概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1969年1月23日(52歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 181cm | ||
体重 | 80kg |
Andrei Kanchelskis
ポジションはフォワード(右ウイング)、ミッドフィールダー(右サイドハーフ)。
利き足は右。
”ウクライナ超特急”の異名を取る快足右ウィンガー。
ウクライナの出身でもあったが、ロシア代表を選択した。
マンチェスター・ユナイテッドで活躍し、1992-93シーズンには26年ぶりのリーグ優勝、1993-94シーズンのマンチェスター・ユナイテッド2冠の立役者となった。
獲得タイトル
クラブ
ディナモ・キエフ
- ソビエト・リーグ 1990
- USSRカップ 1990
マンチェスターユナイテッド
- プレミアリーグ:1992-1993-、1993-1994-
- FAカップ:1993–94
- フットボールリーグカップ:1991–92
- FAチャリティシールド:1993、1994
- 欧州スーパーカップ:1991
レンジャーズ
- スコテッシュプレミアリーグ:1998年から1999年、1999年から2000年
- スコティッシュカップ:1998年から1999年、1999年から2000年、2001-02
- スコティッシュリーグカップ:2001–02
代表
ソビエト連邦U21
- UEFA European Under-21 Championship:1990
個人
- サーマットバスビープレーヤーオブザイヤー:1994–95
- プレミアリーグプレーヤーオブザマンス:1996年4月
経歴
クラブ
ディナモ・キエフのユースを経て、1989年にディナモ・キエフでキャリアをスタートする。
スピード感溢れるドリブルですぐにリーグ有数の選手となる。
1990年にはシャフタール・ドネツクに移籍した。
そして、1991年5月にイングランド、プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドと契約。
1990-91シーズン終盤のクリスタル・パレス戦において、プレミアデビューを果たす。
マンチェスター・ユナイテッドでは主に右ウィングとして活躍。
カントナ、マーク・ヒューズ、ギグズ、ブライアン・マクレアーらと共に破壊力抜群の強力ユニットを構成。
独自の低い姿勢から繰り出す高速ドリブルに鋭いフェイントを駆使し、精度の高いセンタリングで数々のチャンスを生み出した。
また、左右両足遜色のないキックで高い得点力を備え、アタッカーとしても活躍。
左ウィングのライアン・ギグスとともに両サイドを幾度となく切り裂き、マーク・ヒューズ、エリック・カントナらのゴールを演出。
ギグス、ヒューズと共に形成する3トップの活躍もあり、1992-93シーズンには26年ぶりのリーグ優勝、1993-94シーズンのマンチェスター・ユナイテッド2冠の立役者となった。
1994-95シーズン、マンチェスター・ユナイテッドはアラン・シアラーを要するブラックバーン・ローヴァーズの前にプレミアリーグで屈する。
このシーズンのカンチェルスキスは故障がちであり、23試合の出場に留まるも、チーム得点王である14得点を挙げる。
しかし、度重なるアレックス・ファーガソン監督との確執、チームの世代交代の思惑もあり、翌シーズンにはエヴァートンに移籍した。
エヴァートンではトップに配置され、さらにその能力の高さを示した。
エヴァートン移籍1年目の1995-96シーズンは32試合に出場し自己最多の16点を挙げ、チームの中心選手として活躍。
1996-97シーズンの冬の移籍期間には、かねてからオファーがあり、右サイドハーフを欲していたセリエAのフィオレンティーナへ20億円を超える移籍金で移籍する。
1年目は期待されたが余りにも個人技に頼りすぎたプレースタイルは、プレッシャーの厳しいセリエAでは通用しなかった。
飛躍の兆しがみられた1997-98シーズンも序盤のインテル・ミラノ戦における怪我での長期離脱もあり、監督との折り合いも悪く、ほとんどインパクトを残せぬまま、1998-99シーズンにはスコティッシュ・プレミアリーグのレンジャーズへ移籍。
レンジャーズでは格の違いを見せつけ、98/99、99/00シーズンの連覇の原動力となる活躍を見せたが、ここでも監督との確執を理由に退団。
その後は、マンチェスター・シティ、サウサンプトンFC、アル・ヒラルと移籍を繰り返す。
母国であるFCサトゥルン・ラメンスコーエを経て、クリリヤ・ソヴェトフ・サマーラで2006年に引退した。
代表
ソビエト連邦代表として17試合に出場。
ソビエト連邦崩壊後はCIS代表としてUEFA EURO ’92に出場した。
CIS代表は、オランダ、ドイツと引き分ける健闘を見せたが、最終節のスコットランド戦で敗れたため、グループリーグ最下位に終わった。
しかし、カンチェルスキスは、右ウイングバックとしてハードなタックルと果敢な攻撃参加で活躍。
ロシア代表としてFIFAワールドカップ・アメリカ大会でも中心選手とみられていたが、本大会目前にイゴール・シャリモフ、イゴール・コリヴァノフ、セルゲイ・キリヤコフ、ヴァシリ・クルコフらとともに当時のロシア代表監督パヴェル・サディリンに反旗を翻し、出場をボイコットした。
オレグ・ロマンツェフがロシア代表監督就任後にロシア代表に復帰。
UEFA EURO ’96には、大会のダークホースのロシアのエースとして大会に乗り込むはずであったが、またしても代表監督のロマンチェフと衝突し1試合の出場に留まり、そのイタリア戦ではマルディーニに完膚なきまでに押さえ込まれインパクトを残すことはできなかった。
その後は、その神経質な性格が災いして、ここでもロマンツェフと衝突。
代表とも疎遠になった。
エピソード
リトアニア人の父親を持ち、ウクライナの出身でもあったが、ロシア代表を選択した。
強烈なパーソナリティの持ち主で、監督やチームメイトといざこざを起こすことは日常茶飯事。
そのため多くのチームを渡り歩いている。
所属したどのチームでも監督と衝突しないほうが珍しい選手だった。
2006年6月、彼は映画『Kompot』にカメオ出演した。
「ボールをジャグリングして、さらに2、3のサッカーのスタントをした」。
人気テレビシリーズ「Happy Together」のエピソードにカメオ出演している。
趣味は選手のシャツの収集とチェス、バックギャモン(アル・ヒラルでプレーしていた頃は、サッカークラブのスポンサーであるアラブの王子とよくチェスやバックギャモンをしていた)。
引退後は監督の道に進む。
プレースタイル
「ウクライナの超特急」という呼び名からもわかるように、快足を生かした高速ドリブルを武器に活躍したウイング。
疾風のごとく右サイドを駆け上がり正確無比なクロスによって多くのチャンスを創り出せば、自らも積極的にゴールを狙った。
得点能力も非常に高くトップをこなすこともできる。
ただ、あまりにも自ら能力に対して自信過剰であったため、強引すぎる突破を試みボールを失い、攻撃の流れを止めてしまうことも珍しくはなかった。