にトレードで来た相羽欣厚から伝え聞いたところによると当時、巨人ではキャッチャーのサインを見てベンチからの声でサインを伝えていたという。

 

それに対し、長嶋は「内角のシュートが来るときだけ教えてくれ」と言っており、野村は「内角のシュート」以外は教えてもらわなくても打てるということだったのだろうと語っている。

 

敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。

 

1968年5月11日の中日戦、2死ニ塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。

 

長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。

 

球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。

 

1971年6月17日の広島戦では、7回2死三塁という場面で、広島の井上善夫、水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。

 

3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。

 

スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった。

 

守備

【長嶋茂雄の伝説】ミスタープロ野球の華麗な守備プレー集!

普通の三塁手よりも1.5メートルほど後ろに守り、特に横(一塁側に向かうライン)の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。

 

長嶋は「あの範囲の打球は三塁手の最大の見せ場」と語っており、守備については打撃よりも「ファンと一体になれる守備のほうが好きだった」と述べている。

 

また、ゴロには15種類あると語り、捕るのが難しいゴロを簡単に捕球するのがプロだと述べている一方、「逆に盛り上げようと思って、何でもないゴロを難しそうに捕ったりしたこともありましたけどね(笑)」と振り返っている。

 

一方でフライについては1種類しかないと感じ、遊撃手の黒江透修に任せていた。

 

長嶋は「だってフライは遊びや芸を入れることができないから、捕っても面白くないんだもの(笑)」と語っている。

 

このように華のある守備で知られ、スローイングの後に右手をヒラヒラさせる独特の動作を行っていたが、これは歌舞伎の動きから取ったものであるという。

 

何でもないゴロをトンネルする珍プレーがテレビで取り上げられるなど、失策の場面がよく放送され、守備の名手として語られるより華やかさや面白さが多く話題に上る。

 

しかし実際は数値上では守備能力が非常に高い選手であり、通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象。角は通算1350試合・3296守備機会)に位置し、1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位となる。

 

デビューから晩年まで試合に出場し続け、7353守備機会をはじめ、試合数・刺殺数・補殺数・併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録で他の三塁手を圧倒している(全て三塁手のプロ野球歴代1位)。

 

シーズンにおいても、守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含めて三塁手リーグトップを通算8回(1958年 – 1964年、1967年)記録しており、当時の他の三塁手と比べると極めて突出した数値を残した。

 

1968年からプラスの数値が少なくなり、1970年以降は1973年以外の4シーズンでマイナスを記録しており、34歳以降から守備に衰えが見られる。

 

リーグトップを7年連続・通算8回は共に三塁手歴代1位の成績であり、プラスシーズンの合計値も三塁手歴代1位である。

 

数値からは、全盛期は打球をアウトにする能力が非常に高く、守備範囲の広い三塁手であったことが窺える。

 

シーズン214守備機会連続無失策という三塁手のプロ野球記録も保持している(連続シーズンでは2012年に宮本慎也が更新)。

 

立教大学時代、砂押が導入・研究したMLBのステップやグラブ捌きなど当時の最先端技術を取り入れ、練習していた。

 

若手の頃は僅かながら遊撃手や外野手としても出場している。

 

広岡達朗は長嶋の守備について「3年目までは上手かった。守備範囲も広かったし、凄い奴が入ってきたなと思ったが、4年目ぐらいから動けなくなった。」と評価している。

 

走塁

 

若い頃は大変な俊足と思い切りの良い走塁が持ち味のひとつだった。

 

ランニング本塁打を3回記録しており、1958年の日本シリーズでも記録している。

 

特に1960年7月17日の大洋戦では敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録した。

 

また、1960年8月21日の国鉄戦では、1死一二塁で王が打ち上げたレフトフライで、一塁ランナーだった長嶋は勢いよくスタートを切り、二塁に戻ろうとした二塁ランナーだった藤尾茂を追い抜いてアウトとなっている。

 

新人時代に4番打者も務めながら37盗塁を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。

 

しかし長嶋本人は「走ることは大好き」と言いつつも、「一塁から二塁への走塁はあまり興味なかった。一塁から三塁への距離感が大好きだった」と語っている。

 

長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。

 

長嶋は「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」と述べている。

 

現役時代の項で述べた「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きたという。

 

30歳前後になるまでは、単打性の当たりでも隙があれば積極的な走塁で果敢に次の塁を狙い、三塁打が多い一方で二塁打も多かった(通算418本は歴代7位、右打者では山内一弘に次いで歴代2位)。

 

リーグ最多二塁打通算3回というセ・リーグタイ記録も持っている。

 

ホームスチールを6回試みて2回成功させている。

 

その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。

 

その一方で敵チームの三角ベース事件も3回発見している。

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