概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1973年10月7日(47歳) | ||
出身地 | ウーシマー県ポルヴォー | ||
身長 | 195cm | ||
体重 | 88kg |
Sami Hyypia
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「ビッグ・サミー」。
1992年から2010年まで長きに渡りフィンランド代表のディフェンスリーダーとして活躍した。
代表ではヤリ・リトマネンに次いで、歴代2位の最多キャップ数を誇る。
クラブではイングランドの強豪リヴァプールで活躍し2004-05シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ優勝にも大きく貢献した。
当時、プレミアリーグ最強のディフェンダーと称された。
獲得タイトル
クラブ
MyPa
- フィンランド・カップ:1992、1995
リバプール
- FAカップ:2000-01、2005-06
- フットボールリーグカップ:2000-01、2002-03
- FAチャリティー/コミュニティーシールド:2001、2006
- UEFAチャンピオンズリーグ:2004–05
- UEFAカップ:2000–01
- UEFAスーパーカップ:2001、2005
代表
フィンランド
- 北欧サッカー選手権:2000–01
個人
- UEFAチームオブザイヤー:2001
- 今シーズンリバプールプレーヤー:2001–02
- フィンランドスポーツパーソンオブザイヤー:2001
- 今月のプレミアリーグプレーヤー:1999年11月
- PFA年間最優秀チーム:1999–2000、2001–02
- フィンランド年間最優秀サッカー選手:1999、2000、2001、2002、2003、2005、2006、2008、 2009、 2010
- キッカー ブンデスリーガチームオブザシーズン:2009–10
経歴
クラブ
1992年にヴェイッカウスリーガのMyPaでデビューすると、いきなりレギュラーを獲得。
2度のカップ戦優勝に貢献するなど中心選手として活躍した。
1995年にはニューカッスル・ユナイテッドFCのトライアルを受けるも、結局はエールディヴィジのヴィレムIIへ移籍し、レギュラーとして活躍した。
1999年、移籍金260万ポンドでリヴァプールFCに移籍。
ジェラール・ウリエ監督の最高の補強と評価される。
1年目からレギュラーとなり、数々のタイトルを獲得。
2003年までキャプテンを務めた。
ステファン・エンショズとのコンビはプレミア最強のセンターバックと評された。
リヴァプールでは守備の中心選手として一時代を築く。
2004-05シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ優勝にも大きく貢献した。
翌年はFAカップの優勝に貢献。
晩年は若手の成長や自身の衰えもあり、ベンチを暖める機会が増えたが、空中戦の強さやディフェンスの統率力は依然として高いレベルにあり、バックアッパーとして貴重な存在であった。
リヴァプールでの最後のゲームとなった2008-09シーズン最終戦トッテナム戦では、応援席に巨大な『SAMI』という人文字が形作られ、多くのファンが彼の退団を惜しみ、勝利が確実となった84分にはスティーヴン・ジェラードとの途中交代でキャプテンマークを引き受ける形でピッチに立った。
リヴァプールFCでは464試合に出場デフェンダーでありながら、35得点を記録した。
2009年夏、出場機会を求めてバイエル・レヴァークーゼンに移籍。
2011年7月に現役を引退。
代表
1992年11月7日のチュニジア戦で、19歳にしてシニアチームにデビューした。
その後、フィンランド代表の中心メンバーとして、UEFA欧州選手権に5回、FIFAワールドカップ予選に4回出場した。
2009年8月12日に行われたスウェーデンとの親善試合では、フィンランド代表史上4人しかいなかった国際試合100試合出場という偉業を達成しました。
2008年、ヤリ・リトマネンの後任としてフィンランド代表チームのキャプテンに就任した。
最後の試合となった2010年10月12日のUEFAユーロ2012予選のハンガリー戦では、ホームで2-1の敗戦を喫している。
合計105試合に出場したヒーピアは、フィンランド人選手の中では、ヤリ・リトマネンに次いで、歴代2位の最多キャップ数を誇る。
エピソード
大人しく、読書や愛犬との散歩を好む性格で、クラブ内での人望は非常に厚かった。
その身長や温厚な性格、選手としての経歴からビッグ・サミーの愛称で親しまれている。
プレミアでの人気は高く、試合後のユニフォーム交換でヒーピアに駆け寄る選手が多数いる。
UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05でもバイエル・レヴァークーゼン戦ではベルント・シュナイダー、ユヴェントスFC戦ではパヴェル・ネドベド、リリアン・テュラム(2戦目)、チェルシーFC戦ではクロード・マケレレ、ACミラン戦ではマッシモ・アンブロジーニらにユニフォーム交換を求められている。
引退後
引退後はレヴァークーゼンでコーチとなった。
2012年3月、解任されたロビン・ドゥットの後任としてシーズン終了までの暫定監督に就任。
まだブンデスリーガ1部で指揮を執るライセンスを持っていないため、ユース監督のサシャ・レヴァンドフスキもベンチ入りする。
2013-14シーズンから単独で指揮する。
2014年4月、成績不振により解任された。
2014年6月6日、ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCの監督に就任したが、成績不振のため12月22日に辞任した。
プレースタイル
恵まれた体格を生かしたハードなマークで相手FWに仕事をさせず、また統率力にも優れた欧州屈指のセンターバックである。
冷静な判断力を持ち堅守を築くワールドクラスの守備者。
長身をいかした空中戦で絶対の存在感を発揮する。
空中戦勝利率はほぼ100%。
彼の前ではロングボール戦法など全く意味を持たない。
特に、ヘッドの強さ、巧さは抜群で、攻守にわたりチームの大きな武器でした。
しかも足元も悪くなくキャプテンシーも抜群。
抜群のリーダーシップでチームをまとめ上げる。